学生証捜索 2
7(嶋良次2)
「そっか。学生証が……」
理科室棟の正面玄関から入ってすぐ左手のベンチで、川口(今日は髪を結んでいるから、妹の柚希さんだ)から、事情の説明を受けた。中庭は人が多すぎて話がしづらいから移動してきたのだ。保健室と図書室、荷物置き場にもなっていない、ただの空き教室があるだけの理科室棟一階は、驚くほど人気がなかった。
それにしても、学生証をなくしてしまったとは……。どこで落としたのかわからないとはいっても、この状況は柚希さんからしたらたまらなく不安だろうな。
俺は柚希さんに向かって小さく頷いた。
「わかった。じゃあ俺も、学生証捜すの手伝うよ」
「え、いいの?」
柚希さんの表情がぱっと明るくなる。しかし、それはすぐにしぼみ、
「あ、でも、なんか友だちと約束とか、見たい出し物とかない? そういうのがあったら、ぜんぜん、無理に手伝わなくてもいいから」
「それは大丈夫。午前中でいろいろ回れたから。いまは捜すほう手伝うよ」
「あ……。ありがとう、嶋くん! 今度ぜったい、なにかお礼するから」
顔の前で手を合わせて、勢いよくお辞儀してくる。ちょっとびっくりしたけど、これぐらい元気があるなら良かった。さっき中庭でぶつかったときは、いまから飛び降りでもするんじゃないかと思うほど悲壮感の漂う顔をしていたから。
「いまのところ、川口が鞄を持って通ったルートに、学生証は落ちていなかったんだよな?」
「うん。三往復ぐらいしたんだけど……」
そんなに捜したのか。それなら、道に落ちているのを見落としていただけという可能性はあまりないだろうな。公星高校に来る前に落としたか、校内で落としたのを誰かが発見し拾ったか。今日の朝、確実にパスケースに学生証が入っていたと仮定すると、二つのうちのどちらか、ということになりそうだ。
「他校の生徒の学生証を拾ったら、まず届けに行くよな。生徒会室には行った?」
文化祭中に落し物を拾ったら、生徒会に届けに行くことになっている。
柚希さんは、あ、と声をあげて、口許を手で覆った。
「まだ行ってない……。わたし、落としたのを探すことだけ考えてて、届けられてるかもってこと、気づかなかった」
「焦ったりするとそんなもんだよ。じゃあまず、生徒会室に行ってみようか」
そう言ったあとで気づいた。俺はまだ演劇の衣装のままだ。
「ごめん、やっぱり先に着替えていい?」
こくこく頷く柚希さん。俺たちは理科室棟を出て、教室棟に向かった。
体育館内に男女とも一つずつ更衣室があるが、残念ながらあまり広くない。体育の授業で着替えるときで既にいっぱいいっぱいだ。なので、文化祭中は男子用の更衣室も女子用として開放し、男子生徒は教室棟の一階にある多目的教室で着替えを行うよう指示されている。
外で柚希さんを待たせ、衣装に着替えたときにそのまま置いておいた制服に袖を通す。脱いだ衣装を畳んでからビニールに入れ、それを持って更衣室を出ると、柚希さんと一緒に生徒会室のある特別教室棟へ移動する。
「思ったより人が多いな」
特別教室棟に着いた、まず最初の感想がそれだった。一階は書道部や美術部の展示がメインなのであまり人はいないだろうと思っていたが、意外と賑わっていた。ただ、生徒よりも父兄が多いように見られる。
「みんな、書道とか見るの好きなのかな」
「かもな」
そんなことを話しながら、廊下の角を曲がる。その通路の一番奥にあるのが生徒会室だ。向かいにある美術室はドアが開いており、中にけっこうな数の人がいるのが見えるが、生徒会室のドアは閉まっている。
「……ね、落とし物は生徒会室に届けるってことは、管理は生徒会がやってるってことだよね?」
唐突に柚希さんが訊いてくる。俺は頷きながら、
「たぶんそうだと思う。文化祭実行委員がありはするけど、そっちのメインは後夜祭で、生徒会もかなり仕事があるって聞いたから」
柚希さんは表情を曇らせた。どうしたんだ、と尋ねると、
「クラスにね、生徒会役員の子がいるから。新井さんっていうんだけど……。もし学生証が届けられてても、その子に見られてたらちょっとまずいなって」
ああ、なるほど。言われてみれば確かにそうだ。もし生徒会に届けられていたとしても、手放しで安心はできないということか。
「いまは、そうなってないことを祈ろう」
「うん……」
生徒会室のドアには、文化祭前にはなかった、「生徒会室」とカラフルな色合いで書かれた紙が貼られていた。ノックすると、はーい、という返事。
「どうしまし……」
生徒会室から出てきた人の愛想のいい声が、途中で止まった。俺も柚希さんも、思わず、あ、と声を出してしまった。
俺たちの前に顔を出したのは、生徒会長の森野先輩だった。にこやかな笑顔を浮かべていたのが、一瞬でひきつった表情に変わっている。以前、俺たち(正確には俺と柚香さん)は森野先輩と一悶着あったのだ。とりあえず丸く収まったけど、こうして顔を合わせて話をするのはあのとき以来だった。
「な……なんの用かな?」
かすかに震える声で訊いてくる。無理もないかもしれないけど、かなり警戒されている。柚希さんは少し遠慮がちに、
「いえ、あの、大した用事じゃないです。ただちょっと、学生証の落とし物が届いてないかなって確認したくて……」
「学生証? 誰の?」
正直に答えるわけにはいかず、えっと、と言葉に詰まる柚希さん。代わりに俺が答えた。
「俺の友だちのです。武広高校の生徒なんですけど、学生証届いてませんか?」
「ああ。外部の人か。……いや、届いてないな」
森野先輩は後ろを振り返り、生徒会室内を見る。
部屋の中央のテーブルの上、広げられた参考書の横に、ハンカチやキーホルダーが入ったクッキー缶が置かれていた。たぶんあれが落とし物入れだろう。
「まあ、いまはないが、身分証明書とかの貴重品は届けられたら校内放送で呼びかけることになってるんだ。だから、誰かが拾ったらすぐわかると思うよ」
「それって、武広高校何年何組のナントカさんの学生証を拾いました、っていう風に放送するんですか?」
「だと思うよ。それがなにか?」
「いえ。それぐらいしっかり放送してくれるんだったら大丈夫そうだなって。すいません、ありがとうございました。……行こう、川口」
頭を下げて生徒会室前を辞す。森野先輩は一瞬、警戒するような目を柚希さんに向けたが、そのまま生徒会室に戻っていった。
「ちょっとまずいかもな」
廊下の角を曲がって生徒会室のある通路から充分離れたあと、俺は言った。隣を歩く柚希さんが小さく首を傾げる。
「まずいって、森野先輩に学生証のことを言ったのが?」
「いや。学生証が届けられたら校内放送で呼びかけるっていうのがだよ。川口、武広高校に妹がいることは、特に隠してはいないんだよな?」
柚希さんは頷き、
「双子だっていうのを秘密にしてるだけで、妹がいるっていうのはあかりも瑞樹も、クラスの子たちも知ってる」
「じゃあ、妹の名前が「柚希」ってことも言ってる?」
「う、うん。みんな知ってる」
やっぱりそうなのか。まずいな。
正面から制服を着た女子が二人歩いてくる。その人たちとすれ違ったあと、声を潜めて話を再開した。
「森野先輩は、校内放送では学生証に書かれたクラスまで読むって言ってた。ってことは、学年がバレる」
俺が言いたいことがわかったようで、柚希さんが大きく目を見開く。
「そっか……。学年がバレたら、同い年だってことがわかるもんね。そしたら自然と、双子だってこともバレちゃう」
「うん。それってまずいよな?」
「すごくまずい。双子だってことを隠してたのは、なんか恥ずかしいからって言えば、納得してくれる人もいるだろうけど……」
唇を結び、柚希さんは頭を悩ませるような表情になった。
気づけばもう特別教室棟の玄関前まで来ていた。そのまま外に出ても行くところがないので、なんとなくここで立ち話をする形になる。
柚希さんは不安そうな声色でぽつりとこぼした。
「あかりが、ちょっと心配。最近、わたしたちの入れ替わりに気づいてそうな感じがあるから……」
「大原か。確かに、いつも一緒にいるもんな」
あれだけ一緒にいれば、なんとなく気づくものかもしれない。そう思うぐらい、俺の目から見ても二人はいつも一緒にいる。むしろ、川口たちが大原に入れ替わりのことを話していないというのが意外なぐらいだ。
「ただ、仮にバレたとしても大原なら大丈夫じゃないか? 口も固そうだし」
「うん、まあね……」
曖昧な返事。しまった、触れてはいけない話題だっただろうか? 慌てて話を変える。
「まあ、この話はあくまで、学生証を落としたのが公星校校内だったときに仮定してだから。こんなに捜しても見つからないってことは、やっぱり、別の場所で落としたんじゃないかな?」
「だといいんだけど……あっ」
柚希さんがポケットに手を入れ、ケータイを取り出す。着信がきているみたいだ。柚香からだ、と呟き、俺から少し離れたところで電話に出る。
「はい。……うん、大丈夫。どうだった?…………あ、そっか。なかったんだ……。ごめん、ありがとう。もう柚香は家に帰って眠って。……うん。……え?」
柚希さんが急に俺のほうを見る。一瞬目が合ったが、すぐに逸らし、
「あ、えっと……ごめん、違う。……うん、一人じゃなくて、人と一緒。…………あの、嶋くんと」
過去の犯罪を告白するような口調でそう言ったあと、横目で俺を見てくる。なんだろう、居心地が悪くなってきた。
柚希さんの学生証探しは、部活で一緒に作業をするときのような感覚で臨めたから、変な気まずさは感じずにすんだ。しかし、こうして目の前で柚希さんが柚香さんと話し、俺の名前を出しているのを見たら、考えないようにしていたことが頭をよぎってしまう。
電話口に向かって、柚希さんの声はますます焦ったようになる。
「うん、あの、捜してる途中に偶然ばったり会って。それで、事情を話したら嶋くんも手伝うって言ってくれて、うん、それだけ。変なことはなにも…………ええッ? え、そんな、いいよ。風邪ひいてるのに、そこまでしなくて。……え、ちょっと柚香……あ」
ケータイを耳から離し、呆然としたように画面を見つめる柚希さん。どうやら一方的に切られたらしい。
「お姉さん、なんて言ってた?」
俺が近づきながらそう尋ねると、柚希さんは伏し目がちに答えた。
「家から駅までのあいだには、学生証は落ちてなかったって」
「そっか……」
柚希さんの言動でなんとなく察しがついていたけど、やっぱり少し残念ではある。しかし、そのあとに続けられた言葉が、そんな気持ちをあっという間に吹き飛ばした。
「で、柚香がいまからここに来るって」
「えっ。ここにって、公星高校に?」
「うん」
「駅から学校までのあいだに学生証が落ちてないか確認するって意味じゃなくて、校舎内に入ってくるって?」
こくりと頷く。
「もう電車に乗ったからって、電話は切られちゃった。たぶんあと一時間ぐらいで着くって」
「そうなんだ。なんていうか……相当、心配してくれてるんだな」
「う、うん。そうみたい……」
ぎこちなく笑う柚希さん。俺が言えたことじゃないかもしれないけど、彼女は本当に顔に出やすい。言葉とは真逆に、そうじゃないよ、と顔で語っていた。
校舎内の捜索なら二人だけで充分だし、柚香さんが公星に来てもあまり出来ることはない。むしろ双子だということがバレるリスクを背負う。それなのに、わざわざここに来るっていうのは……。
さっき、電話で俺と一緒だと柚香さんに告げたときの、柚希さんの気まずそうな表情を思いだす。
俺はいちおう、二人から同時に告白されて、どっちか選べないからと保留している身だ。そんなとき、自分のライバルが俺と一緒だと聞かされて、いい気はしないだろう。たぶん。
だから、柚香さんがここに来ると言った本当の理由は、俺と柚希さんが二人になるのを防ぐため……なのかもしれない。恐らく。確証はない。俺の自意識過剰で、本当にただ柚希さんが心配で、少しでも出来ることがないかと必死に考えた結果だってこともありえる。どっちのほうが可能性が高いかは、まるで判断がつかないけど。
「あの、嶋くん。これからどうしよっか?」
柚希さんが遠慮がちに訊いてくる。他のことに気をとられていた俺は、頭を使わずその場限りの言葉を返した。
「とりあえずもう一回、荷物置き場に戻ってみるか? 実は鞄の下に落ちてたりするかもしれないし」
「う、うん。そうだね。行ってみよっか」
たぶん荷物置き場にもないだろうというのは俺も、そして柚希さんも思っていただろうけど、他に行くところもない。とりあえずという感じで、俺たちはまた理科室棟へ行った。
道中ほとんど会話もなく地学室へ着く。
二年一組から五組の荷物置き場は、至るところに鞄が置かれ、何人かの生徒が休憩所代わりにしていた。柚希さんはそのまま、自分の鞄に直行し、パスケースの中を確認したあと、鞄をどかし、周りになにか落ちていないか捜す。しかし、やはりというか芳しい結果は得られない。
「……なにもないみたい」
鞄を元の場所に置きながら、柚希さんが首を振る。俺も言葉に詰まってしまう。このあとどうするべきか、なにも思いつかないのだ。公星で落としたのではないと判断して、それぞれの文化祭に戻ろうか。そう提案しようにも、これから柚香さんが来るらしいし……。
そう思っているときだった。
「……ねえ、ちょっとこれ見てよ!」
部屋の中央のほうから、そんな声が聞こえてきた。女子が二人いて、そのうちの一人が手にルーズリーフの切れ端を持っている。なにか書かれているのだろう、文面を見たもう一方が、あ、と声を上げる。
「こいつが盗んだってこと? どこにあったのこれ?」
「あたしの鞄の下。たぶん、本当は上にあったのが落ちちゃったんじゃないかな」
「そっか。……あー、なんかめっちゃ安心した。単なる悪ふざけなんだね。変なことに使われてたらどうしようと思った」
「ホントよかったよね。どうする? 捕まえたら五千円ってあるけど」
「いいよそれは。ほっとけほっとけ。学生証がちゃんと返ってくるなら、もうどうだっていいよ」
俺も柚希さんも、弾かれるようにお互い顔を見合わせた。小さく頷きあい、女子二人に近づく。
「あの、ごめんなさい」
柚希さんに声をかけられ、二人が驚いたようにこっちを見る。一人は平均的な身長で癖のあるショートヘアー、もう一方は小柄で髪が長い子だった。よく見たらどっちも見覚えがある。たぶんバレー部だったはずだ。
ショートヘアーのほうが、はい、と返事する。柚希さんは言った。
「いまの話、ちょっと聞かせてもらえませんか? あの、学生証のこと」