嵐の前の静けさな朝
1 (川口柚希 10)
緊張して、昨夜はよく眠れなかった。たぶんそのせいで、わたしは六時過ぎに目が覚めた。
起きるには早い時間だけど、嶋くんたちはもう学校に行く準備を始めてるかもしれないと思うと、二度寝する気にはなれなかった。ベッドから抜け出して、誰もいない一階に下りる。他のみんなはまだ寝てるみたいだ。
顔を洗ったあとに、家の中に学生証が落ちてないか探してみる。昨日、わたしの部屋は嫌になるぐらい捜したから、今日は一階を徹底的に見て回った。
だけどやっぱり、どこにもない。やっぱりそうだよね、だいたい、家の中で学生証なんて取り出さないもん、とちょっぴり落胆してると、二階から柚香が下りてきた。
時刻は七時を少し回ったころ。普段より二時間長く眠れた計算になる。
「おはよう。身体の調子、どう?」
「良くなってる。まだちょっとだるいけど、まあ大丈夫だと思うわ」
柚香は欠伸を噛み殺しながらそう答えて、洗面所へ顔を洗いに行った。
大丈夫ならよかった。確かに、昨日の朝は一目見ただけで風邪をひいてるのがわかる顔色だったけど、いまはそれに比べると格段に良くなってる。でもまだ、ちょっとだるいのか。……あ、そうだ。風邪のときはあれだ。
「柚香。はちみつレモン、飲む?」
洗面所から出てきた柚香にそう声をかけると、意外そうな表情を浮かべた。
「なに、あんたが作ってくれるの?」
「う、うん。いちおう、材料はあるから」
「ふうん。……じゃ、お願い」
そう告げて、身支度を整えに二階に上がっていく。
わたしは電気ケトルのスイッチを入れて、ティーバック、はちみつ、レモン汁、チューブタイプの生姜を準備した。
小さい頃に風邪を引くと、お母さんがよく、紅茶にはちみつとレモン汁と生姜をまぜた飲み物を作ってくれた。わたしも柚香も大きくなるにつれてほとんど体調を崩さなくなっていったけど、やっぱり、風邪をひいたときにはこれ、っていうイメージが強い。
レシピはすごく単純で、ティーバックの紅茶に、お好みの量のはちみつ、レモン汁、生姜を入れるだけ。小学校の高学年になるころにはお母さんから作り方を習って、わたしも柚香も、寒い日なんかは勝手に作って飲んだりしていた。
はちみつレモン(本当ならはちみつ生姜レモンなんだけど、長いのでこう呼んでいる)が完成したとき、ちょうどいいタイミングで柚香も二階から下りてきた。制服姿になって、手には鞄を持ってる。正真正銘、公星高校の指定通学鞄だ。
二人そろって食卓テーブルに着いた。柚香はもともと朝ご飯を食べないし、わたしもいまはお腹が空いてないので、食べ物はなしだ。
柚香はわたしの作ったはちみつレモンを一口飲むと、なぜか少し眉を寄せた。
「あんた、けっこう生姜多めに入れるのね」
「え、うそ? 多かった?」
「うん。わたしもお母さんもこんなに入れない。……ま、これはこれでおいしいけど」
言いながら、柚香はリモコンを取ってテレビのスイッチを入れる。朝のニュース番組がやっていた。
番組はちょうど、お天気情報の時間だった。茶髪の若いアナウンサーさんは、あらかたの天気を伝えたあと、笑顔でこう締めくくった。
「昨日、大型の台風の直撃にあった沖縄地方ですが、無事に過ぎ去った今日は、天気のいい一日になります。大荒れの昨日と違って、平穏に過ごせるでしょう」
それを聞いた柚香が、はは、と皮肉るように笑った。
「わたしたちは今日も、台風直撃並みに大荒れの一日になりそうだけどね」
「う、うん。……そうなりそうだね」
いまこうして、二人ではちみつレモンなんか飲んでる時間は、嵐の前の静けさってやつなのかもしれない。
わたしはまだ学校に行ってもないのに緊張してきて、意味もなく時計に視線を向ける。
時刻は七時半。嶋くんたちは、もう、学校で学生証捜しを始めてるのかな。
2 (嶋良次 5)
一樹と大原とは、七時半に校門前で落ち合う約束だった。朝の自主練を終えて校門に行くと、二人とも先に来ていて、俺たちはきっかり七時半に学生証の捜索を始めた。
といっても、やることといえば、三人で手分けして学校のあちこちを見て回りながら、学生証が落ちていないか捜すだけ。いちおう、登校してきた生徒に、昨日のセレモニー中に理科室棟へ入っていった生徒、もしくは、ペアゲーム中に二年生の教室に歩いていった生徒を見なかったかという聞き込みも行った。
が、結果はことごとく撃沈。学校内も満遍なく歩いてみたが、やはりというか、学生証も落ちていなかった。
「ま、そう都合良くいかねえよな」
と、今日もジンベエ姿の一樹が頭をかいていた。
結果、取り立ててやることがなくなり、さあどうするかと三人で特別教室棟の前で頭を寄せあっていたころに、柚香さんが登校してきた。真っ先に大原が声をかける。
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「うん、おかげさまで。昨日に比べたら格段に良くなった。……そっちはなにかあった?」
三人揃ってかぶりを振る。最初から予想していたのだろう、特に落胆した様子もなく、そう、と柚香さんは肩をすくめた。
「学生証捜しながら、聞き込みも一緒にやったんだけどね。ぜんぜんめぼしい情報なかったよ」
「まあそんなもんよね。……でも、本当にありがとう。わざわざ朝早くに」
そう頭を下げたあと、柚香さんは、あれ、と声を漏らした。視線は俺たちの後ろのほう、特別教室棟を入ってすぐのところに向けれている。そこには、写真部が昨日撮った、文化祭一日目の写真がパネルに貼られて展示されている。俺たちが登校したときからあったから、たぶん昨日の放課後のうちに展示したのだろう。
「あれって、写真部の展示よね? セレモニーのときの写真ってないかしら」
柚香さんの言いたいことはわかる。その写真に理科室棟に入っていく誰かが映っていれば、大きな手がかりになる。しかし、俺もさっきそう思って見てみたのだが、特にそれらしい人物は映ってなかった。というより、セレモニーの写真は一枚きり、スピーチをする森野先輩に焦点を当てたものだったので、そもそも理科室棟自体が映っていなかった。
俺がそのことを言うと、柚香さんは少し肩を落とした。
「ちょっと期待したんだけど……。で、これからなにか予定ある?」
「いや、特に。いまもちょうど、なにかできることはあるかって三人で話してたところなんだ」
「そう、じゃあもう、ホームルームまでそんなに時間ないし、一旦解散ってことで大丈夫よ」
話がまとまりかけたところで、ちょっと待て、と一樹。
「どうせだから、写真部のやつみんなで見ていかね? 注意して見れば、思わぬところからヒントが出てくるかもしれねえし」
もともと早くに教室に行かないといけない理由があるわけでもないし、一樹のいうことも一理ある。俺たちは特別教室棟に入り、パネルの前に立った。
高さはちょうど俺の背丈と同じぐらい。横長で、脚がキャスター式になっているので移動が楽にできるタイプだ。
パネルは計二枚あったが、一枚はすべてペアゲームの写真で埋められていた。トレーナーに迷彩柄のズボン姿でパントマイムを披露する男子生徒六名、舞台上で抱き合う村中と野球部の稲葉先輩、マイクを手に恥ずかしそうに笑っている司会の小松先輩、などなどだ。それらの写真の横には、「ダンス部総勢六名によるパントマイムダンス!」、「優勝の瞬間、うれしさのあまり抱きついちゃいました」、「途中でセリフ噛んじゃった」と、手書きのポップも付いている。
「小松先輩、途中で噛んじまったんだな」
「うん。でもなんか楽しそうだね。司会の服もかわいいし」
「このスカートとか派手でいいよな。もう一人の司会の人は制服に蝶ネクタイつけただけなのに」
「うんうん。これ、たぶん手作りだと思うよ」
「まじか! そういや小松先輩、手先器用だったもんな。……せっかくだし、写真撮っとこ」
「あ、私も」
一樹と大原は、パネルに貼られた写真をケータイで一枚一枚撮影していく。
その隣で、なぜか柚香さんは怪訝そうな表情。
「ねえ。稲葉先輩と村中くんって、仲いいの?」
え、と、俺、一樹、大原の声が綺麗に重なる。予想外の反応だったのか、逆に柚香さんが驚いたように、
「いや、だって、学年が違うのに一緒にゲームに出てるから。それぐらい仲がいいのかなって……」
「あ、もしかして、知らなかった?」
なにを? という目で大原を見る柚香さん。
「村中君って、去年、留年してるんだよ。だから歳は稲葉先輩たちと一緒。私たちよりいっこ上だよ」
「ええ、嘘?」
本当にいま知ったらしい。柚香さんは俺と一樹を交互に見た。
「二人は知ってたの?」
「ああ。敬語で話されるのも嫌だろうからタメ口聞いてるだけで、最初から知ってたよ」
「俺も。二年生のほとんどは知ってるんじゃないかな」
知らなかった、と呟き、柚香さんはもう一度写真を見た。
そういえば、教室ではほとんど大原としか話さないそうだし、その大原も、知ってる? あの人留年したんだよ、なんてわざわざ言うタイプじゃない。部活中は基本的に野球の話しかしないし、知らなかったのも無理はないのかもしれない。
「ちなみに留年の理由は、成績があまりにもアレだったからだってよ」
「本当にいるのね、そんな人……」
ははは、と乾いた笑い声をあげる。
そのあとも、写真になにか手がかりになりそうなものが写ってはいないかと見てみたが、特にそれらしいものは発見できなかった。
予鈴のチャイムが鳴ると、これからは随時ケータイで連絡を取り合うということで、ひとまず解散となった。