第二十五話あるいは幕間 密かに進行していた2年前から現在に至るまでの大司祭の陰謀、そして賢者の暗躍
十二話その一に数文字だけ登場した彼の、栄光と没落。
2年前。
貿易都市スピリルで、ロキソナ教大司祭プロフエンはこの世の地獄を見た。
(なにが"人形姫"だ。これは魔法などという生易しいものではない。
悪しき神々のわざではないか)
彼の浄眼には"視え"ていた。
『波止場の借宿』亭に飾られたぬいぐるみは、いずれも精霊が降ろされていた。
かたちを奪われ人間に使役される地位におとしめられたそれらが、意思と身体を得て蘇っていたのだ。
(このままアルティリア・ウイスプを捨ておけば、上古の時代の悪夢が蘇る)
これまでのプロフエンはお世辞にも大司祭に相応しい人間とはいえなかった。陰謀の限りを尽くして地位を確立させる一方、親から受け継いだ財産でもって酒池肉林の限りを尽くしていた。その結果が、豚のごとくたるみきった顔と身体である。「プロフエンに比べれば古神どものほうがよほど禁欲的だ」などと陰口を叩かれていた。
だが歴史を巻き戻しかねない危機を前にし、彼の中にわずかに残った聖職者としての矜持が不死鳥のごとく燃え上がったのだ。
(この醜い自分に浄眼などという過ぎたものが与えられたのは、きっとこの瞬間のためだったのだ)
パーティが終わり次第、帝都の大祭礼堂に戻ろう。この脅威に立ち向かうには派閥争いなどしている暇などない。和解が必要だ。
……彷徨える伯爵が現れたのは、その矢先である。
プロフエンは大いなる安心感とともに、若干の落胆を覚えた。彼は帝国の暗部にも通じている。伯爵がどのような存在なのかも把握していた。
(当然の帰結か。
アルティリア・ウイスプほどの力の持ち主であれば伯爵に狙われないほうがおかしい。彼女は氷漬けとなり、帝国と人間世界の平和は保たれる。これまで通りに。
しかし、伯爵は人目を避けて襲撃を行うはずだ。
このような衆人環視の中で事を起こすつもりか?)
伯爵は誰かの命を受けて動いているわけではない。
「いずれ還りくる姫君のため」という意味不明の、狂人なりの理法に従っているだけである。ならば前例のない行動もありうるのだが――
(なんだ、この嫌な予感は)
プロフエンは鼻をひくつかせた。
今日まで地位を保ってこれたのは、この勘ゆえである。
そして今回も彼の嗅覚は嘘をつかなかった。
「冥府魔道に堕ちた身なれど、今一度、貴女に仕える栄誉を許してはいただけませんか」
伯爵はアルティリア・ウイスプに跪いていた。
プロフエンは計算する。
アルティリア・ウイスプと人形たち、そして彷徨える伯爵。
加えて現ウイスプ公爵とロゼレム公爵も敵に回ったとすれば、勝ち目はあるものだろうか。
(いや、諦めてなるものか。帝国だけでは足りない?
ならば裏の世界も、海の向こうの国々も巻き込めばよいのだ。
いざとなれば異世界の扉を開く禁呪を使ってでも――)
その日からプロフエンは魔人アルティリア・ウイスプを打倒すべく動き始めた。世界中を飛び回り、必要とあれば犯罪組織の本拠地にすら直接赴いた。
……そうして2年が経過した。
プロフェンは今日までのことを振り返り、こう思う。
(主神様も私に味方してくれているに違いない。そうでなければ賢者殿に出会えるはずがないのだ)
まるで運命に導かれたかのようだった。
旅の途中、プロフエンは伝説上の人物に巡り合っていた。
遥かに遠い昔、暴虐の古神を葬り去った2人の英雄のひとり。
尽きぬ命でもって人間世界の平穏を見守り続けるとされる賢者――。
(あの方の力添えがなければ、この"十覇連合"は成立しなかっただろう)
正も邪も、清も濁も問わず、ただこの世界を守るべく手を取り合った10もの組織。さらに賢者殿の話によれば、マルガロイド王家には黙認の密約を取り付けてあるという。
「大司祭、決行は建国祭の7日前だ。
手に入れた生贄でもって"祟りて呪う魑魅魍魎"を顕現させ、アルティリア・ウイスプを消滅せしめる。
これで汝も英雄というわけだな」
「ですが賢者殿、かの万魔の王を使役することなど可能なものでしょうか」
「安心するがいい、大司祭。我輩の術式は完全だ。
――それとも、疑うのかね?」
断頭台の鎌のごとき視線に、プロフエンは平伏せずにいられなかった。
「め、めめ滅相もございません! 仰せの通りに! はい!」
* *
ひとは他者に運命をゆだねたとき、ひとではなくなる。
賢者はそう信じている。
プロフエンという名の男は、かつてまぎれもなくひとだった。
自らの意思でもって事態を動かし、アルティリア・ウイスプに対峙しようとしていた。彼が彼のままだったなら、あるいは賢者も力を貸していたかもしれない。
だが、プロフエンは主導権を手放した。
最初は賢者に一言二言相談する程度だった。それならば許容範囲だ。誰しも迷いを抱くこともある。それを晴らしてやるのはやぶさかではない。
やがてプロフェンは決断を避けはじめた。賢者の言葉がなければ動けなくなったのだ。
この男はもはやひとではない。見た目通りの畜生である。
賢者はそう切り捨てた。
「め、めめ滅相もございません! 仰せの通りに! はい!」
床にはいつくばる豚には目もくれず、賢者は儀式場から出ていく。
そこは錬金術師協会本部の地下である。エチゾラ派と呼ばれる一派が連合に参加しており、密かに場所を提供していたのだ。
暗い廊下を足音もなく歩みながら、賢者はひとり呟く。
「マルガロイド王家の黙認、か。そんなものがあればいいな?」
考える頭が残っているなら、ちょっとした矛盾から賢者の嘘をつきとめられたことだろうに。……もう遅い。
「ああ、いや、黙認といえば黙認か」
現ウイスプ公爵とカジェロと名乗る人形により、すでに王国は消極的な態度を決めこんでしまっている。当初は彼女を危険視して暗殺者を送りつける憂国の士もいたようだが、今ではすっかり"見て見ぬふり"である。
「十覇連合? 本当に加わっているのは一体いくつなのやら。半分もあっただろうかな。我輩も忘れてしまったよ。
"祟りて呪う魑魅魍魎"を顕現させる? カジェロと言う名でとっくに身体を得ていることを知らんのか。改めて召喚すればどうなるのだろうな。しかも即興で組んだ術式だ。思いもよらぬ結果になるだろうよ。くく、愉しみだ。ああ、愉しみだ」
賢者の真一文字に結ばれた唇が、雀の躍るがごとくに歪む。
やがてそれは哄笑へと変わっていった。
ロキソナ教
賢者ともう1人によって古き神々が死に絶えた後に生まれた宗教。信徒は全世界に渡っている。
主神ロキソスをはじめとした新神が地上を見守っているとしている。
なお、新神は虚構であり実在しない。