人喰い竜の掌中の珠
何を間違えたんだろう。
少し動いただけで汗が噴き出す暑い季節のはずなのに、緑と土のにおいがまじったやたらと涼やかな風に吹かれながら、アンディーはそう思った。
父と、亡き前妻の娘であるアンディーと、後妻である義母と、その娘、妹にあたるリディー。物語の中では疎まれてもおかしくない立場だったが、まさか現実でもそうなるとは考えていなかった。気を付けて気を付けて、行動してきたはずなのだが。
行商人である父が、商人の会合があると出て行ったのが多分だが昨晩のこと。それが不運だった。アンディーにとって嬉しくない方向への流れを唯一せき止めてくれていた父がいなくなった途端に、それは一気に襲って来た。アンディーが作った夕食を義母と妹とで囲み、そして……まあ、そのまま気絶するように眠りに落ちたわけだ。
起こした身体に不調はない。むしろすっきりと目覚めた朝のような爽快な気分だった。枝葉の間から見える太陽の位置からすると、既に昼に近いのだけれども。
周りはとにかくうっそうと生い茂る木々の群れ。ぐるりと一周首をめぐらせてから、それにしてもとアンディーは息を吐いた。
恐らく作った料理を運んでいる最中に、アンディーの皿に異物が混入されたのだろうが。
……劇薬じゃなくて良かった、本当に。
お世辞にも聡明とは言えない義母と妹のことだ。アンディーの排除に動いたならば、遺棄ではなく毒殺を計ろうとする可能性だって低くはなかった。だがそこは、あのいかにも怪しい三文占い師の知恵を借りたのか、もしくは見た目かわいらしい妹に籠絡された男が手足となったのか、アンディーの死体が手元に残る危険性を回避したのだろう。してくれたと言ってもいい。
アンディーとて、まだ死にたくはないのだ。ここがどこかなど分からない、というか一つしか浮かばない候補を断定したくないだけなのだが、とりあえず生きていることが重要だ。例えほんの少ししか自分の寿命を先延ばしにできていないとしても、今はまだ生きている。
―――実際、本当にアンディーの寿命は分かるか分からないくらいのほんの少し、延ばされただけのようだった。
家出というシナリオにする予定だったようで、アンディーの傍にはいつも持ち運んでいる袋が置いてあった。一応の着替えとタオル、中身が空の水筒、亡き祖母から受け継いだ編み物用具。中身はそれで全部だった。食べ物も飲み物も手元には無く、ぐっすり眠って空腹を訴える胃袋がせつない。
少し歩けばすぐに森の出口だったが、一目見ただけで一番受け入れたくない事実を受け入れることになってしまった。
―――人喰い竜の住む森。
この森は竜たちの聖域なため、魔物の類は入ってこられない。その分、森の外にはうじゃうじゃいる。一人歩いて町まで帰るなど、自殺と同じだった。アンディーが常に携帯していた魔物避けが抜き取られている辺り、決して戻って来るなという二人の声が聞こえるようだ。
魔物にばらばらにされたくなかったら、森にいるしかない。だがそれも、竜の胃袋に収まることと同じだ。
どうしようかと考えて、魔物の爪に引き裂かれるよりは人喰い竜に一呑みにされる方がまだ痛くなさそうだと、森を散策することにしたのだった。
そして、すぐに寿命の限界を見ることになった。
「……」
目前には、三頭の竜。青みを帯びた白色と、漆のような黒色と、木々の葉よりももっと濃い緑色。それぞれの色を持った鱗に覆われた身体。間近で見ると町の衛士たちが持つ剣よりもよほど鋭そうな爪。どれも磨かれたように光っていた。
ぱかりと開けられた口には尖った歯がずらりと並び、上の歯と下の歯を唾液が繋いでいる。顎からも溢れた唾液がこぼれ、地面に痕を作っていた。これはよだれ、なのだろうが、そんなにアンディーはうまそうに見えるのだろうか。見た目かわいらしくて出るところが出ている妹なら人間の男だってよだれものなのだが、ひょろんと縦に長くて全体的に凹凸が少ないアンディーは、もし自分が竜だったらおいしくなさそうだと思う。
だが目の前の竜たちがいかにも食べたそうなぎらぎらした目でアンディーを見ていることは間違いなく。
結局三頭で仲よく分けられるなら、魔物コースでも同じことだった。
どちらにしてもばらばらからは逃げられないとか。笑える。
とりあえず我が命運、ここで尽きたり、みたいな。
淡々と考えながら突っ立っていると、不意に頭の中で不機嫌そうな声が響いた。
『俺が喰う。てめえらは引っ込んでろ』
『また白殿がお食べになるのですか』
『そうだぞ!白ももうすぐお父さんになるのだから、父親らしい寛大さを身に付けたらどうだ』
『黙れ。出産祝いの生贄だ』
『白が産むわけではないだろう』
『私はずっと人間を食べていないのです。たまには譲ってくださいませんか』
『断る。俺が喰う』
白色の竜の口がぐわっと開けられ、アンディーの頭に迫った。なんか結局は丸呑みコースだったらしい。でもこの歯が刺さったら痛そうだ。痛みに備えるためにぎゅっと目をつむった時だった。
地面が震えるような、低く轟く唸り声が鼓膜に突き刺さった。
同時に、脳みそを揺らすくらいの大音声が頭の中で響く。
『―――この、若造がぁっ!!』
『うわっ!』
うっすらと目を開けた先、今まさに頭を喰いちぎろうとしていた白色の竜の身体がばあん、と突風に吹っ飛んだ。もちろん巻き込まれたアンディーも一緒に飛んだ。これは新しい地面激突ぐしゃりコースなのかと覚悟を決める。息を止めて、また目をぎゅっと閉じたのだが。……なぜか身体が空中で向きを変え、ふわりと足から地面に着地した。
「……?」
何が起きたのかと、きょとんと周りを見ると、細い切れた瞳が四つ、アンディーを見ていた。
『黒と緑は分かったか』
しゃがれた声に目を向けると、茶に近い濃い赤色をした新しい竜が横にいる。と、黒色の竜がぱちりと瞬きをして、頷いた。
『どおりで、勝手によだれが出るほどおいしそうだったわけだな!』
『かといって喰ったら腹を下すぞ。運が悪ければ精霊たちに集団で殺される』
『長殿はすぐに分かったのですか?』
『ああ、何百年か前にも見たことがあってな。……ちっこいの、名はなんという』
ちっこいの、とは自分のことか。初めて言われた。アンディーは同年代の人間女性の平均身長より高いのだ。まあ、竜たちから見れば人間は等しく小さいのだろうが。
「えっと、アンディー、と、申します」
少しかすれていたが、思ったよりははっきりとした声が出た。ついでにぺこりと頭を下げる。と、なぜか黒と緑の竜の頭もまねをするように同時に下がった。
『人間と言葉を交すのははじめてだぞ、緑!』
『そうですね。悲鳴以外の声を聞くのも初めてです!』
緑色の竜の瞳がすっと細められた。その目は意外なことに……優しかった。
『アンディー殿、と呼ばせて頂きますね。私のことは緑と』
とん、と頭に軽い感触がして、緑の竜の顎が一瞬乗せられすぐに離れる。
『私は黒でいいぞ!』
今度は黒の竜が近付いてきて、顎を乗せられた。
「わ、わわわ」
何が起こっているのか分からずに慌てていると、さらに驚くことが起こった。生温かくて湿った何かが頬を下から上へとなぞったのだ。
「え。な、な、」
それが緑の竜の舌だと気付く前に、反対の頬を黒の竜に舐められる。味見をされているようで、さあっと血の気が引いた。
「や、やっぱり……」
食べられるのか?
声にならない疑問を否定するように、優しげな声が脳内で響く。
『アンディー殿、先程は怯えさせてしまってすみませんでした』
「え?」
今現在怯えている最中なのだが。と、また頬を舐められた。応戦するように逆も舐められる。
『白殿や黒殿があなたを食べそうに見えたので、つい私も、取られるくらいならあなたを食べてしまおうと思ったのです』
『それは私の言葉だぞ、緑!お前と白が同時に来たからいけないんだ。……まあどちらにしても、取り合うことにはなりそうだがな』
ぼそりと呟かれた最後の言葉が聞き取れずに首を傾げていると、がさがさと音がして吹っ飛ばされた白の竜が戻ってきた。
『くっそ、じじい、遠慮なくやりやがって』
『お主がはやるからだ、この馬鹿が。気付かなかった点では他のやつらも同じだがな』
『ああ?何をだよ?』
『お主、危うく精霊に殺されるところだったぞ』
ちら、と赤の竜の視線がアンディーを向いたのにつられて、白の竜の視線も向く。目が合って、思わずまた頭を下げた。
「アンディーです」
『はあ?』
『すまぬな、アンディー。こいつは力だけが取り柄の馬鹿なのだ』
赤色の竜の顎が、頭に触れる。
『わしはこの森に住む竜たちを統べる長だ。そう呼べ。この動作は人間が握手したり頭を下げるのと同じだ。よろしくという意味だな』
『ちょ、何やってんだよじじい!?そいつ人間だぞ!!耄碌してんのか!』
『言うに事欠いて耄碌とはなんだ。気付かぬお主がど阿呆なのだ。黒と緑はもうやったわ』
『そうだぞ、白!精霊と聞いてまだ分からないのか?アンディーは精霊の御子だ』
『は!?』
「え?」
聞いたことのない言葉、だけど何となく凄そうな言葉に目を瞬いたアンディーと、白の竜の素っ頓狂な声が重なった。
『うっわ、そういうことかよ……』
『気付くのが遅い。わしが止めねばお主死んでおったぞ』
『げぇっ』
『もっとも、アンディー殿自身は知らないようですが』
『アンディー、少し聞くが、何か他の人間にはできないことができたりしないかね?』
思い当たることはある。しかし人前でそれをやれば、特に義母と妹の前でやればそれこそ碌なことにはならないだろうと気を付けてきた。
長に小さく頷いて、周りを見る。土、緑、水、日。それくらいだろう。
自分の指先に意識を集中させ、空中に線を描くように手を動かす。瞬間、いくつかの色を持った光が流れ星と似た軌跡を作った。きらめくそれらは元気いっぱいに明るく輝いて、弾けるように空中を彩る。しばらくたゆたった光たちは、最後にふわりとアンディーの髪を優しく揺らして消えていった。
『精霊たちとの同調か。久々に見たわ』
低く唸った長は、そうして白の竜を振り返った。
『これで分かっただろう、白』
『あ、ああ』
細い目を見開いて光を見ていた白の竜は、ぎごちなく頷いた。それから大きな身体には似合わない静かな足音で近付いてきた彼の顎が、恐る恐る頭に乗る。
『おいちび、俺は白だ』
ぶっきらぼうな声とは反対の優しげな動作に、少し虚を突かれた。
「あ、はい。よろしく、お願いします……?」
言いながら、自分の今後が崖っぷちと言えるほどに不安定なことに気付いて、言葉が疑問系な上に段々と尻すぼみになった。
食べられることは避けられたようだが、はたして彼らによろしくと言うのは合っているのだろうか。何と言っても彼らは王都から討伐隊が送られるくらいの人喰い竜なわけで。これから自分がどうなるかも分からないわけで。
不安げな表情が出ていたのだろうか。黒が心配するなと言うようにばしんと長い尾を振った。
『そんな顔をするな、アンディー。もしや親が恋しくなったのか?それなら人肌ではないが私が変わりに抱き締めてやろう!温かいぞ!』
『馬鹿かお前。腹が減ったに決まってんだろ。おいちび、人間は肉を焼いて食うんだろ。俺が仕留めて焼いてやる』
『人も水を浴びると聞きました。泉なら近くにありますから、案内しますよ?』
黒、白、緑のそれぞれの言葉に、不覚にも思わず泣きそうになった。だって、久しぶりだったのだ。たとえ人喰い竜と呼ばれて恐れられる存在であっても、こんなにアンディー自身のことを考えた言葉をくれたのは。
―――嬉しかった。慎重に、波を立てないように過ごしてきたあの日々が、過去に沈んでいく。それほどに嬉しかった。
泣きそうなアンディーの顔に焦ったのだろう。彼らの立派な尾が、所在無げに揺れている。
それを見た時、心は決まってしまった。未練も後悔も吹き飛ばす決定打だった。
―――もう、食べられてもいい。この竜たちの、傍にいさせて欲しい。
泣きそうな顔のまま、アンディーはがばっと頭を下げた。
「何もできない人間ですが、どうかお願いします。ここにいさせて下さい」
否定されたらどうしようかと、内心でびくびくしていたのだが、そんな不安は無用だった。彼らが口々に叫び始めたのだ。
『ああ?何だ、ちび。あの汚ねえ人間の所に戻るつもりだったのかよ?』
『許さないぞ、アンディー!お前の魂が汚れてしまったらどうするのだ!』
『そうですよ、アンディー殿。あなたはここにいるべきです!』
三頭の言葉をおかしそうに笑っていた長は、さらに泣きそうになっていたアンディーにそっと囁いた。
『誰もお前には手を出さないし、出させぬ。行く宛てがないのなら、ここにいればいい。若造共も喜ぼう』
「ありがとう、ございます」
絞り出した声は震えていて。でも、嬉しくて嬉しくて。
泣きそうな顔のままへにゃりと笑ったアンディーは、もう一度頭を下げた。
ヴェシルディウガス―――ヴェシルは、日の出前に、身体中の血がかっと熱くなるような甘い匂いに目が覚めた。柔らかなそれは、間違いなく人間の雌の匂いで。
人間の肉はうまい。それが、精霊が気に入るような綺麗な魂を持った人間だったら、さらにうまい。ずっと食べていなかったから、人間という生き物を身体中が求めていた。けれどおかしい。
食べたい。けれどその前に、欲しい。……欲しい。
『何だろうな、これは』
生まれて初めての感覚に、戸惑った。欲しいというが、一体何をどうしたいのだろう。分からないが、とにかく欲しい。喉が渇くように、その雌を求めていた。
その雌の傍には、汚い人間が三匹いた。それこそ精霊も近寄らない、汚い魂の人間。年齢からして肉はうまそうだが、魂が駄目だと味は半減する。食べたくない。その三匹は、雌を森の入り口付近に投げ捨てると、そのまま去って行った。良かった。領域に入った人間は問答無用で食べるが、できるならうまい人間がいいに決まっている。とすると、置いて行かれた雌は自分に捧げられたのではないかと、ヴェシルは思った。今まで見た人間の中で、一番美しい雌。
欲しい、欲しい。私のためだけの、美しい雌。
乞う思いが身体を震わした。頭が熱い。血が沸騰しそうだった。
けれど、求める思いとは裏腹に、その雌は一向に領域まで入ってこない。そのせいで、陽が上るまでヴェシルはお預けを喰らう羽目になった。その間にも目は爛々と輝き、息が上がる。彼女の存在を感じるだけで、ごくりと喉が鳴った。
他の二匹、特に緑の竜も同じようなことになっているだなんて、考えてもいなかった。
だからこそ、彼女が領域に入ったその瞬間に彼女の前に降り立ったヴェシルは落胆に襲われた。見慣れた二匹の竜も同時にそこにいたのだ。すっと冷えた感覚。淡々と、次に自分がどうするかを考えた。
―――白と緑に奪われるくらいなら、私が喰おう。
彼女の姿を目にして、理解していた。
小さな小さな存在。けれどその全てを知りたい。彼女と自分をどろどろに溶かして、混じりあいたいほどに。欲しいとは、そういうことなのだ。
食べてしまえば、彼女を知り尽くすことはできない。でも、一つになることはできる。そうだ、他の二匹に奪われるくらいならば。
白が本気で彼女を喰おうとした時、長が手を出さなければヴェシルがやっていた。だが、長が来たおかげで結果的に全てがいい方に動いたのだ。
顎を乗せた時の焦った仕草。
彼女が精霊と同調した時の姿。
不安げな顔も泣きそうな顔も、優しい声も。
可愛い可愛い可愛い。私の雌。私の、つがい。
彼女が他の人間たちの元へ戻ると言ったのなら、力ずくで留めておくつもりだった。彼女なしの自分は、もう自分ではない。
だが予想に反して、彼女は自分からこの森にいさせて欲しいと言ってきた。ヴェシルにとって、それは願ってもない話だ。
もう、私の傍から離れないで欲しい。もっとたくさんの仕草、表情を私に見せて欲しい。私の全てを見て欲しい。溶け出すほどに、知りたい、知ってほしい。
不満なのは、緑もどうやら同じことを思っているらしいということだった。素直な緑の目を見て、すぐに分かった。
雌が少ない竜族では、一匹の雌に数匹の雄がつがいとなることがあるが、ヴェシルと緑もこのままいくとそうなるだろう。逆に白にとって彼女は子供の感覚だろうし、長に限っては孫の感覚だ。長は別にして、一番強い白が参戦しなくてよかった。自分の他にもう一匹いるだけでも嫌なのに、さらにもう一匹など、虫唾が走る。
だがそんな不快な感情以上に、これからの長い年月に彼女がいると思うと、ヴェシルはたまらなかった。美しい彼女と共に、これからを生きるのだ。
近い将来、彼女に名を捧げよう。想像すると、心臓が耐えられないというようにどくりと鳴った。その時には、そう、彼女の口がヴェシルの名を呼ぶのだ。小鳥のような可愛らしい声で。
『……アンディー』
かすれた声で、小さく彼女の名前を呼ぶ。それだけでとろけそうな感覚だった。
アンディー、アンディー。愛しているよ、アンディー。