第三十七話 クサレエン
白く霧がかかっていて視界は何も見えない。自分の体は今、存在しない。ただ意識が、魂がそこにあるだけ。そうした中に声が響いてくる。
「また来たのか?」
妙に木霊するその声を聞いて頷く。
「二度目だ。さすがに私も放ってはおかぬぞ」
声は脅すように響き渡る。ここは狭い空間なのか広い空間なのか、それすらもわからなくなる。そのくらい頭が働かなくなる場所。意識を飛ばして何もなくす場所。
「貴様には苦しみを与えたというのにこの期に及んでまだ之か?」
「来たくて来たわけじゃねぇよ」
真っ白い靄のある視界をその目に移して薪はやっと言葉を発した。この空間で言葉を発することは酷く苦しい。
「前回は己から来たのであろう」
声の主に言われて薪は言い淀む。そんな薪を無視して声は続ける。
「まぁいい。此方としては貴様を荷物に持ちたくない。私は貴様が嫌いだ」
響くその声。心そのものを揺さぶってくる強いその声に薪はおのずと瞳を閉じる。
「ゆけ。路は知っているだろう」
ふっと戻ってきた体の痛みと重み。そして心の重圧。しばらくその痛みたちと格闘してから傍に儒楠と穂琥が居ることに気付いた。
「薪って馬鹿なんだもん!!」
「おめーに言われたくねぇよ・・・」
「薪?!」
突如会話に加わってきた薪に驚いて飛びのいた穂琥と儒楠を少し意識からはずして薪は小さくため息をついた。
「また返されたか・・・」
「薪!よかったぁ!!何週間寝てんだよ!馬鹿!馬鹿馬鹿!やっぱり馬鹿!」
「よかった・・・薪・・・」
泣き叫ぶ穂琥と心底安堵した表情の儒楠を見て酷く申し訳ない想いに駆られた。
「あぁ、心配掛けた。ただいま」
「わぁああん!!しぃんん!!」
「おいおい・・・そんなに泣くなよ・・・」
儒楠は困惑気味の薪の額を軽く指で弾く。
「いたっ。なにすんだよ、儒楠」
「うるせぇよ。帰ってきたじゃねぇか。あれぇ~?無理とか言っていたのはどこの誰かなぁ~?」
わざとらしい口調に薪は視線をずらして苦い顔をする。
「相変わらずうっさ・・」
「ぶわぁぁぁぁあああん!!」
薪の言葉は穂琥のはしたない声でかき消される。
「いや・・・穂琥・・・・」
薪と儒楠の声が重なる。薪も儒楠も呆れたように穂琥を見るが、薪はそっと穂琥の頭に手を置いて、自分が今生きていることを実感する。
「さて、薪よ。聞きたいことは山ほどあるが、まず最初に聞きたいことが一つ。目が覚めてから二発目の言葉」
儒楠がそういうと薪は少し記憶を過去へ戻し自分が何を言ったのかを思い出しているようだった。そして思い出したような顔をしたので儒楠はさらにそれを問い詰めるように薪に言い寄る。
「どういうことだ?」
「あ~・・・。オレはあの世に嫌われているんだよ。だからまた返されたん・・っつ・・・」
言葉を切って薪は痛みと悶絶した。儒楠と穂琥は焦って薪の安否を確認する。何とかその痛みも引いて落ち着いた薪に諦めたように儒楠は肩を落とした。
「今日は面会謝絶だな。明日また来るよ」
拒否する穂琥を強制連行しながら儒楠は部屋を出て行った。残された薪は閉まっている扉を見詰めて小さくため息をつくと窓の外のどこまでも広がる広大な大空を見詰めてまたため息をついた。
翌日、医務室にはたくさんの眞匏祗で溢れかえってきた。中には泣いている者もいるくらいだった。
「薪様!本当によくご無事で!!」
「これからはこのような無茶なさらないでください!」
「せめて御付をつけるくらいはしてください!」
よってたかる長夸と役夸に本当にすまなさそうに苦笑いをしている薪がベッドの上にいた。そんな姿を見て、本当に薪が帰ってきたと実感して心が先走って穂琥は叫び声をあげるのだった。
「薪―!!」
勢いよく薪にダイブしてその勢いで薪は後ろに倒れて痛みに悶絶しさせてしまった。
「わっ?!ゴメン!!大丈夫!?」
「あ、あぁ・・・平気・・・」
「あははは、穂琥ったら。ちゃんと考えないと、薪また意識飛ばしちゃうよ?」
後ろから笑いながら儒楠が来た。ある程度言いたいことを言い切っていた長夸たちは軽く頭を下げて嬉しそうに部屋を出て行った。
「追い出してしまったかな」
「そんなことはねぇよ」
儒楠の言葉に薪が答える。その様子を見ていないと本当にどっちが喋っているのかわからない。互いに見合わせて体調の確認をした後、儒楠はにやりと笑った。
「それで?昨日の続きの質問だけど」
儒楠のしたり顔のような表情に薪は先ほど以上に苦い表情をして笑った。そして諦めたようにため息をつく。
「ん~。なんというかね。オレは今回を含めて二度、『堺』に行った」
薪の言葉に儒楠は酷く驚いた顔をした。しかし、穂琥にとってはそんな単語、聞き覚えもなく理解するには説明が足りなすぎた。
堺とはこの世とあの世を結ぶ中間的な最も曖昧な場所。しかしその程度の説明しかしない。それ以上は言葉を濁してしまってうまいこと語ってくれない。穂琥は文句を言ったが、コレばっかりは薪の意思で語っていいことではないらしい。どうやらそこに存在する『堺の住人』が余計なことを言ってはならないとしているらしい。しかしながらココまで話している時点で天罰のようなものを食らってもおかしくないかもしれないと遠い目で笑う薪だった。
ひとまずその話はおいておくこととして穂琥は安堵の息をつく。
「でもよかった。無事で・・・。もう無理とかしないでね・・・」
その言葉にてっきりあぁ、そうだね、的な言葉が返ってくると思っていたのに、薪からそれらの類の言葉は返ってこない。それどころかそのほかの言葉すら返ってこない。しばらく沈黙が続いた。
「薪くぅん?」
痺れを切らした儒楠が引きつった笑顔で薪の顔を覗き込む。薪の顔は未だに警戒しているもので穂琥はまたあの『嫌な感覚』を味わうこととなった。もうこんな苦しい薪の表情は見たくないのだけれど。
儒楠は薪の考えを悟ってまず、何をしに出かけたのかを尋ねた。穂琥としてはそっちなのかと突っ込みたかったが、それを突っ込める空気ではないので黙っていることにした。
少し過去の話。薪が出かけると言った理由として、役夸が訪れた。その役夸が伝えてきたことが、『紫火様の墓にて禍々しい眞稀が残っているのを感知しました』ということ。そしてその眞稀に覚えのあった薪はそれの大本がどこにいるのかを探しに行くことにしたということ。
「覚え・・・?」
「そう。餓鬼のころの・・・。そして誄洲のところでの」
それを聞いて儒楠は納得する。薪に絶大なる傷を与えた眞匏祗が再びここに訪れ禍々しい眞稀を残して去ったということ。そしてその眞匏祗を見つけるために薪は走った。そしてその眞匏祗が部下として抱えている眞匏祗の数を調査した。必死になって確認できたのは4祇だったという。それだけのこと。たったそれだけをするのに薪がここまでボロボロになったのにはそれなりの事情は存在する。
無論、向こうは相当な力を有している者たち。さすがの薪でも4祇を相手に簡単に逃れることはできない。それだけではない。薪の過去の記憶が体の動きを鈍らせる。ただ頭が必死になって命令する。逃げろ、逃げろ、ここから今すぐに立ち去れと。そんな状態で正常な判断ができるわけもなく、無意味に移動を繰り返し眞稀の消費を激しくしてしまった。そして何とか城に帰り着いたということになるのだが、たかがこれだけで、と思うかもしれないけれど。薪にとっては重大で恐るるべくことであるということだ。