ハナマル食堂の作戦会議 1
25(川口柚香8)
ハナマル食堂に着いたのは、午後六時を少し回った頃だった。
微かにくすんだ灰色のコンクリートに、色褪せた字で『ハナマル食堂』と書かれた看板。二階もあるけど、そこは民家になっているようだ。こんな時間なのに、まだ洗濯物が取り込まれていない。いかにも庶民の香り漂う外観だった。
「綺麗ではないけど、なんだかほっとする眺めだな」
嶋くんの呟きに、うんうんとあかりが頷く。わたしはあんまり同意できない。うすら汚れた建物って、好きじゃないのよね。
「たぶんそんなに客はいないと思うぜ」
藤井が先頭に立って、入り口のドアを開ける。
言うとおり、お客さんはあまり入っていなかった。お店の右奥に天井から吊るされるような形でテレビが設置されていて、その周辺のテーブル席にツナギ姿のおじさんたちが固まっているけど、他の席はほとんど空いている。
テーブル席の反対側には座敷があって、柚希はそこの六人掛けの席に座って水を飲んでいた。室内でも、ちゃんとカツラとサングラスは着けたままだ。感心感心。わたしたちに気づくと、こっちこっちと手を振ってくる。
「遅かったね」
「ちょっと、いろいろあってね」
答えつつ、柚希の隣に座る。わたしの隣にあかりが座り、反対側に嶋くんと藤井が腰を下ろす。テーブルを挟んで男女が向かい合う形になった。
ぽっちゃりしたおばさんが、わたしたちのぶんのお冷とおしぼりを運んでくる。おばさんが去ったあとで、柚希はまた口を開いた。
「なにか進展があったの?」
お冷を一口飲んでから、わたしは言葉を返す。
「あんたと別れたあとに教室棟に戻るとね、盗まれた学生証が返ってきてたのよ」
*
「ペアゲームが終わって教室に帰ると、学生証がドアの前に置かれてたの! 盗まれた人たちの学生証はぜんぶ、その人のクラスの前に置いてあったみたい。だからたぶん、川口さんの学生証も返ってきてると思うよ」
多村さんがそう言うのを聞いて、わたしとあかりは急いで教室に戻った。
学生証が教室の前に置かれているだって? それは非常にまずい。何度も言うようだけど、クラスのみんなに柚希の学生証を見られるわけにはいかないのだ。
だけど、教室のドアの前にはなにも落ちていなかった。
「先に来た人が拾ったのかも」
あかりの声には焦りが混じっていた。
教室にはもう、ほとんどの人たちが帰ってきていた。室内はまだ喫茶店の装いのまま。至るところに飾りつけが施され、黒板には大きく『二年四組喫茶』の字が躍り、普段使っている机の上にテーブルクロスをかけてお客様用の席を作っている。
クラスのみんなはそれぞれ好きな席に座り、雑談に勤しんでいた。誰かが柚希の学生証を拾っていたなら真っ先にわたしに声をかけてきそうだけど、そんな様子は見受けられない。
「とりあえず、マルちゃんに話聞いてみようよ」
あかりの言葉に従って、学生証を盗まれた可能性のあるクラスメイト、丸葉月さんに声をかけることにした。
教室の真ん中辺りの席で福田綾さんとお喋りしている丸さんに近づく。
「ちょっとごめん、丸さん。訊きたいことがあるんだけど……今日、誰かに学生証盗まれてたりしなかった?」
「あー、学生証ね。盗まれてた……みたい。気づかないうちに」
ね、と同意を求めるように、隣の席の福田さんを見やる。福田さんはうんうん頷いて、
「ペアゲームのあとに教室に帰ってきたらね、ドアの前に葉月の学生証が置いてあったの。なんでだろうって思って、そのあと、地学室に鞄取りに行ったら、葉月の鞄から学生証がなくなってて」
「誰かがわたしの学生証を抜き取って、それを教室の前に置いてったんだなって、そのときに気づいたの。悪ふざけでやったみたいだけど、わたしと同じことされた人、けっこういるみたいよ。……あ、もしかして川口さんも?」
実際は、盗まれたのはわたしのじゃなくて柚希の学生証だけど、多村さんたちにはわたしの学生証が盗まれたと言ってある。情報は統一したほうがいいので、わたしは頷いた。
丸さんと福田さんは、どうしてか困惑したような表情を浮かべる。
「うちのクラスではわたしだけだと思った……。だって、ドアの前に置かれてた学生証、わたしのしかなかったもん」
「ほ、ほんとに? 丸さんのしかなかったの?」
「うん。ぜったい、わたしのしかなかった」
どういうことだろう、なんで柚希のだけ返してくれなかったのかな? 考えるわたしの横で、あかりが呟く。
「マルちゃんたちより先に来た誰かが、ユズの学生証を拾って、預かってくれてるってことはないかな?」
即座に、それはないんじゃないかな、と福田さんが否定する。
「あたしらが最後まで残って後片付けしてたから、教室の戸締り任されたんだ。出たのはペアゲームが始まるギリギリの時間だったけど、そのときはまだ廊下に学生証はなかった。で、鍵持ってるから、ペアゲームのあとはまっすぐ教室に帰ってきて、そのときに学生証を発見したの。あたしらが一番乗りだったから、先に学生証を発見した人はいないと思う」
なるほど。まあ、ペアゲームの途中に誰かが教室の前に来て、そのときに柚希の学生証だけ拾っていった可能性もなくはないけど、それはちょっと考えづらい。それよりは、最初から丸さんのしかなかったって考えるほうが自然か。
二人にお礼を言って、教室の隅に移動する。
「丸さんたちの話を聞くと、犯人はペアゲームの最中に学生証を置いていったってことになるわよね」
ペアゲームのときなら、教室棟に人気はなくなるから、誰にも見られずに学生証を返すのは簡単だ。
そうだね、とあかりが頷いたところで、教室に藤井が入ってきた。わたしたちの姿を認めると、すぐに近づいてくる。
「聞いたか? 学生証が返ってきてるって」
「うん。いまマルちゃんたちから聞いた」
「そっか。で、川口妹のは?」
わたしがかぶりを振ると、藤井は特に驚いた素振りを見せず、そうか、とだけ。あらかじめわかっていたようなリアクションを意外に思い、尋ねる。
「藤井くん、柚希のは返ってきてないかもって予想してたの?」
「おれっていうか良次がな。学生証には学年とクラスが書いてあるから、犯人はそれを見て返却していったんだろうが、川口妹のは武広の学生証だから、それだけ返されてないって可能性は充分あるって」
あ、なるほど。そうよね。盗んだ学生証を返すんなら、そこに書いてあるクラスの教室に置いていく。だけど柚希のは武広高校の学生証だから、公星高校の教室に置いていくわけにはいかない。なんで気づかなかったんだろうってぐらい単純なことだ。
だけど、そうなると……。
「じゃあ、柚希の学生証だけは生徒会室に届けたってことはないかしら? ペアゲームの途中に」
それもまずい。森野先輩に柚希の存在がばれると、ぜったい面倒なことになる。藤井は顔をしかめて答えた。
「それもあるかもな。放課後、生徒会室に行ってみようぜ」
*
「私はきつねうどんで。……柚香はなにか食べる?」
「いいかな。あんまり食欲ないから」
「わかった。じゃあすみません、注文は以上で」
あかりにそう告げられて、注文を取りに来たおばさんは厨房に帰っていく。その背中が完全に見えなくなってから、柚希は話を再開させた。
「それで、どうだったの? 生徒会室に届けられてたの?」
「それがねえ……。届けられてなかったのよ」
「あ、そうなんだ。えっと、じゃあそのあと、どうなったの?」
沈黙。突然口を噤んだわたしたちに戸惑う柚希。やがて、あかりが苦笑いで口を開いた。
「そのあとは正直、あんまり進展なかったって感じかな。犯人に繋がりそうなことは、なにも。……あ、でも、盗まれた人たちはみんな、顔に特徴的なほくろがあったから、それでターゲットを選んだっていうのは間違いなさそう」
「あと、それが二年の女子だけってのもわかったぜ」
「そっか。あんまり進展ないってわけじゃないね。その二つがわかっただけでも、大きいよ」
そうは言いつつも、柚希は落胆したような様子を隠しきれていない。話の流れから、わたしたちが学生証を見つけてきたんじゃないかと少し期待していたんだろう。勝手に期待して一人で残念がるのは構わないけど、表情には出すなっつーの。本人は無自覚なんでしょうけど。
「生徒会室にも届けられてないとなると、犯人は川口妹の学生証をどうしたんだろうな? 武広高校に届けたのかな」
「そう? わざわざそんなことするぐらいなら、公星高校で拾ったふりして生徒会室に届けるんじゃないかしら」
「犯人からすると、そんな白々しいことすんのは抵抗があったんじゃねえか? 生徒会の人には顔見られちまうわけだしよ。あとあと、持って来たやつが疑われるとか思うと、できなかったんじゃねえ?」
ああ、なるほど。藤井の言うことも一理あるか。なんせ、捕まえられたら五千円払わなくちゃいけないもんね。自分が犯人だと特定される可能性が少しでもある行動は、些細なことでも控えたいという心境だったのかもしれない。
だけど、それを踏まえても一つ疑問は残る。
「だけどペアゲーム中って、生徒会室は空になるわよね。その隙にドアの前にでも置いていけばよかったのに」
教室棟に学生証を返したんだから、ついでに特別教室棟一階にある生徒会室に寄るのは難しくないはずだ。そうすればあとで生徒会の人が勝手に見つけて持ち主を探してくれるだろうに、それをしなかったのはなぜか。
この疑問には誰も納得のいく答えを出すことはできないようで、みんな困ったような顔で黙り込んだ。まあ、それがわかったところで学生証が戻ってくるわけじゃなし、わたしは話を変えることにした。
「ま、それはそれでなにか事情があったとして。……けっきょく、犯人は柚希の学生証をどうしたんでしょうね。武広に届けたか、どうすればいいかわからなくてまだ持ってるか」
「それと、学生証には住所が載ってるから、川口たちの家に宛てて投函したってこともあるんじゃないか?」
そっか。それなら誰に顔を見られることなく柚希に学生証を返せる。お金はかかるけど、そういう手段を使うってこともあるかもしれない。さすが嶋くんだ。
それから、最後にもう一つ。
「それか、もうどうでもいいやってなって、どこかに捨てたって可能性も充分考えられるわよね」
「うん。……それがいいなあ」
柚希がぼそっとそんなことを呟く。また、こいつは……。わたしは横目で妹を見やって、
「でもね、そうやって捨てられた学生証が、公星の生徒に発見されない場所にあるって保障はないでしょ? 下手したら、誰かが拾って届けてくれないかって期待して、公星高校内に捨てた可能性だってあるのよ」
「あ、そっか……」
「そうよ。そうやってすぐ、都合のいい可能性に飛びつかない」
「まあまあ。柚希がそう期待するのもさ、わかんないではないじゃん?」
あかりが笑顔でなだめてくる。ああ、しまった。みんながいる前なのに、つい言いすぎてしまった。一つ咳払いを挟んで、わたしは言う。
「とりあえず、犯人の行動が不透明すぎるのよ。こういう場合、最悪の事態を想定して、それについての対策を考えていくべきだと思うんだけど」
それが一番だろうな、と真っ先に嶋くんが賛同してくれた。
「いまの時点での最悪の状況は、犯人が公星高校内の人目のつきやすい場所に学生証を捨てて、既に誰かに発見されてるってことだろうけど……」
「そうなってたら、もう対処のしようがないわね。潔く入れ替わりを諦めるしかなくなる」
柚希の表情が曇る。それは嫌だと、なにより雄弁に語っていた。
ち、調子狂うな。わたしは柚希を視界に入れないようにしながら、
「まあ、わたしたちが考えなくちゃいけないのは、そうなるのを防ぐ方法なんだし。想定するのは、まだ学生証が犯人以外に見られてないってことを前提にしての、最悪の状況でいいと思う」
「わかった。じゃあ最悪の状況は、犯人は学生証を校内に捨てたけど、今日のところはまだ発見されてないって可能性だな」
嶋くんが言い終えるのとほとんど被せるように、藤井が口を開く。
「じゃあ、明日になると危ねえってことじゃねえか。登校してきた誰かが、すぐに見つけるかもしれねえし。明日は早くに登校して、校内に学生証が落ちてねえか確認しようぜ!」
藤井の提案に、嶋くんとあかりも平然と頷く。おいおいと思っていると、すかさず柚希が声をあげた。
「ちょ、ちょっと待って。そこまでしてくれなくても大丈夫だよ。元々わたしのミスなのに、これ以上迷惑かけるわけにいかないし。明日はみんな、ぐっすり眠って休んでくださいお願いします!」
お願いしますて。テンパりと申し訳なさが混じって、なんか随分と他人行儀な言い方になったわね。まあ、同じことはわたしも思った。さすがにここまで迷惑かけるわけにはいかない。
「うん、そうね。明日の朝はわたしか柚希か、どっちかが早く来て探すから、みんなは大丈夫よ。普通どおりの時間に学校に来て、気が向いたら手伝うぐらいでいいから」
「……そうは言ってもなあ。おれらにとっての普段どおりの時間って、朝練始まる時間だから、どっちにしろ早く着くことになるんだよな」
な。藤井、急に変な揚げ足とってんじゃねえよ。
「いや、藤井くん、そういう意味じゃなくて」
「だからあれだよ。学校に早く来るのは慣れてるから、正直、迷惑だと思ってねえよ、おれは。良次と大原もじゃね?」
二人とも、口をそろえてうんと答える。
「俺はもともと、明日は自主練しようと思ってたから。最初から、早くに学校に行くつもりだったよ」
「私も、どうせ習慣で朝早くに目が覚めちゃうからね。早めに学校に行くぐらい、ぜんぜん問題ないよ」
なんでもないことのようにそう言い切る。本当は迷惑に思ってるけど無理に隠してるとか、そういう様子は全くない。……この人たちは、本当に。
柚希が、でも、と口を開きかけたけど、わたしはそれを手で制した。
「そういうことなら……ありがとう、甘えさせてもらうわ」
ここまで言ってくれているのに、わたしたちが行くからいいよとは言えない。好意は素直に受け取っておこう。
うん、と笑顔で頷いたあと、あかりはわたしに顔を向けて、
「ところで、明日はどっちが「柚香」として学校に来るの? 柚香こそ、朝早く起きるのがきついんだったら、ゆっくり寝てていいよ」
さすが、こういうところであかりは本当に優しく、気が利く。
「そうね。わたしも、できればちゃんと眠って体調を万全にしたいわ。柚希、悪いけど明日も、あんたがわたしとして学校に行ってくれない? わたしはあとから、変装して学校に行くから」
本当ならわたしと柚希が同時に公星高校にいるのはよくないんだけど、みんなに協力させておいて、当事者のわたしたちが揃わないのはまずい。できることがあまりなくても、とりあえず行くべきだ。
わたしの提案に、柚希はおずおずと口を開いた。
「わたしはそれでもぜんぜん構わないんだけど、でもね、さっき、ケータイに母さんから電話がかかってきて。明日、父さんと一緒に柚香の文化祭に行くって言ってたんだけど……」
げ。マジかい。さすがに、父さんと母さんの前で入れ替わるのは無理だ。
「なら、しょうがないわね。明日はわたしが行くわ。あんたは……あとから変装して学校に来るとしても、母さんたちが帰ってからがいいわね」
「うん、そうする。……なんかごめん」
謝るのはわたしにじゃないような気がするんだけど。
お冷を飲んでいた嶋くんは、こん、と音をたててコップをテーブルに置いた。
「じゃあ、明日の朝は俺と一樹と大原が早く来て学生証が落ちてないか探してみるよ。川口はゆっくり寝てから来て」
わたしと柚希は、三人に向かって大きく頭を下げた。
「うん。……ごめん、甘えさせてもらうわ」
「ありがとう。……ほんとに」