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狼の剣

狼城(ヴォルフスブルク)

 鹿の肉をナイフで切って取り分けつつ、昼食の席でアルヌルフはヴェンヒェルに説明した。館の上方にある丘の一角を指さして。

 それは土塁と人の背丈ほどの石壁で囲っただけの場所だ。

「あれがこの土地の由来だ。大挙して敵がやってきたとき、周辺の女子供はあそこにこもってやり過ごす。そのあいだに男たちが敵を追い払う。古来、ずっとそうしてきたのだ」

 古ゲルマンの風俗を受け継ぐザクセンの地において、領主館(ホーフ)(ブルク)は分かれている。領主が塔や高い壁を備えた城に住むのはのちのちのこと、この時代においてはブルクとは襲撃を受けたときの人民の避難所であった。

 ヴェンヒェルはいちいちうなずく。若いとはいえ皇帝従士団のかれにはさして珍しくもない設備だったが、現在は武備のことなどろくに知らない僧のようにふるまわねばならない。

 ただ、ひとつだけ詳しく訊きたいことがあった。

「アルヌルフ殿、敵とは?」

「ここでは家々と畑以外は森に覆われている。森は獣で満ちている。

 敵対する部族の襲撃もたまにあったが……一番の敵は狼の群れだよ、御坊。そしてまた、狼を操る妖術師の一派だ。あの女のようなな」

 グートルーンのことにアルヌルフが言及しはじめると、ヴェンヒェルは最大の関心をもって耳を澄ませた。

「この土地で長く私の家系が領主であったのに対して、グートルーンの家系は代々、狼をしたがえる異教の神を(まつ)る家柄だった。

 御坊、狼に襲われたあとグートルーンに会ったといったな。彼女の腕が狼のそれであることには気がつかれたか」

「はい。あの異形の腕はなんなのです。彼女だけですか」

「彼女だけとは限らんな。アンチキリストの輩は、ヴォルフスブルクじゅうに散らばっている。グートルーンの父やその夫つまりわが弟など、多くの者が、肌の一部が狼の毛皮であったよ」

「その者たちは――」

「叛徒だからな。大部分はとうに殺した」

 森の木を伐ったとでも告げるように、同族殺しのことをアルヌルフは軽く言った。ヴェンヒェルはぎょっとしてかれを見つめなおす。「グートルーンをはじめまだ潜んでいる叛徒もいるが、多くは残っていないはずだ。私は森にひそんだきゃつらを追いつめて必ず狩り出し……」ぶつぶつ洩らしていたアルヌルフはヴェンヒェルの瞠目を見て失言に気づいたようだった。領主は気まずげに咳払いした。

「やむを得なかった。わが弟やグートルーンの父は、真実の神に改宗することを拒んだのだ。それすなわち皇帝陛下に逆らうことだ。

 神の教えと皇帝陛下の御稜威(みいつ)を守るため、ヴォルフスブルク全体の安全を守るため、私は十字架に帰依した領主としてやるべきことをやらねばならなかった。すなわち異教徒の排斥を」

 言い訳がましい台詞にヴェンヒェルは息苦しさを覚える。

(この男、ただの田舎領主だと思っていたが、とても冷酷なやつだ)

「……アルヌルフ殿、巨大な狼に私たちは襲われました。あれはなんなのです」

 話題を戻すと、ほっとしたようにアルヌルフはそれに飛びついてきた。

「ヴォルフスブルクの人間は狼の毛皮を一部に持つ者がいると話したろう。そのなかでもグートルーンの家系は呪われた血が濃かった。

 彼女らは狼の群れを操る。そして、ときにはみずから巨大な狼に変じるのだよ。キリスト教徒の肉を好む呪われた人狼に」

 キリスト教徒の肉を好むのは夫や父を殺されたからではあるまいか、とヴェンヒェルは包帯で胸前に吊り下げた右腕をさすりながら思った。

(かの女とあの巨狼が関係あるならば……われわれ一行が襲われた理由はそれと無関係ではないだろうな)

「……アルヌルフ殿、私は彼女に会ってみようと思います」

「ほう? グートルーンにか」アルヌルフは目を丸くしてぱちぱちさせた。

「ええ。彼女にキリストの教えを説いてみましょう。昨日までの敵を良き隣人に変えるのがわれら教会のしもべの役割ですから。つきましては、山への道案内を領民のどなたかにお願いしたいのですが」

「御坊、言ってはなんだが……狩人も木こりもおののいて引き受けんよ、そんな危険な役割は。それに言わせてもらうが、あんたはたちまち彼女の狼に八つ裂きにされるだろうよ」

(どうだろうな)

 グートルーンがかの巨狼もしくはその主だとして、一度わざわざ救った彼の命をまた奪おうとするだろうか? もしそうしてきたら反撃するまでで、かなわず殺されてももともとの結末である。ただ口に出してはこう言っただけだった。

「殉教は望むところです」

 やはりキリスト坊主はなべて狂っているとアルヌルフは思ったにちがいなかった。「御坊の伝道の意志は尊い。だがやめていただきたいな」かれは苦い顔をした。

「御坊には怪我が完治するまで館にとどまっていてほしいものだ。近々、私は叛徒どもと狼どもを一掃するつもりでいる。私は私の従士団を狩狼官(しゅろうかん)として編成した。

 最後通告も数日前に終えてあるのだぞ。それで悔い改めて改宗するどころか、やつらはなにをした? やぶれかぶれとなったのか知らぬが、御坊の随従たちを襲ったではないか。

 責任をもってその仇をわれらがかわりに討っておく。このように」

 鹿肉のかたまりにどすん、と上からナイフが突き立てられる。黙っているヴェンヒェルの前でぎこぎこと肉を切り、「叛徒どもを滅ぼした暁には」とアルヌルフは得々と展望を語った。

「私は皇帝陛下のためにこの異教の風俗濃い土地ヴォルフスブルクを作り変える。

 この地には狼が多いが、それは鹿や猪など獲物が多いからだ。狼さえ消えれば、ここは人にとっても最上の狩場となるのだよ。狩り好きという皇帝陛下がこの地を気に入られたならば、私はこの地をかれの直轄領として差し出そう。そしてあらためて帝室の代官としてこの地を任せてもらおうと思っている。忠誠の証、そして今回陛下の従士団の者を巻きこんでしまった贖罪(しょくざい)も含めてな。陛下は寛大だ、それで許してくださろうよ。

 そら、御坊、鹿の焼き肉はもっといかがかな?」

 突然、ヴェンヒェルは領主の前にいることをたまらなくいとわしく感じた。どう言おうとこの強欲な男はみずからの同族を殺戮し、己の利益をむさぼろうとしているのだ。

「失礼、怪我が傷むゆえ、拙僧はこれにて休ませていただきたく……」

 それでもどうにかヴェンヒェルは礼儀をたもって去りかけた。あとは自分でどうにかしてグートルーンに接触しよう、と思いながら。

 その背に低い声がかけられる。

「御坊」

 ふりむく。たじろぐ。アルヌルフから穏やかならざる雰囲気を向けられていることを感じとって。

「聖なる(ことば)の一片なりと唱えていってくれぬかな。草深い地に住まうこの野人に、教会の言葉(ラテン語)で」

「……祝福を求めておられますか」

「しかり。俗人はたとえ言えてもみだりに唱えるものではないというが、本日はこうして御坊がおわすのだからな。さぞ厚かましいと思ったろうが、これでも十字架のために狼どもと戦う身だ。この機会に魔を祓う聖詞に浴しておきたい」

 アルヌルフの頬は柔らかく笑みを刻み、声は穏やかだった……しかしその目はどんな反応も見逃すまいとヴェンヒェルをねめつけていた。

 手のひらに汗がにじむのをヴェンヒェルは感じた。本物の僧かどうか疑われている、と気づかざるをえなかった。アルヌルフはこちらが聖詞を言えるかどうか試しているのだと。いったいなぜ? どこが怪しかった? それを考えている暇はなかった。

「……大天使聖ミカエルよサンクテ・ミカエル・アルカンゲレ、戦いにおいて我らを守護し(デフェンデ・ノス・イン・プロエリオ)、魔の悪しき意図を破らしめたまえ(コントラ・ネクィチャム・エト・インシディアス・ディアボーリ・エスト・プラエシディウム)……」

 戦勝祈願のミカエル讃詞を読み書きついでに学ばされていて助かった、とヴェンヒェルは唱えながら強く安堵した。時代はまさに西ローマ崩壊以来の文化復興期カロリング・ルネサンス、皇帝シャルルが賢者アルクィンをまねいてみずからの宮廷にラテン語習得はじめとする学問の風を吹かせ、臣下の素養を高めんと試みているころであった。その試みは大きな効果をあげた。蛮族と変わらなかった野卑な戦士たちはいくらか洗練されてのちの「騎士」となる端緒をつかみ――そしてこの場ではヴェンヒェルは身につけた教育によって窮地を切り抜けたのである。

 唱え終わってヴェンヒェルはアルヌルフを見つめた。

「まだ必要ですか?」

「……いや、もうよい。礼を言う」変わらぬ笑顔でヴォルフスブルクの領主は手を振った。だが今度こそ遠ざかるあいだも、ヴェンヒェルは背後からぶつけられる疑いの視線を感じていた。かれは舌打ちをこらえた。


 それにしても……ヴォルフスブルク、狼“の”城という名は、狼から身を守るための城ではなく、狼が所有する城という意味に聞こえる。


    ●   ●   ●   ●   ●


 闇に他者の息づかいが混じった。

 かれの体に何者かが手を伸ばした瞬間、ヴェンヒェルは目を覚ました。領主館の外、あてがわれた小さな丸太小屋のわらの寝台で。

 覚醒と同時に回転してはね起きる。凍りついた侵入者を左腕でつかむ。床にひきずり倒し、ひざで体重をかけて動けないように組み敷く。それからようやく「だれだ」と詰問した。

「な……なにすんだっ」

 怒りの声は押し殺されていた。高窓から差しこむ月明かりに照らされた相手を見て、ヴェンヒェルは息を呑む。白のチュニックを身につけた相手は十三、四ほどであろう黒髪の少年であった。頭には、三角形の獣の耳が並んでいた。気丈ににらみあげてくる瞳はとび色。

(ヴォルフスブルクの住人は、外見に狼の部分があらわれるといったな)

 いやでもあの巨狼の記憶を刺激される――くらくらとめまいを感じながら、ヴェンヒェルは少年を押さえこむ力をいっそう強めた。

「なにをするだと? それはこちらの言うことだ、子供。夜更けに武器をたずさえてなんのつもりだ」

 少年は胸に大きな剣を抱いていた。ただそれは抜き身ではなく、柄とおなじくらい古めかしい装飾のほどこされた鞘におさまっている。

「上からどけよ! あんたに用があって来たに決まってるだろ」

 苦しがってもがく子供の顔をしばし眺める。(不具の身にはなったとはいえ、こんな子供にやすやす殺されはせぬぞ)(はら)を決めて少年を自由にしてやった。少年は身を起こして罵声を放ちかけたが、大きく息を吸ってほこりを胸に入れたのか咳き込みだした。その際に、からんと音を立てて剣が床に転がった。

 ヴェンヒェルはその剣をひろおうとして、眉をひそめた。抱いた違和感はすぐに驚愕に変わり、剣からすぐさま手を放す。ようやく咳をおさめた少年がにんまりした。

「ふふん、持ち上げることもできないくらい重かっただろ。取り上げようたって無駄だよ、そのヴォルフザックス(狼剣)はヴォルフスブルクの血族以外の手を嫌うんだから」

「子供よ、おまえはなんなのだ」

 声をいっそう低くして、ヴェンヒェルは少年に目を据えた。

「おまえなんて呼ぶな。ペンダだよ」

 謎の少年ペンダは、ヴェンヒェルが持てなかった剣を信じがたいことにやすやすと持ち上げた。そして、瞳に焦りを浮かべて言い募った。

「いまは説明してられないんだ。あんたを呼んでる人がいるんだ、はやく来てもらわないと」

 ペンダの胸に抱きなおされた剣を凝視しながら、ヴェンヒェルは呆然と繰り返した。

「私を呼ぶ者?」

「あんたの怪我を気にしてる」

「そいつは……誰なんだ」

 ヴェンヒェルはようやく顔を上げた。不思議な剣のことを問いただしたくてたまらなかったが、後回しにせねばならないかもしれない。こいつはもしかしたら私を治療したあの女の使いではないか、そう思ったのだ。はたして、

「あんたも知っている人だよ」

「……やはりか。なんの用だ」

 しかしペンダは質問を重ねるヴェンヒェルの慎重さを消極性のあらわれと受け取ったようで、焦れきったように地団駄をふんだ。

「来てくれなきゃ、服を脱いで大声を上げてやる。あんたに手ごめにされそうになったって騒いでやるからな」

 目を剥き、あやうく失笑しかけ、ついで馬鹿馬鹿しくなってヴェンヒェルは鼻を鳴らした。

「……私はよほどの助平坊主ということになるだろうな。神の定めたもう倫理と右腕の怪我の双方をかえりみず、赴任先でいきなり罪を犯そうとしたわけだ。それもよりによって、はねまわる風精(シルフ)同然に手を焼かせるおまえのような……」糞餓鬼、と僧らしからぬ汚い言葉を吐きそうになってあわてて訂正する。「……おまえのような元気な子供を、不自由な体で小屋に引きずっていってまで。いかに私がよそ者とはいえ、信じるやつがいるのかな?」

「効果はあるよ、ぜったい」

 自信たっぷりにペンダは狼の耳をうごめかせ、

「あんたはほんとうの司祭じゃないだろ。司祭テウデベルト様の名を騙る偽者だから。それを暴露したらみんなどう思う?」

 息が止まった。

 こわばったヴェンヒェルの体に手をかけてペンダは彼を揺らし、急かしてくる。

「はやく来なってば。あんたここにいたら危険なんだから」

「危険だと? なにがだ」

「父上だよ。騙されたことに気づいたら、父上があんたを生かしておくと思うの? 皇帝の従士団だなんて関係ないんだよ、あのひとでなしの親父はやると決めたらやるんだから」

「……アルヌルフの子か」

 ヴェンヒェルは一歩あとじさる。やはりこの子は私が偽者だと知っている、アルヌルフのように疑って(・・・)いるのでさえなく知って(・・・)いる。グートルーンから聞いたのだろうか……でなければなぜ、この子はかれを自分の父親から引き離してグートルーンのところに連れて行こうとする?

(いや……なんでもいい。あの女にもう一度会えるのならば)

 これは好機だ。罠だとしても。


 この時点で、ヴェンヒェルはいくつもの勘違いをしていた。

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