五人、グラウンドへ
18(川口柚香6)
だいたいわたし、なんで風邪引いて熱もあるのにこんなことしてんの? 柚希の学生証が盗まれるなんて、大した事件じゃないし。双子ってことがみんなにバレたらバレたで、もう入れ替わりはなしってことにすればいいだけだもん。なのになんで、恋敵のためにこんなに頑張ってんのよ。意味わかんない。嶋くんだって、風邪引いてるわたしを一人にしないでよ。なんかあったらどうすんのよ。グラウンドのフェンス越えるとき、わざとふらついて嶋くんの手握ったけど、そのときのリアクションも、手ぇ熱いけど大丈夫か、やっぱり熱がまだあるんじゃないか、だもんね。そう思うなら別行動にしようなんて言うなっつーの。もうなんなのこれ? なんか軽く死にたい気分。
そこまで思っていたとき、膝においていたケータイが震え、着信音を奏でた。嶋くんから折り返し? さっきまでのネガティブスパイラルが一瞬で吹き飛び、胸を躍らせて表示された文字を見る。
が、
「あかり?」
画面に記された文字は「大原あかり」だった。きっと、保健室で休んでいることになっているわたしを心配してかけてくれたんだ。ありがたいけど……。
いま電話に出ても、たぶんややこしいことになる。こっち、トイレだから声響くし。出たら一瞬で、保健室じゃないって気づかれる。
あかりには申し訳ないけど、出るのはよそう。だけど、なかなか着信音が切れない。
そういえばわたしのケータイ、留守電に繋がるの遅くしてるんだった。あかりもなかなかに粘り強く、着信を切る気配がない。どうしよう、マナーモードならまだしも、ずっと着信音が鳴り続けているのはちょっとな。誰かに入ってこられても嫌だし。
……しょうがない。なにか訊かれたらはぐらかそう。
そう決意して、通話ボタンを押した。
「ユ、ユズっ? よかった、出てくれた!」
もしもしを言う前に、あかりの切羽詰った声が耳に飛び込んできた。驚いて、思わず耳から少しケータイを離してしまった。たぶん中庭にいるんだろう、マイクを通した声とともに、あかりがぜえぜえ肩で息をするのが電話越しに聞こえてくる。
「な、なに? どうしたの、あかり。どっか走ってたの?」
その質問には答えず、
「……あのね、ユズ。駄目だよ、死のうなんて考えちゃ!」
「えっ」
な、なんでわたしの考えてることがわかったの? エスパー?
「そりゃあね、生きてるといろいろ辛いこともあるよ! オープン戦で絶好調で、これはもしかして念願の最下位脱出もありえるんじゃないかと思ってたら開幕してからはいつも通りとかね、もう、じゃあオープン戦でも負けとけって感じだよね。変な期待抱かせないでって思うよね。でもね、たとえ嫌なことがあっても、衝動的に自殺なんかしちゃ駄目だよ!」
「あの、えっと、あかり?」
「だってさ、ユズが死ぬと悲しむ人いっぱいいるよ。少なくとも私は嫌。すっごい嫌! これからもユズといっぱい遊びたいもん。だからお願い自殺なんてやめて! あなたの人生、諦めないで!」
「あ、あかり……」
声が震える。なんだか落ち込んでたのが馬鹿みたいだ。わたしは電話口に向かって叫んだ。
「ありがとう、あかり。わたし、生きるよ!」
「ホントに? よかったぁー、もう、びっくりしちゃったよ。……じゃあ、これからユズのところ行くから待ってて」
「うん、待ってる待ってる」
「オッケ。じゃあまたあとで」
電話が切られる。さっきまでのネガティブスパイラルが嘘のように晴れやかな気分になっていた。ありがとうあかり。あんた最高だよ。わたしの気持ちが今世紀最大と言っていいほど落ち込んでることに気づいて電話をくれるなんて。この気遣いと察しのよさ、どっかの野球部キャプテンにも見習ってほしい。……って、あれ?
あかり、なんでわたしに電話かけてきたの? しかも、自殺するのはやめて、なんて。そりゃあ、ちょっとそんなことも思ったけど、なんでそれがわかったの? ほんとにエスパーなわけないし。だとしたら、どっかから見てた?
慌てて頭上を見上げる。あかりが天井に張り付いてわたしを見下ろしていたなんてことはないし、個室の壁に隠しカメラがついているということもない――いや、そもそも、あかりがわたしの行動を見ていたとしても、それだけですぐに自殺に結びつけるはずがない。トイレの個室に座って落ち込んでただけで、死にたい気分だなあ、なんて口に出して言ったわけじゃないんだから。
だとすると、あんな電話をかけてきた理由は一つしかない。
柚希だ。変装してはいるけど、あかりはあれが「ユズ」だと気づいた。そして、柚希がなにか自殺を連想させるような行動を取ったのを目撃して、それで勘違いしてあんな電話をかけてきたのだ。ってことはあかり、いまから……。
そこまで考えたとき、膝の上においていたケータイが震えた。嶋くんから電話だ。
「もしもし、川口? ごめん、さっきは電話取れなくて」
「ううん。大丈夫」
本当ならうれしいはずの嶋くんからの電話だけど、いまのわたしは声を弾ませる余裕もなかった。
「わかったことがあったから連絡しようと思ったんだけど、ごめん嶋くん。わたし、いますぐ柚希に電話しなくちゃいけないの。一旦切ってもいい?」
「あ、ああ。うん、わかった。じゃあ、電話が終わったら、グラウンドに来て。俺も報告があるから、直接会って話そう」
「わかった。ごめん、じゃあまた」
通話を終え、すぐに柚希に発信する。優秀な我が妹は、二コール目ですぐに電話に出た。もしもしの前置きもなく、わたしは訊く。
「柚希、あんたいまどこにいるのっ?」
「えっ。あの、教室棟の屋上だけど……」
なんでそんなところにいるんだ。でも、これでなんとなくあかりが勘違いした理由がわかった。
「ねえ、もしかして屋上のフェンスに登ったりした?」
「な、なんでわかったの?」
やっぱりか。勘違いの理由はそれね。そしてあかりは、「いまからユズのところに向かう」と言っていた。いまのあかりにとっての「ユズ」は、柚希のことだ。あかりは中庭から電話をかけてきたから、これから、正面玄関から教室棟に入るはずだ。
「あ、でもね、あの、フェンスに登ったのはふざけてたわけじゃなくて……」
「柚希。いますぐ教室棟から出なさい」
「え? な、なんで?」
「説明してる時間はないの。いますぐ室内に戻って、外階段から教室棟を出なさい。いい? 間違えても正面玄関から出るんじゃないわよ」
わ、わかった、と戸惑いながらも答える柚希。すぐに、屋上のドアを開ける音と、階段を下りる音が聞こえてくる。
「えっと、じゃあ、外に出たらどうすればいいの? そこで待ってればいい?」
それはあまりよくない。あかりにばれた以上、柚希には校内に留まっていてほしくない。けど、校門から外に出たら、屋上に出たあかりに目撃される心配もある。
「外に出たら、裏庭を突っ切って、グラウンドに行って。で、フェンス登って外に出るの。説明はあとでするから、いまはとにかく急いで言うとおりにして。ダッシュで」
「わ、わかった。そうする」
「うん。じゃあね」
電話を切り、大きく息を吐く。
いま、あかりと柚希を会わせるわけにはいかない。なんで自殺なんかしようとしたのとか、なんで変装してるのと訊かれて、アドリブに弱い柚希が無難な答えを返せるとは思えない。嘘を突き通せなくなって、最終的にぜんぶ話してしまうのが容易に想像できる。
だから、あかりには悪いけど、いまのところは煙に巻かせてもらって、帰りに教室で出席を取るとき、改めてわたしが理由を説明しよう。もちろん、本当のことは話せないから、なにか言い訳を作っておくんだけど。
立ち上がり、個室から出る。嶋くんが待ってるだろうし、グラウンドに行こう。……と、その前に。
トイレから廊下に出て、そのすぐ近くにある窓から教室棟の正面入り口を見る。程なくして、あかりが入っていくのが見えた。思ったよりゆっくり歩いてたから、このタイミングなら柚希と鉢合わせはしないだろう。
ごめんねあかり、と心の中で謝りながら、わたしは階段を下りて理科室棟を出て、グラウンドへ向かった。
19(嶋良次4)
柚香さんとの通話を終えたケータイを、じっと見つめる。
電話だけでも、柚香さんが相当焦っていたのは伝わってきた。柚希さんにすぐ電話しないといけないと言っていたけど、なにかまずいことでもあったんだろうか。
気になりはするが……いまの俺にできることはない。とりあえず、グラウンドに行って柚香さんが来るのを待っておこう。
時刻はちょうど四時になっていて、すぐそこの中庭では、もうペアゲームが始まっていた。
みなさんこんにちはー、と司会の小松先輩がマイクを通して言うと、その声に負けないぐらいの大歓声が響く。去年と同じく、最初から異常なまでの盛り上がりだ。観られないのは残念だけど……まあしょうがない。
グラウンドに向かう途中、事態を整理するのに紙とペンが欲しいな、と思いたつ。柚香さんよりも俺のほうが先に着くだろう。なら、グラウンドに行く前に部室に寄って、それらを取ってからでも遅くはない。どうせ通り道だ。
20(藤井一樹4)
「見つけたあ!」
マイクで拡大された司会の小松先輩の声が響く中庭で、おれはそれに負けないぐらいの声を出した。周りにいたやつらから不審げな視線を向けられたが、そんなのはどうでもいい。
教室棟の外階段から良次と川口を目撃したあと、ダッシュでグラウンドに出てみたが、すでにあいつらの姿はなかった。そのあと、学校中を歩き回り、さっきからずっと校内を捜していたが……。いまやっと、その背中を見つけた。良次が、ハンドボールコートから出てきたのが見えたのだ。
良次は中庭でのペアゲームには目もくれず、そのままグラウンドのほうへ歩いていく。あいつめ、いったいなんのために。
ペアゲームを観られないのはおしいが、良次のあとを追うことに決めた。が、おれがいるのは中庭の中央、もっとも人が多い場所。なかなか前に進めず、やっと人ごみを抜けられたとき、視界から良次の姿は消えていた。
だがまあ、あいつの進んでいった方向を考えると、グラウンドに行ったのは間違いない。おれはまっすぐ、グラウンドへ続く道を駆け出した。
待ってろよ良次。納得のいく説明を聞かせてもらうぜ!
21(大原あかり6)
教室棟の階段を上がって三階に出たところで、私は足を止めた。
すぐ正面の窓際の壁にくっつけるようにして、机が一つ置かれている。そこに、『手作りオレンジタルト、一個二百円。お買い上げの方はお金を入れて持っていってください。一年七組』と書かれた紙が貼られている。
そういえば、一年七組も喫茶店だっけ。上から覗き込むと……ううん、なかなかおいしそうなオレンジタルト。下に銀紙が引かれ、食べやすい大きさにカットされたそれは、ケーキ屋さんに並んでいても違和感なさそう。これで二百円は安いね。すごいお得感。
ユズは柑橘系の果物ならなんでも好きだから、オレンジタルトも好きなはず。こういうのがあれば、ちょっとは気分も落ち着くよね。
窓の外からは中庭と理科室棟が見える。特別気にしてなかったけど、財布から百円硬貨を二枚掴んだとき、理科室棟の裏口から人が出てくるのがちらりと見えた。ん? と思ってその影を追う。スラリと長い手足と、肩甲骨の辺りまで伸びた黒髪。公星高校の制服を着た女子生徒。……って、あれ、ユズじゃん! 顔は見えなかったけど間違いない。いつ着替えたの? いつ理科室棟に行ったの? これからどこ行くの?
ユズはそのまま、部室ルートを通ってグラウンドのほうへ歩いて行った。
疑問は山のようにあったけど、考えたり迷ったりしている時間はなかった。
気づいたら私は、いま来た道を引き返していた。