ペアゲーム2 謎の女の人
12(川口柚香 11)
掃除用具入れの中は、当然だけど狭くて暗かった。
少しのあいだだけならいいけど、長いこと入っていると窮屈さがだんだん息苦しさに変わってくる。わたしでこうなんだから、柚希にはぜったい無理だったわね。うん、だから、配役は正解よね。これがベストだった。うん。
ちょうど目線の高さにある換気用の隙間から用具入れの外を見つつ、わたしは必死に自分に言い聞かせていた。狭いところにずっと同じ体勢で立ち続け、目の前に広がる景色は薄暗い廊下と教室。人が通る気配はまったくない。
そんな状況で、本当にこれでよかったのかなあ? 本当なら、どうにかしてわたしがペアゲームに出たほうが良かったんじゃないかなあ? なんて考える余裕はないのだ。
例え、自己紹介のときの柚希の声が思いっきり震えていたとしても。しかもそのとき、名前を柚香と言うべきか柚希と言うべきか考えるような間があったとしても。あかりと、藤井にすら心配されているのがわかったとしても。
この配役は間違ってない。これ以上ないぐらいの名采配。……と、無理にでも思うようにしないとやってられない。
「ハイ、回答終了! みなさん、ペンを置いてください」
左耳のイヤホンから、そんな声が聞こえてくる。あかりのポケットに入ったケータイ越しに中庭の声が聞こえてくるから、辺りのざわめきが入ってきて誰がなんと言ってるか聞こえにくかったりするけど、司会の栗原先輩の声ははっきり聞こえる。よく通る声に感謝だ。
最初のゲームは、お互いの理解度を量るゲーム。去年もやったやつで、これから順にホワイトボードを裏返して回答に移っていくはずだ。
明日香先輩が弾むような声で言う。
「まずは、大石、和田ペアの回答から見ていきましょう」
質問は「彼女の一番好きな食べ物」。こういうパターンなら、先に彼氏の回答を見て、そのあと彼女の回答で答えあわせ、というようにするはず。
それでは回答をどうぞ、と栗原先輩が言うのが聞こえる。この瞬間は、イヤホンから流れてくる雑音がなくなった。……が、それも一瞬。すぐにまた、ざわめきが復活する。たぶん、彼氏さんがボードを裏返して答えを見せたんだろう。すぐに、栗原先輩の声がする。
「アイスクリームですか! それはどうして?」
低く太い声が答える。
「彼女はよくアイスクリームを食べているので。昨日の帰りにコンビニに寄ったときも、新商品のものをおいしそうに食べていました」
「なるほどー。どうでした? アイスを食べる彼女、可愛かったんじゃないですか?」
「可愛かったです!」
なによそんなの。好きなもん食べてりゃ誰だって笑顔になるでしょ。そしたら普段より可愛く見えるのは当たり前じゃない。だいたいなんなのよこのカップルは。付き合って二ヶ月のくせに、さっきからラブラブアピールしやがってよ。こういうのに限って舞い上がるのは最初だけで、あとからだんだん冷めてくのよね。
「それでは次、和田さんの答えを見ていきましょう。どうぞ!」
一瞬の間のあと、歓声と拍手が乱れ飛ぶ。
「『アイスクリーム』! おめでとうございます。二人とも、ぴたり一致ですね」
栗原先輩がテンション高くそう言い、大石先輩と和田先輩には十ポイントが与えられた。
回答は谷、辻内ペアに移る。明日香先輩が、
「それでは、谷くんから解答をどうぞ!」
おお、と辺りからは微妙な声。なんのリアクションもしないわけにはいかないからとりあえず出しましたよという感じだ。
「たくあんって、なんか渋いね!」
あ、あかりがわざわざ大きい声出して教えてくれた。ありがとう。
なぜこの答えを、と明日香先輩に訊かれた谷先輩が答える。
「彼女の家、漬け物を漬けてる壷みたいなのがいっぱいあるんです。食事の時は必ずそこから漬け物を出して食べるって聞いたので」
「なるほどー。その中でも、なんでたくあんにしたんですか?」
「あ、ええっと……。漬け物といえばたくあん……かなって」
なんかこの人、柚希に負けないぐらいテンパってるわね。声も小さくて聞き取りにくいし。つうかそれなら、わざわざたくあんに限定しないで漬け物って書いとけばよかったんじゃない?
そう思ったのはわたしだけじゃなかったらしい。彼女側、辻内先輩に解答が移ると、明日香先輩の驚いたような声が聞こえてきた。
「漬け物ですかー! 谷くんの解答とぴったりとはいかなくても、おおむね一致していますね。どうしますか?」
最後の一言は、審査員に向けられたものだろう。審査員判断でポイントを与えるかどうか決めるらしい。
少しの沈黙のあと、
「おめでとうございます! 谷・辻内ペアには五ポイントが与えられます」
はいはい、おめでとうございます。
それにしても、さっきから思ってたけど、みんなちょっと大げさすぎない? カップルの好きな食べ物なんか知って、なにがこんなに楽しいんだっつーの。バッカじゃなかろかルンバ、とでも言ってやりたい気分だ。
「おめでとうございます。さっき谷くんが言ったとおり、漬け物は毎日食べているんですか?」
「そうですね。ご飯を食べるときは必ず出ます。彼ならこのこと覚えてるだろうから、そう書くと思いました」
「なるほど。さすが、つきあいの長いカップルですね」
「ありがとうございます。でも、家で漬け物を漬けてることは恥ずかしいからあんまり言わないでねってお願いしてたんですけどね。普通に言いましたねー」
どっと会場が沸く。その中にはあかりと藤井の笑い声も混じっていた。あの二人もなんだかんだで楽しんでるらしい。
続いて、栗原先輩が、
「では次……宮本・本多ペアに移りましょう」
げ、じゃあ柚希と嶋くんがトリじゃない。もう不安で仕方ないからさっさと終わらせてほしいのに。
腿を人差し指で叩いて気を紛らわせていると、それでは回答をどうぞ、と栗原先輩。そのあと、ざわめきとともに若干の笑い声が。
「こ、こんにゃくですか。一番好きな食べ物と訊かれてそう答える人はなかなかいないと思うのですが、どうして?」
そう尋ねる栗原先輩の声には笑いが混じっている。訊かれた宮本先輩は明るい声で、
「俺らのクラスはお化け屋敷だったんですけど、入ってすぐのところにこんにゃくがぶら下げてあるんです。で、こいつ昨日、開ける前のミーティング中、そのこんにゃくをずっと顔に当ててたんですよ。ひんやりして気持ちいいーとか言って」
また、会場の人たちが笑う声が聞こえてくる。それに続いて、違います違います、と否定する本多先輩の声。
「あのときは顔が火照ってたから、こんにゃくがちょうど良かったんです。いつもやってるわけじゃないです、あのときだけです」
「でもこんにゃくは好きだよな? お化け屋敷が終わったあと、ぶらさがったこんにゃく取って食ってたもんな」
「食ってないから! 変な嘘つくのやめてよ」
漫才みたいなやりとりするカップルね。場内から笑いの声があがってるけど、わたしは笑う余裕がない。
けっきょく、本多先輩の好物はケーキだった。宮本・本多ペアはゼロポイントのまま、回答は最後の二人に移る。
「それでは、嶋くんから回答をどうぞ」
明日香先輩が明るい声で言う。少しの沈黙。そのあとでなぜか、いままで一番と言っていいぐらいの爆笑が起こった。
嶋くん、なにかボケたの? そんなことが出来る人じゃないはずだけど。
「し、白滝ですかー。さっきの宮本くんと続いて連続こんにゃくですが、二人で打ち合わせでもしてたんですか?」
笑い混じりの明日香先輩の質問に、違います、と聞きなれた声が否定する。
「昨日、彼女が白滝を食べているのを見たので、好物なのかなって……」
うわー、ひどい理由。そりゃあ昨日、わたしは柚希のおでんから白滝もらったけど、だからって好物を訊かれて真っ先にそれを挙げないでしょうよ。「これしか思い浮かばなかった」感がひどい。
「それでは次、川口さんの回答を見てみましょう」
明日香先輩が言ったあと、しばらくの間を空けて、観客たちが驚いたような声をあげた。その中であかりが、
「焼き芋?」
と怪訝そう呟くのが耳に入った。
や、焼き芋? なんで焼き芋なんだろう。嫌いじゃないけど特別好きでもない、お腹が空いてるときに家にあれば食べるけど、わざわざ自分で買いはしないのに。なにを思ってこんな回答をしたんだ。
「川口さん、焼き芋好きだったんですか? 食べてるの見たことありませんけど」
「は、はい。そうなんです。わたし、あんまり人前で食べることはないんですけど、焼き芋が一番好きなんです!」
え、ちょっと、なに言ってんのあいつ? やめてよ、変なキャラ付けしないでよ!
「そうだったんですか。あまりイメージがないですね」
「実は、そうだったんです。……あの、そういえば、焼き芋といえば、わたし、武広高校に妹がいるんですけど、その子も焼き芋が好きなんですよー」
思わず噴き出しそうになってしまった。
焼き芋からの「いも」繋がりで、妹の話題にシフトするか、普通? つうかそれなら適当にみかんとでも答えて、武広高校に通ってる妹とよく一緒に食べるんですよー、とか言っておけばいいだろうがよ。わざわざ焼き芋にする必要はないだろ!
いろいろと不自然すぎるトークに、司会の先輩二人も、そ、そうなんですか、と些か困り気味の返答しかできない。
「イエーイ、焼き芋、サイコー!」
変な空気になりかけたところで、藤井がそう叫ぶのが聞こえてきた。
「言っとくけど、おれのほうがおまえより焼き芋のこと好きだからー!」
周りの人たちがどっと笑う声が耳に流れてくる。ナイスフォロー、藤井! よくやった。
その後、当然ながら柚希と嶋くんにポイントは与えられず、次のお題に突入した。『彼氏の最も尊敬する人物は誰?』。彼女の好きな食べ物よりかなり難易度の高そうなお題だ。回答記入タイムに入ったため、しばらく場内は静かになる。
……しかしこれ、思った以上に体力も精神力も消耗するわね。覚悟していたけど、わたし一人だけ孤独すぎない? 廊下には誰も来る気配がなく、ただただ静かだし。本当に「学生証コレクター」が来るのかしら。
「それでは、回答に移りましょう。まずは、嶋、川口ペアから」
あ、次は柚希たちからなのね。ハラハラする時間が短くなるのはありがたいけど、柚希のやつ、また無理やり妹の話題にする回答にしないか、ちょっと心配だ。妹の話題を出すのは一回でいいと言ってあるけど、念のためもう一回出しておこう、なんて思って、「小野妹子」とでも答えやしないか。……なんてね、あいつも、さすがにそこまでテンパってないわよね。
と、まあ、わたしの祈りが通じてか、柚希の回答は無難に、嶋くんの尊敬するプロ野球選手、保田俊一選手だった。
「あの、同じ捕手ですし、嶋くんの使ってるキャッチャーミット、この保田選手モデルのやつなので」
理由を訊かれたときも、さっきよりは若干落ち着いた声でそう答えていた。よかった。妹の話題も出せたし、自分の仕事はあらかた終わったと思ってるんだろう。
それにこの回答、たぶん当たってるんじゃないかな。嶋くんが保田選手のファンなのは本人も何度も公言してるし。
と、思っていたら、
「あーっと、嶋くん、「小野妹子」ですか! これまた初耳ですね」
お前がそれ書くのかよ。柚希がそう答えると予想したんだろうけど、見事に息の合わない二人だ。
最初の遣隋使……偉いと思います、はい、と答える嶋くんのしどろもどろ具合が痛々しい。
やっぱりどうにかしてわたしが出たほうが良かったんじゃないかな、と後悔しかけたときだった。
不意に、足音が聞こえてきた。
誰かが廊下を歩いているんだ。足音は次第に大きくなり、こっちに向かってくるのがわかる。やがて、無機質な廊下だけだったわたしの視界に、人の姿が現れた。
歩いてきたのは、女の人だった。わたしの入った掃除用具入れのすぐ近く、二年四組の教室の前で立ち止まる。
わたしは耳からイヤホンを外すと、いままで以上に息を殺し、目を凝らして廊下を見た。
わたしの位置からはその人の横顔が見えるけど、生憎、見覚えのない顔だ。灰色のパーカーにジーンズ姿で、たぶん高校生だと思うけど……ポケットから学生証を取り出す、ということもなく、ただただ黙って、じっと教室内を凝視している。
いったい、なにしに来たの、この人?
そう思っていると、その人は不意にドアの前に立ち、取っ手に手をかけた。だけど当然、鍵がかかっていて開かない。と、次の行動を見た瞬間、わたしは思わず声をあげそうになった。
公星高校の教室のドアの下部には、換気用に格子状の隙間が空いている。あろうことかその人は、膝を折ってしゃがみこみ、その隙間に手を突っ込んだのだ。隙間は意外と広く、腕がかなり細い人なら、通り抜けてドアの向こう側に手を出すことができる。
その人も、どうやら通り抜けられる人だったようだ。細長い腕の半分ほどが、隙間に飲み込まれて見えなくなった。通り抜けた腕のすぐ上には、ドアの掛け金がある。あれぐらい腕を差し込めば、楽に届く――と思った瞬間、ロックの外れる音がした。
その人は立ち上がると、迷いなく教室内に入っていった。そのまま一直線に、窓際の一番前の席へ向かう。
窓から差し込む日差しに照らされた机の表面をそっと撫でたあと、無言でその場に佇む。わたしの位置からは背中しか見えないけど、肩が少し震えているように見えた。その震えは次第に大きくなり、ついには、嗚咽が辺りに響き始める。
わたしはまばたきするのも忘れ、その様子に見入っていた。
なんなの? あの人はいったい、なにをそんなに悲しんでいるの?
考えたところでわかるはずもなく、やり場のない悲しみのようなものだけが伝わってくる。
どれぐらいそうしていただろう、その人はパーカーの袖で乱暴に机をぬぐい、踵を返して教室から出た。そしてそのまま、廊下を歩いていき、わたしの視界から消えていった。
わたしは掃除用具入れの中で呆然と立ちすくんでいた。
あの人はいったい、何者なの?