狼の魔女
“人狼は特別な皮をまとって変身するのよ、ヴェンヒェル。だから人狼が人の姿をしているとき、その皮を取り上げさえすれば、かれらは狼になれっこないの”
それはマリアのおとぎ話だった。おとぎ話のはずだった。
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せせらぎの音が聞こえる。肌寒さに震え、ヴェンヒェルは森の茂みのなかで上体を起こした。
しばらく気を失っていたようだった。
脱がされたらしき僧服はたたまれて傍らに置かれ、右腕の布はまっさらなものに取り替えられている。布の下からは新しい薬――おそらく蜂蜜にいくつかの薬草の煎汁を混ぜた軟膏――のにおいがしていた。
グートルーンの姿はない。狼剣も持ち去られている。
(また見失ったなど冗談ではない)ヴェンヒェルは立ち上がった。とたんに立ちくらみがしてハシバミの木にぐったりと寄りかかる。それでも、呼吸を落ちつけたのち僧服を身に着けて歩き出すのをためらいはしなかった。
ああ、冗談ではない。ようやく会えたのだ。
夕刻前の木漏れ日の下、一歩一歩腐葉土を踏みしめて歩く。
朦朧とする意識はいつしか、幼い日の記憶と重なった。
――兄さん、ぼく、もう稽古はいやだ。
木剣で打たれて泣きながらも前へ進んだ記憶。
ヴェンヒェルはバイエルン地方の貴族の家に生まれた。父はもとはバイエルン族の有力者であったが、敵であったフランク王国に帰順して、のちに皇帝となるシャルル王に仕えた。偉大なるシャルルに従って各地を転戦し、ヴェンヒェルが五歳のときついに戦場で没した。母も心労から病となり、夫の死後二ヶ月でみまかった。十も歳の離れた兄とヴェンヒェルは、後見人となった隣領の貴族の館で育てられたのである。
兄のメデリッヒはみずからヴェンヒェルに厳しく武術を指南した。
かれらの父が死んだ戦はメデリッヒの初陣でもあったが、かれはその戦で馬ごと倒れ、足を馬体の下敷きにして不具になっていた。脚とともに心もねじれたのだと人々は噂した――メデリッヒが年端もいかないヴェンヒェルに木剣を握らせ、毎日血まみれになるまで稽古で打ち据えるのを見て。
「泣くな。泣くよりも憎め。私を殺すつもりで木剣を振るえ」メデリッヒは泣いてうずくまるヴェンヒェルの髪をつかんで顔を上げさせ、幼児が歯を食いしばるまで頬を張り飛ばし続けた。「王は父上の功に免じて、おまえが十五の歳になれば入団試験を受けさせてくださるとおっしゃった。わが家門は元からのフランク人ではないのだ、戦って王に忠誠を示さなければわれらに名誉も価値もない……そしておまえはわが家門に残った最後の健康な男児だ。おまえは誰にも劣らぬ戦士となり、王の従士団に選ばれねばならない。おまえは私のような役立たずになってはならない。憎め、憎んで剣を取れ」
ヴェンヒェルは兄を憎まなかった。あざの絶えない日々だったが、稽古のとき以外では、ヴェンヒェルの頭を撫でる兄の手は温かったし……「私のような役立たずになってはならない」メデリッヒの口癖の叱咤には自分自身への怨念がこもっていて、それは幼児に兄への哀れみを抱かせた。
それに、マリアがいた。なによりも苦痛を和らげてくれたのは彼女の存在だった。
マリアは、かれら兄弟の後見人となった貴族の娘だった。ヴェンヒェルの五歳上、メデリッヒの五歳下。さほどの美人ではないが気性がはきはきとして小気味良くそれでいて優しく、笑えば周りを明るくさせる黒髪の少女。彼女はメデリッヒの弟に対する常軌を逸した武芸指南に批判的で、何度も調練場に飛び出してきてメデリッヒに食ってかかった。
彼女はヴェンヒェルの傷に薬を塗り、痛くて眠れないとぐずるかれを知る限りの歌とおとぎ話で寝かせつけた。武芸指南の合間、花咲く野辺に兄弟を連れ出し、花冠をかれらにひとつずつ作って贈った。女児の遊びにつきあうなど弟に悪い影響しかないとぼやくメデリッヒも、マリアに花輪を押しつけられるとむっつりしながらそれを受け取った。
本当の姉より姉のような少女――いつから彼女と結婚する未来を夢想しはじめたのか、ヴェンヒェルはよく覚えていない。十歳になる前には想いを自覚していた。淡いそれはしだいに具体的な夢となっていった。
いつか彼女に求婚しよう。
王の従士団に入って名誉を手にしたときこそマリアを妻に。
目的を得て訓練にはこれまでにない熱が入った。めきめき伸びて十二の歳にはメデリッヒを初めて打ち負かし、十三のころには不具者の兄に負けることはなくなっていた。あらためて腕利きの武芸指南役があてがわれたが、体格の急成長にともなってヴェンヒェルはその男の技量をも二年足らずで追い抜いた。
そしてシャルル王が皇帝となる直前、ヴェンヒェルは王のもとにおもむいてついに従士団の一員と認められたのである。
入団試験に合格してそのままアーヘンにある宮廷に出仕し、しばらくののち、ヴェンヒェルは故郷に一度戻った。亡父の地位を継いで領主となった兄メデリッヒの喜ぶ顔が見たかったし、マリアへの求婚を決行するつもりでもあった。
笑顔の帰省――その笑みは、浮かれた家臣たちからメデリッヒとマリアが結婚することを聞かされたとき消え失せた。ずいぶん前からふたりは、かれの従士団への入団を待って結婚式を上げるつもりだったのだと。氷が胸に入ったかのようにヴェンヒェルは心臓のあたりが冷えてゆくのを感じた。
やがて、寄り添うふたりがヴェンヒェルの前に現れた。メデリッヒは花輪を贈られた日のように怒ったような赤面で、マリアはあの日よりもっと顔をほころばせていた。ふたりとも、かつて見なかったほど幸福そうだった。それを見たとき氷は砕けて無数の刃となり、胸の内側に突き立った。
「ヴェンヒェル、おまえはわが家の、私の誇りだ」びっこを引いて近づいてきたメデリッヒにそう泣かれて抱きしめられたときも、ヴェンヒェルは冷たい痛みに切り刻まれていた。兄さん、あんたに決して同情しなければよかった。あんたの言うとおりあんたを憎めばよかった。
ぼくはあんたの悲願を叶えた、マリアはあんたの妻になった。あんたは今日そんなにも幸せいっぱいじゃないか、対してぼくは……
それでもヴェンヒェルは無理矢理に再度の笑顔をつくり、兄とマリアを祝福した。
婚礼が終わったその夜、かれは故郷を出た。
そして、二度と帰らなかった。
――今では、私もメデリッヒとおなじ不具者だ。しかもメデリッヒと違い、私の拠り所はなにもない……
いや。まだある。最初に襲ってきた狼の正体を解き明かすことだ。
そうだ、魔女グートルーンにどうあっても問いたださねばならない。最初に救われたあの日に起きたことを。私の同道者すべてを食い殺した巨狼のことを。
あえぎながらヴェンヒェルは小川に沿って進む。あてがあるわけでもないのに歩き続けたのは、予感があったからかもしれない。
やがて、遠くに広がる水のきらめきが瞳に映じた……木立の向こうに、泉の水面が見えたのだった。
ヴェンヒェルが岸辺に立つと、なぜか抜き身の剣とともに沐浴していたグートルーンは驚いた様子で泉の中からふりかえった。
彼女の身につけていた服をヴェンヒェルはまたいでいる。それらは泉の岸の草の上に置かれていた。
「無礼を許していただきたい。人狼は身にまとうもので変身すると聞いたからな」
硬い声で断る。もしも衣服が怪物と化すために必要な条件なのなら、彼女がそれらを脱いだいまこそは絶好の機会である。
かれをにらみつけ、グートルーンは白い裸身を両腕で隠した。ヴェンヒェルはその腕に視線を惹きつけられた。彼女の右手には抜き身のヴォルフザックス、剣先が下を向くように握られている。左手は……以前見たように、狼の前足だった。
こずえの葉のざわめきに合わせ、対峙するふたりに落ちかかる夕陽の斑がさゆらいだ。距離が近く、グートルーンの雪肌を伝う細かい水滴までが見て取れることにあらためて気づき、ヴェンヒェルは急に狼狽を覚えた。編まれていた彼女の焦げ茶の髪はいまはほどかれて、濡れて肩にかかっている。腕ではとうてい隠しきれない実った胸や艶美な腰の曲線は、皇帝が所有する古のローマの裸婦像に似て、加えて息苦しいほどに妖しく生身の質感をたたえていた。
(子供ではあるまいし何をいまさら裸などに動揺している。これは人狼姫と呼ばれる魔女だ。本物の人狼かもしれないのだぞ)
みずからに言い聞かせたとき、冷たい水に浸かっている彼女がぶるりと震えた。それをきっかけにヴェンヒェルは早口に言っていた。
「手当てに感謝する……貴女にはそれをまず言いたかった。最初のときも先刻も、貴女は私を治療したが、私が目覚めて礼を言う前に姿を消していたからな」
女は蒼い瞳でかれを見ている。静かなその目に気圧されそうになりながらも、ヴェンヒェルは続けた。
「だが、それとこれとは別だ。問いたいことがある。つまり……貴女なのか? 巨大な狼に変じて、または操ってわが同胞を殺したのは」
「いいえ。どちらでもないわ、あなたたちを襲ったのはわたしや仲間ではない」
即座に、きわめて明快に彼女は否定した。
その一瞬、ヴェンヒェルの胸にこみあげたのは安堵だった。グートルーンが仇でなければよいと自分がずっと期待していたことにかれは気づき……(たわいもなく信じてどうする、馬鹿者め)苦い表情となってヴェンヒェルはさらに追求した。
「しかし、アルヌルフ卿は貴女の犯罪だと言っている」
「アルヌルフの嘘を丸呑みにしたければそうすればいいわ。あんな卑劣な男でも、自分と同じキリスト教徒だというだけで信じられるのならば」
「いまではまったく信じていない」ぽろっとあまりにも簡単に自分の口から出てきたので、ヴェンヒェルはむしろ驚いた。
「私はさきほど、また巨大な狼に襲われた。あの狼は……仮に人の化けたものだとするならば、あれはおそらくアルヌルフだ。
あの狼は館から追ってきた。とび色の、アルヌルフと同じ瞳を持ち、かれの従士団たる狩狼官を動かしていた」
それを聞いて「やはりあの男、人狼に……」とグートルーンは眉を寄せ、下唇を噛んだ。その怒りと悲嘆をにじませる表情をけげんに思いながらも、ヴェンヒェルは「だが」と指摘した。
「貴女が潔白だとも言い切れない。
なぜなら、先刻の巨狼と、最初に私を襲った狼とは別だからだ。人狼だとするならば二頭いるのだ。
そして最初に現れた巨狼は、蒼い瞳を持っていた。あなたの瞳とまったく同じの……誰だ、そこにいるのは?」
かすかな物音が四囲のしげみから耳に届いたのである。
肌を粟立たせて見回すや、獰猛な牙、牙、牙の疾風がヴェンヒェルへと殺到した。歯を剥いた狼たちは木立から飛び出し、かれの喉を、腕を、背を脚を下腹を狙って飛びかかった。ヴェンヒェルはとっさに身を返して、跳躍してきた先頭の狼を空中で叩き落とそうとした――が、横手からの一頭に足に体当たりされ、背後からは僧服のすそに食いつかれて引っ張られ、あおむけにひっくり返った。
「エーゴン、咬んではだめ。他のみんなもやめなさい」
落ち着いた声で女が制止しなければ、胸にのしかかるエーゴンと呼ばれた一頭にヴェンヒェルは喉を食いちぎられていただろう。狼群は不気味にうなりながらもかれを無傷のまま押さえつける。
剣を岩に置いて泉から上がった女が自分のマントを手にとる。手早く優雅に体にまとい、いったん置いていた剣をふたたび手にした。グートルーンの冷たいまなざしを受けてヴェンヒェルはマリアのおとぎ話をまたひとつ思い出した――女神の沐浴を見たがゆえ猟犬に八つ裂きにされたという狩人の話を。
しかし狼にかれを引き裂かせはせず、剣で刺しもせず、グートルーンは重ねてきっぱり否定した。
「あなたの見たという蒼い瞳の狼についてはわたしは知らない。そのような人狼がいるのなら、その者もまた裁かねばならない」
「裁く……?」
「多くのよそ者と同じく、あなたは誤解している。わたしたちの血族にはたしかにわたし含め、肉体に狼の部分を持って生まれてくる者がいるし、そういった者たちは狼と心を通わせ、使役することもできる。
そして、みずからが狼に変じる方法もたしかにある。
でも変身は部族法で厳に禁じられた、呪われた行いだわ。刑罰は死刑しかありえない。人狼となった者は例外なく殺されねばならない、まして人を食い殺したとあらば。
わたしは古い掟を守り、そうなった者を裁かねばならない。かりそめとはいえヴォルフスブルクの女領主の身だもの」
「人狼に変じる方法とは?」
複数の狼に踏まれたままヴェンヒェルは地面から訊く。グートルーンはすぐには答えず、魔剣ヴォルフザックスの銀の刃に視線を落とした。
「……アルヌルフの所業によって、この剣は穢されすぎた。聖なる泉でいくら清めても、こびりついた犠牲者の悲嘆をぬぐいがたいほどに」
彼女は自分の狼の腕をかかげてみせ、
「ヴォルフザックスを使って、同じヴォルフスブルクの血族の、狼の部分の皮を剥いで集める。全身を覆える量の狼皮をまとったとき、その者は巨大な狼に変じる力を手に入れるわ。
アルヌルフはわが父、わが叔父、わが夫、その他数多の同族を殺した。そのとき、おそらく遺骸から狼の部分を剥いだのでしょう」
陰惨な話にヴェンヒェルは、迫りつつある夕闇が急に濃くなった気がした。
グートルーンはヴォルフザックスを横薙ぎに振り、しずくを切る。
「この二、三年、ヴォルフスブルクの民が正体不明の巨大な狼に食い殺される事件が数月置きに起きたわ。わたしもわたしの従士団もアルヌルフを人狼だと確信している。あなたも同様に感じたのでしょう、キリスト教徒よ。
兵数で負けている上、これまでは狼を退けるこの剣がアルヌルフの手にあったためにこちらから反撃はできなかったけれど……剣は今日わたしの手に帰った。これで流れが変わるかもしれない」
「私はバイエルンのヴェンヒェル」
かれがあらたまって丁寧に名を告げるとグートルーンは目をしばたたかせた。
「なんですって?」
「ヴェンヒェルと名を呼んでいただけないだろうか、できれば」ペンダのようなことを言っていると自分でも思ったが、彼女にキリスト教徒と呼んでほしくはなかった、どうしてか。
あっけにとられた顔つきで彼女も名乗りを返す。
「……わたしはグートルーン」
「グートルーン殿、貴女の言葉は曇りなき真実のようだ。そうなると私は貴女に対し、何度も救っていただいた借りしかない、それとさっきはたらいた無礼しか。だからどうか私を連れて行ってくれまいか。貴女に恩を返したい。わが持てる力を尽くすことを誓う」
彼女に顔を向け、ヴェンヒェルは厳粛な口ぶりで申し出た。ぴんと背筋を伸ばし、おのが心臓の上に手を置いて。
自分を襲った人狼についてもむろん探り続けるつもりだが、どのみちアルヌルフのもとに帰って探るわけにはいかないのだ。
返事を待つ。ややあって、予想外のことに、女は狼手を口に当ててくすっと笑った。
「律儀なのはいいけれど、寝っ転がりながら堅苦しく言われても」
主の雰囲気が和らかくなったことを感じてか狼たちがうなりやめる。エーゴンが舌を垂らしてへっへっとあえぎながらヴェンヒェルの胸板に座りこむと、その光景がさらに笑壺に入ったようでグートルーンは吹き出し、我慢しきれないというように上体を折って腹を抱えた。
「あはっ、あはは、真面目なのに面白いかた……!」
明朗な笑い声が落日前の森の水辺に響く。憮然としないでもなかったが、ヴェンヒェルはそれよりも彼女の笑顔に見とれていた。
このひとは少年のように笑うのだなと感じながら。