四日目 挨拶
四日目の朝だ。
僕はまだ祖父の家に居る。
本当は昨日帰るはずだったのだが、昨日帰り際に車の中で母が「もう一泊していこうか」と言ったので、急遽そういう事になった。
しかし、今日は病院に少し寄って挨拶だけして帰るだけ、という条件つきだった。
それでも、と僕と妹は頷いた。それでもいい。と。
さて、と、僕は布団から這い出て外を見た。外は昨日の晴れ空とは打って変わって、黒い雲が空を覆って、強い雨が降りしきっていた。
「行こうか」と、部屋の扉の向こうから母が言った。
「行こう」と、母には見えないだろうに、僕は頷いて言った。
外は、太陽の光が無いためにいつもより一層寒かった。
そんな外気に身を震わせながら、帰り仕度を済ませて乗り込む。
今日は祖母はついてこない。もう僕等は病院に行った足で家に帰るからだ。
「また来やあよ」
祖母が傘をさして、手を振って言った。
「また来るよ」と、僕等も車の中から手を振った。
祖母は、見えなくなるまで手を振り続けていた。
病院に行く道中、雨脚が更にひどくなった。
とてもじゃないが、防水性のコートでも着ていない限り外には出れないほどだ。
傘さえあれば良いのだが、残念なことに、車の中に傘は置いてなかった。祖母の家の傘は、祖母が見送り際に持っていたあの傘一本だけだった。
「どうしよう・・・」
と、妹が助手席に座って呟いた。
別に返答を求めるようではなかったため、僕は何も言わずに外を見ていた。
雨が少しでも止んで、妹が早苗ちゃんに挨拶ができれば良い。そんな事を考えながら。
予想外だった。
雨もそうだが、車が駐車場に停められない、という状況だったのだ。
車が一杯で、母が運転する車が停められない。
いよいよ挨拶することが困難になってきていた。
「お兄ちゃん」
と、不意に妹が助手席から僕を呼んだ。
「何だ?」
僕は外から視線を妹に移動させる。
妹はこっちを振り返ることなく、前を向いたまま言った。
「行ってきて」と。
「は?」
「コート着てるのお兄ちゃんだけじゃん。私着てないから、こんな雨の中行ったら塗れちゃうし」
「・・・・・・」
「早く。後ろ、車来てるから」
「解ったよ」
僕はフードをかぶって、雨の降りしきる外に出た。
病院まで小走りで駆けながら、妹が最後まで後ろを振り返らなかった事を思い出す。
アイツも行きたかったろう。が、この雨ははっきり言って「行きたいなら行けばいい」とかいう事じゃ片付けられないくらい激しい。
ちゃんと挨拶しないとな。
病院に走りこんで、そう思った。
昨日よりも多い患者さんを避けながら、フードを外して病院内を少し早足で歩く。
別に急ぐ必要な無いのだけど、何故か足が勝手に進んだ。
もう慣れた足取りで、早苗ちゃんの病室に急ぐ。
これが、多分見納めになるだろう。もう来ることは無い。
次に来た時に、多分僕は早苗ちゃんの事は覚えていないだろう。
そういうものだ。ふとしたきっかけで思い出すことはあっても、お見舞いに来るかといわれればそれは無いだろう。
だから、せめて最後に挨拶はしておきたかった。
次の曲がり角を曲がったら、病室が見える。
曲がって、病室の前に来た。
「・・・・・・?」
ふと、僕は気付いてしまった。
早苗ちゃんのナンバープレートが、扉の横についていなかった。
ドクン
嫌な予感がする。
僕はコンコン、と閉まっている扉をノックした。
「・・・・・」
返事は無い。
もう一回、ノックをしてみる。
「・・・・・」
やはり、返事は無い。
恐る恐る、僕は扉の取っ手に手をかけた。
その手は、確かに震えていた。
ガラガラガラ
開いた扉。開けた視界。
その視界の中に、早苗ちゃんの姿は無かった。
何も無い、無機質な部屋。
昨日あった早苗ちゃんの私物も、何も残っていない。
何故だろう・・・。
僕は考えた。
考えたくは無かった。と、いうより、答えは解っていたんだと思う。
が、認めたくなかった。
まだ、確証はない。
僕は扉を閉めて、ナースステーションに向かった。
早苗ちゃんがどうしたのか、聞きたかった。
できれば、あの日僕が呼んだ人が良かったが、居なかった。
だから、他の人に聞いた。
「○○○号室の田中さん、って・・・」
どうなったんですか?
すると、看護婦さんは少し苦い顔をして、教えてくれた。
そうですか。と、僕は答えて帰っていった。
ああ、どうだろう。「そうですか」なんて言えていただろうか。
解らない。覚えていないから。
変える途中、祖父の部屋に顔を出した。
帰るという事を伝えると、祖父は少し悲しそうな顔した。
「じゃあね」と、僕は笑った。と思う。
笑えていただろうか。解らない。覚えていないから。
車は向かいの建物の駐車場に停めたとメールが来た。
僕は外に出て、歩いて車まで向かった。
しこたま、雨に打たれた。
それでも良かった。寧ろ、そのほうが良かった。
理由は、・・・わかるだろう?
妹が、早苗ちゃんの事を聞いてきた。
「ああ、元気だったよ」と、ぬれた髪を拭きながら、僕は言った。
元気だったよ。
「そっか」と、妹は笑った。
やっぱり、お前は子どもだ。と、思った。
だから、それでいい。
子どものままでいい。
僕の今の表情を、読み取れなくて良い。
多分、僕は祖母の家に帰るたびに思い出す事になるんだろうと思う。
お見舞いには、やっぱり行けない。行く事は出来ない。
それでも、きっと。
僕は、彼女の事を、思い出の中にしまったまま、忘れる事はないんだろうなぁ。
そんな事を思って、僕は外を見た。
雨は、やはり強く地面を打ちつけているばかりだった。
最終話です。




