第3話 呼称の切り替え
白い空間に、大きな変化はなかった。
相変わらず輪郭は曖昧で、距離も奥行きも定まらない。ただ、先ほどまでとは違い、流れが一段落したような静けさがあった。何かが終わり、次へ進む前の、短い区切りの時間。
女神エリスは、変わらぬ姿勢でこちらを見ている。
「次は、呼称について説明します」
その言葉を聞いても、身構えるような感覚は生まれなかった。スキル選択と同じく、必要な工程の一つなのだろうという理解が先に立つ。
「あなたの識別情報は、すでにこちらで確定しています」
エリスは淡々と告げる。
そこに、確認の意味合いはなかった。問いかけではなく、事実の提示だ。あらためて名前を聞かれることもなければ、何かを書かされることもない。
「ただし、新しい世界では、言語や文化の都合上、呼び方が簡略化される場合があります」
白い空間に、文字が浮かび上がった。
中村幸一
それは、これまでと変わらない表記だった。見慣れたはずの文字列だが、どこか距離を感じる。懐かしいというより、整理された情報として提示されている印象が強かった。
「これは、あなたの元の世界での正式な識別名です」
続けて、もう一つの表記が現れる。
ナカムラ・コーイチ
カタカナで記されたその名前は、少しだけ輪郭が丸い。発音しやすさを優先した結果だと、直感的に分かった。
「異世界では、この表記が適用されます」
エリスは、補足する。
「これは新たな登録や変更ではありません。あくまで、運用上の呼称です」
説明は簡潔だった。そこに感情は乗っていない。どちらの名前が本当か、という話でもなかった。
「正式な識別情報は保持されたままです。呼び方のみが切り替わります」
言われてみれば、それは自然な話だった。国が変われば、名前の呼ばれ方が変わることもある。アルファベット表記や、発音の都合で形が変わるのは珍しくない。
それでも、この場でそれを説明されると、妙な感覚が残る。
――名前が、手続きの一部として処理されている。
人格や記憶と切り離され、識別のための情報として扱われている。その事実を、否定する理由はない。エリスの言葉は一貫しており、論理的だ。
「異世界では、通称として『コーイチ』と呼ばれることが多くなるでしょう」
エリスは、そう付け加えた。
「必要に応じて、正式名と通称は使い分けられます」
そこにも、選択を迫る響きはなかった。こうなる、という説明を受け取るだけだ。
「ご理解いただけましたか」
確認のような問いかけだったが、返答を求める圧は感じなかった。
「はい」
短く答えると、それで十分だったらしい。
「以上で、呼称に関する説明は終了です」
浮かんでいた文字が、静かに消えていく。白い空間は再び、何もない状態に戻った。
名前が変わった、という感覚は薄い。むしろ、用途が分かれた、という方が近い。元の世界で使っていた名前はそのまま存在し、新しい世界では別の形で呼ばれる。
それを、不自然だとは思わなかった。
「次に進みます」
エリスは、いつも通りの調子で言う。
この工程も、彼女にとっては定型処理の一つなのだろう。特別な意味づけはされていない。
だが、心のどこかに、わずかな引っかかりが残っていた。
名前は、ただのラベルなのか。それとも、もっと別の役割を持つものなのか。
その答えを考えるには、まだ情報が足りなかった。




