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リグレット・コレクター  作者: 天そば
第一章 文化祭前日
6/42

前日の帰宅後

4 (嶋良次1)


 家に着いたのは九時前だった。ただいま、とドアを開けると、風呂から上ったばかりなのか、髪を濡らして首にタオルを巻いた弟の勇太郎ゆうたろうが居間のテーブルで牛乳を飲んでいた。


「おかえり良次兄ちゃん。遅かったね」

「明日から文化祭だからな。今日はいつもより長めに居残り練習してた」


 本当はそれだけじゃない。駅で一樹と話していたのもあるんだけど、そのことは言わない。どんな話をしていたの、と尋ねられるに決まっているからだ。

 狭い三和士たたきで靴を脱いで家に上がる。目の前に広がるのは、八畳ほどの広さの台所付きの居間。中央に勇太郎の座っている食卓テーブルがあって、その奥と右手にはそれぞれ襖があり、隣の部屋とを仕切っている。左手には台所とトイレ、風呂。決して広いとも綺麗とも言えない造りだけど、団地だからしょうがない。


「お風呂、いまは母さんだから」

「わかった」


 勇太郎のいるテーブルを過ぎ、その奥にある襖を開けると、居間の半分ほどの広さの和室が顔を出す。母さんの寝室だ。ここを通り抜けた隣の部屋が、俺と勇太郎の寝室になっている。

 母さんの寝室には、洋服箪笥と化粧台、それから、簡素な造りの仏壇がある。その仏壇の前を通り過ぎるとき、俺は父さんの遺影に向かって、ただいま、と声をかけた。

 当然だけど、返事は返ってこなかった。


     *


 父さんが亡くなったのは、いまから七年前のことだった。雨の日に道で転倒して頭を打ち、そのあと、搬送された病院で息を引き取った。

 当時小学生だった俺は、人はこんなことで死ぬのかと呆然としたものだった。そして、葬儀が終わって少し冷静になれた頃、もう野球はできないんだろうなと思った。


 専業主婦だった母さんはこれから仕事を探すだろう。でも、どこかに就職できたとしても、父さんの穴をすべて埋められるとは思えない。子どもに野球をさせられるほどの余裕は作れないはずだ。幼かった俺でも、野球というスポーツはひどく金がかかることは知っていた。しばらく休部状態にすると先生から連絡があったが、復帰することはできないだろう。

 そう思っていたのは中学で野球をしていた兄のわたるも同じだったようで、部を辞めるのはもちろん、中学生でも新聞配達のバイトはできるのかどうか、こっそり調べたりもしていたそうだ。

 とにかく、もう野球は続けられないというのは兄貴と俺のあいだの共通認識になっていた。しかし、父さんの葬儀から一週間ほど経ったある日、母さんは俺たちに言ってきた。


 父さんと結婚する前に働いていた職場でまた雇ってもらえることになった。私はそこで目一杯稼ぐから、あんたたちは心配しないで好きなことを続けなさい、と。

 俺たちは驚き、それで大丈夫なのかと訊いたが、貯金もあるし、少しだが生命保険で得たお金もあるからというのが母さんの答えだった。兄貴と俺は戸惑いながらも頷いた。


 ただ、母さんがそう言った瞬間からすべてが元通りになったわけではなかった。当時の勇太郎はまだ六歳だ。一人で留守番できる歳ではない弟の面倒を見るため、俺は休部状態を続け、放課後はまっすぐ家に帰る生活を続けた。それから一年後、勇太郎が小学校に上がると俺は野球部に復帰した。久しぶりに野球のできるよろこびを感じた瞬間は、いまでもよく覚えている。

 兄貴はというと、道具代ぐらい自分で稼ぐと言い張り、早朝の新聞配達のバイトを始めた。辛くなったらいつでも辞めていいと母さんは言っていたけど、これには相当助けられたと思う。職を見つけたといっても、やはり父さんほどの稼ぎはなく、家計はいつもギリギリだったのだ。


 それでも、母さんがいつも一生懸命働いているのはわかりすぎるぐらいわかっていた。父さんがいた頃は少しぽっちゃりしていたのが、あっという間に痩せていった。一昨年、高校を卒業した兄貴が就職したおかげでいまはだいぶ楽になったが、あのとき相当苦労をかけたのは忘れない。

 母さんにはいつか必ず恩返しをしよう。いつからか、自然とそう思うようになっていた。

 だから俺は甲子園に行きたい。そこに立つことが、無理をしてでも野球を続けさせてくれた母さんへの最高の恩返しになるはずだ。

 そう信じて、俺はここらの公立ではトップクラスの野球部がある公星高校に入り、甲子園目指して日々練習に励んでいる。

 はずだったんだけど……。


     *


 夕飯を食べ、風呂に入った。そのあと、部屋でストレッチと軽い筋トレをすると、そのまま床に寝転がった。背の低い天井を見ながらぼんやりと思うのは、今日の帰り道のことだ。

 まさか、一樹に川口とのことを指摘されるとは思わなかった。自分ではうまく隠しているつもりだったのに。

 川口は双子で、それを隠して交互に学校に来ている。そのことを知った七月、いろいろなやり取りの末、二人に同時に告白されてしまった。「されてしまった」なんて言い方が失礼極まりないのはわかっているけど、それが正直な心境だった。


 川口は可愛いし気も利くし、すごく魅力的なのは確かだけど、その二人のうちどっちかを選ぶというのは難しい。そもそも告白されたときは、誰がどんな性格かすらよくわからなかったのだ。けっきょく、部活を引退するまでにどっちが好きか見極めるという約束をしたけど……。

 あれから二ヶ月経ったいまなら、なんとなくだけど二人の性格の違いはわかる。お姉さんのほうは積極的で少し気が強くて、妹さんは大人しいけど感情がすぐに顔に出る。けど、だからってどっちが好きかなんて正直よくわからない。というより、俺はそのことをあまり考えないようにしているのが現状だった。


 二人のうち一人を選ぶということは、つまり、どちらか一人をフるということだ。姉妹の性格の違いがわかり、見た目は同じでも別人なんだということを認識していくにつれて、その事実が鉛のように重くのしかかってきた。

 誰かをフるなんて考えるとどうしても気が重くなる。しかも、相手は双子の姉妹だ。俺との一件が終わったからといって、関係を断ち切るなんてことはできない。俺がどちらか一人を選ぶことによって、今後の姉妹関係がおかしくなりはしないか、なんて考えると、もうわけがわからなくなってくる。

 そういうこともあり、最近は業務連絡以外で川口たちと話すのは滅多になくなっていた。声をかけられても無視するようなことはしないが、自分から話しかけたり話題を広げたりというのがなくなったのだ。川口と話すのを避けているみたいだと一樹に言われたが、それはものの見事に図星だった。

 だけど、話はしなくても練習中に川口が視界に入ることは多々あり、そうするとどうしても意識してしまう。一樹が練習中にぼうっとしていることが増えたと言ったのは、このことを考えているときだろう。


 思わず口からため息が漏れる。

 いまの俺は中途半端だ。夢のためにも、キャプテンとしても、練習中は百パーセント野球に集中していなくちゃいけないのに、それができていない。そして、川口姉妹――柚香さんと柚希さん、どちらか一人をフる覚悟もできていない。

 このままじゃいけない。だが、どうやって踏ん切りをつけていいのかわからないのだ。

 喉の奥から、自分でもあまり聞いたことのないほど低い声が出てくる。


「どうすりゃいいんだろ……」

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