第十一話
『波止場の借宿』亭は「貿易都市の喧騒を離れた隠れ家」を売り文句にしていて、スピリルの中心部からは少し離れたわかりづらい場所にある。
私はこれまで何度もこの街に来ているけれど、正直、ちょっとここの場所には自信がなかった。エドモンが送ってくれなかったらエルスともども行き倒れになっていたかもしれない。
部屋の窓から見える海は橙色に染まり、輪郭のあやふやな太陽を飲み込もうとしていた。
夕闇が訪れつつあった。やがて夜闇に変わるだろう。
お父様もロゼレム公爵もまだ戻ってきてはいない。
「くぅ……」
ベッドではエルスが穏やかな寝息を立てていた。
2人で帰りを待つうちにウトウトして眠ってしまったのだ。
ここのベッドはすごくフワフワで、それこそ雲の上にいるような気分にさせられる。全力疾走でへとへとになっていたエルスがこうなってしまうのは仕方のないことだろう。
「すぅ……」
邪気のない寝顔でエルスは横になっている。
あまりにも無防備な姿だった。
……ちょっと、いたずらしてみたくなる。
私はハンカチをつまむと、その先を垂らしてエルスの鼻もとをくすぐった。
「うう……」
少し眉間にしわを寄せるエルス。
なんだか、ちょっと楽しい。
そのまま同じことを繰り返していると。
「うーん」
エルスは寝返りをうって逃げようとした。
起こしてしまっただろうか。
「……ずぅ」
大丈夫みたいだ。
ならば、とほっぺを突っついてみる。おお、やわらかい。女の私が嫉妬するくらいにみずみずしい。
いまだにエルスは起きるそぶりも見せなかった。
次はどうしよう。
そうだ。
彼の髪は原作だと「まるで獣のしっぽに指を通しているような心地」なんて描写をされていた。
確かめてみようじゃないか。
私は家で飼っている犬や猫を撫でるような手つきでエルスの髪に触れた。
おお。
おおおお!
すべすべふさふさだ。
エルスが全身毛むくじゃらだったとしたらモフモフしていたかもしれない。
……!
私は思いつく。
そうだ、次のぬいぐるみは雪男にしよう。ネッシーやスカイフィッシュも揃えてUMA軍団というのはどうだろう。楽しそうだ。
けれどそれにはまず今夜を乗り切らないといけない。
カジェロは手紙でこう伝えていた。彷徨える伯爵に気をつけろ、と。
エルスもこう口にしていた。何か悪いものが来ている、私を狙っている、と。
……あの怪物じみた伯爵はここ、貿易都市スピリルにいるのだろう。
原作では主人公の才能に惹かれて王都を訪れていたけれど、今回は私がめあてというわけだ。
予想外だなんて言わない。覚悟なんてとっくに済ませていた。
* *
前世の記憶を取り戻してから一週間、私は部屋に籠って考え続けた。
これからどうやって生きていくべきか。
"人形姫"としての力を伸ばしたなら伯爵に目をつけられる可能性が高い。氷漬けにされて彼のコレクションの仲間入りだ。
かといって原作通りにするとウイスプ家が潰れた時にどうしようもなくなってしまう。
伯爵が気に留めないギリギリの水準を見切る、そんな芸当はできそうにない。
腹を括ろう。
伯爵と対峙しよう。
私には原作知識という強い武器がある。
彼が徹底的な敗北の中で滅びるシーンを何度となく目にしている。
勝ち筋はいくらでも思いつく。
やってやろう。
まずは人形の数を増やすことから始めよう。
できればあちこちの街にも住まわせておきたい。どこで出会ったとしても大丈夫なようにだ。
* *
こんな性格だから私は男まさりだと言われてしまうのだろう。
「怖いの助けて」と涙してエルスやカジェロに縋りつく――それができたならもっと違った人生があったかもしれない。
でも、まあ、いい。
二番目の兄がよく言っていた。
――人は自分にしかなれないんだよ。
真実だと思う。
生まれ変わったものの、やっぱり私は私なのだ。
誰かに守ってもらえるお姫様に憧れてるくせに、結局それを選べない。
「あるてー……き……」
もにゃもにゃと寝ぼけて呟くエルス。
私が居なくなったら悲しむだろう。
カジェロや他の人形たち、お父様だってそうだ。
だから、うん。
頑張ろう。
* *
原作から考えるに、伯爵は私が一人きりになった瞬間を見計らって近づいてくるはず。逆にいえば会う場所と時をある程度こちらがコントロールできるということだ。
パーティが終わったら『波止場の借宿』亭を抜け出す。
そして罠を仕掛けておいた場所で伯爵と戦う。
原作より8年も早く、しかも主人公やエルスタットではなくかませ犬の私が伯爵を撃退してしまうことになるわけだ。なんだかちょっと面白い。
……後から振り返れば私の計画は穴あきチーズみたいにボコボコで完璧にはほど遠いものだったのだけれど、特に致命的だったのはこの3つだ。
ひとつめ。
伯爵は別に世間から身を隠してなどいないということ。
原作にはそんなシーンはなかったけど、設定資料集に「彼はときおり王侯貴族のパーティに姿を現してはその場の話題をかっさらっていた」なんて記述もあった。だから今から語るような可能性だって予想してしかるべきだったのだ。
ふたつめ。
伯爵が私をコレクション候補ではなく、大昔の恋人の生まれ変わりとみなしていたこと。
なるほど、だからあんな無茶をやらかしてくれたのだろう。恋の情熱というのは恐ろしい。
もしこれを事前に知っていたら他の手が打てたはずだけれど、さすがにそれは望み過ぎというものだろうか。
そしてみっつめ、これは私の愚痴みたいなものだけれど――
この世界の運命の神様は、争いというものをひどく嫌っているらしい。
「実は先ほど道に迷っていた時、偶然にも有名な人物と出会ったのだよ」
パーティの途中、ロゼレム公爵がそんなことを言い出した。
「これぞ神の導き、せっかくだからと声をかけさせてもらった」
かくして会場に招き入れられたのは誰かといえば。
「斯様に美しき姫君を祝う場に招かれるとは、千年の月日を重ねてきた甲斐もあったというものです」
それは闇を凝縮させたように黒い目と髪を持つ青年、その振る舞いは誰が見ても文句がつけようのないほどの気品と優雅さに満ち満ちていた。
会場のあちこちで感嘆のため息が漏れた。
「初めまして、人形姫。わたしの名はクリストフ・デュジェンヌ、彷徨える伯爵と言えばお分かりいただけるでしょうか」
完全に、予想外の展開だった。
こんな大勢の目があるところで、堂々と接触してくるだなんて。
ああ、もう。
ロゼレム公爵、なんて人を連れてくるんだ。
彷徨える伯爵が変わった才能の持ち主を氷漬けのコレクションにしているのは知っているはず……いや、知らないのか。設定資料集に書いてあった。デュジェンヌ伯は永劫の時を生きる人物として有名だが、その性癖については見事に隠し通している――。
とにかく、だ。
ここに伯爵が来てしまった以上、計画を変更しないといけない。
どうする、私。
次回、カジェロとファミリーとお父様が大活躍。ラブ多めの予定。