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指輪のない左手  作者: 九葉(くずは)


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第2話 辞退の朝

園遊会の朝は、よく晴れていた。


王宮の南庭園に白い天幕が並び、芝の上に長卓が据えられている。銀の花器にはまだ朝露の残る薔薇が活けられ、その水滴が陽光を受けて小さく光る。風が渡ると、天幕の裾が波打って、芝の青い匂いが鼻先をかすめた。


リーゼルはいつも通り殿下の隣にいた。いつも通り笑い、いつも通り社交の言葉を交わし——いつも通りであるための力の入れ方が、今日は少しだけ違う。


「紹介したい人がいる」


あの夜の一言が、まだ耳の奥に残っている。



殿下が席を外したのは、園遊会が始まって半刻ほど経った頃だった。


戻ってきたとき、隣に女性がいた。


淡い桃色のドレス。亜麻色の巻き毛。笑うと頬に小さなえくぼができる——それが、リーゼルが最初に見たセレーナ・フォン・ハイリゲンの印象だった。


公爵令嬢。名前は社交界で何度か耳にしていた。


殿下がセレーナに何か耳打ちし、セレーナが口元を手で覆って笑う。殿下もつられたように口角を上げた。


——あの笑い方を、私は知らない。


三年。殿下の隣にいて、一度も見たことのない表情。社交の笑みでも、政務のときの薄い微笑でもない。意識せずにこぼれ落ちる種類の、笑い。


リーゼルの後方で、かすかな音がした。革が軋む音。ヴォルフが剣帯を握っている。振り返らなくてもわかる——三年間のそばで覚えた、あの硬い音。なぜ今、剣帯を。


考える間もなく、セレーナがリーゼルに気づいて、ぱっと顔を輝かせた。


「あなたが殿下の婚約者様ですのね。素敵ですわ、お会いできて嬉しい」


屈託のない声だった。悪意がない。それがわかるから、余計に胸の奥が軋む。


「こちらこそ。お噂はかねがね」


リーゼルは完璧な笑顔で返した。頬の筋肉が自動的に動く。三年間の蓄積が、こういうとき役に立つ。


殿下とセレーナが並んで歩き出したとき、リーゼルはその二人の背中を天幕の影から見ていた。距離。肩と肩のあいだの、自然な近さ。リーゼルと殿下が並ぶときには存在しない、あの呼吸の合い方。


三年間、自分が座っていた場所は椅子ではなかった。


空席に置かれた、名札のようなもの。本来そこに座るべき人が来るまでの、ただの仮留め。


——わかっていた。最初から、わかっていたはずだ。


手袋の中で、左手が小さく震えた。



辞退願は、とうに書いてあった。


リーゼルの文机の引き出しに、半年前から入っている。白い封蝋で綴じた一通の書状。宛名は王太子アルヴィン殿下。「婚約の辞退を願い出る」という、たった数行の文面。


いつか必要になると思って書いた。必要にならなければいい、とも。


——その「いつか」が、昨日来ただけのこと。


園遊会の翌朝。リーゼルは早くに目を覚まし、引き出しから封書を取り出した。封蝋の白が、朝の光を受けて鈍く光る。指先で縁をなぞると、蝋の小さなでこぼこが爪に触れた。


マルタが身支度を手伝いに来たとき、リーゼルは封書を手に持ったまま鏡の前に座っている。


老侍女は封書を一瞥し、何も訊かない。ただいつもより丁寧に、リーゼルの髪を梳いていく。



王宮の謁見室は、朝でも薄暗い。


高い窓から差す光が、埃の粒子をゆっくりと照らしている。リーゼルは部屋の中央で立ち止まり、正面の椅子に座る殿下と向き合った。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


声が室内に反響する。石の壁が、言葉をよそよそしく跳ね返す。


リーゼルは封書を差し出した。


「こちらを、お受け取りいただければと存じます」


殿下は黙って受け取り、封蝋を割った。乾いた、小さな音。中の書面に目を通す時間は、ほんの数秒。


沈黙。


「……ご苦労だったね」


穏やかな声だった。いつもと同じ、感情の輪郭がない穏やかさ。労いとも、安堵とも取れる曖昧な一言。


引き留めの言葉は、ない。


ただ殿下は、ほんの一瞬だけ視線を手元の書面に落とし、何か言いかけた。口が動いて——閉じた。リーゼルの三年間に対して何か思うところがあるのか、単に次の予定を考えているのか、判断がつかない。そのどちらともつかない横顔が、純粋な悪意よりもずっと堪えた。


胸の奥がすうっと冷える。痛みではない。もっと静かな、何かが抜け落ちる感覚。三年間そこにあったものが音もなく消えて、空洞だけが残る。


「三年間、お仕えできたことを光栄に思います」


深く礼をした。額が膝に近づくほどの、完璧な角度。視界の端に、床の大理石の目地が一本、途切れているのが見えた。それだけが妙に鮮明で、あとはぼんやりと白い。



廊下に出ると、空気が変わった。


謁見室の重く籠った空気から、窓の開いた回廊の風に変わる。冷たい。秋の朝のにおいがする。


十歩ほど歩いたところで、足が止まった。


前方に、ヴォルフが立っている。


近衛の正装。廊下の窓際に背を預けるようにして、壁に寄りかかっている。待っていたのか、偶然なのか——リーゼルには判断がつかない。


ヴォルフがこちらを見た。


何か、言わなくてはいけない気がした。「終わりました」とか、「お世話になりました」とか、この三年間の護衛への礼を述べるべき場面のはず。


口を開いた。言葉が出ない。


喉の奥に何かが詰まっていて、声のかたちにならない。一歩、また一歩。ヴォルフの横を通り過ぎる。彼の外套の、革と油の匂いがかすかに鼻をかすめた。昨夜の夜会と同じ匂い。


すれ違いざま、ヴォルフの手が微かに動いた気配があった。


伸ばしかけて、止めたのか。もとから動いていなかったのか。リーゼルにはわからなかった。確かめるために振り向くことが、なぜかできなかった。


足だけが動く。廊下の突き当たりを曲がるまで、一度も振り返らなかった。



馬車でエルトハイム邸に戻ったとき、玄関の階段にマルタが立っていた。


出迎えではない。洗い終えた手を前掛けで拭きながら、たまたま日に当たりに出たという風情で、階段の上からリーゼルを見下ろしている。


「お帰りなさいませ」


いつもの声。いつもの顔。何も訊かない。


リーゼルは階段を上がり、マルタの横を通り過ぎようとして——足が止まった。


左手を見下ろす。手袋をしたままの、何もない左手。


隠していた。三年間、ずっと。何もない指を絹で覆い、仮初めの婚約者として笑い、仮初めの定位置に立ち続けてきた。


もう——隠すものはない。


ゆっくりと、手袋を外した。指の一本一本から絹を抜くように、丁寧に。マルタの前で。


外した手袋を、右手で握りしめる。絹が掌の中でくしゃりと歪んだ。


マルタは何も言わない。ただ、視線をリーゼルの素手の左手に落とし、一瞬だけ唇を引き結んで——それから、いつもの顔に戻る。


「お茶をお淹れします」


その声が少しだけ低かったことに、リーゼルは気づかないふりをした。



手袋を外した。もう、隠すものはない。


けれど素手の左手は、思っていたよりずっと冷たかった。

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