1話 白い空間 女神との接触
第1章 死と転生。
衝撃は、音よりも先に視界を奪った。
何かにぶつかった、という認識が成立する前に、世界が裏返った。光が弾け、次の瞬間には輪郭というものがすべて失われていた。体がどうなったのかを考える暇もなく、意識だけが唐突に切り離されたような感覚があった。
痛みはなかった。
少なくとも、理解できる形の痛みはなかった。熱も冷たさもなく、ただ「途切れた」という感覚だけが残った。
――終わったのか。
そう思った瞬間、思考そのものが宙に放り出される。
次に気づいたとき、上下の感覚はすでに消えていた。足が地面についているのか、それとも宙に浮いているのかが分からない。重力という概念が、ここでは意味を持たないらしい。
白い。
ただ、それだけだった。
壁も天井も床もない。光源も影もなく、距離や奥行きといった情報が完全に欠落している。視界は開けているはずなのに、どこまで見えているのかが分からない。閉じた空間なのか、無限なのか、その区別すらつかない。
呼吸はできていた。心臓も動いているように感じる。だが、息を吸っているという実感も、鼓動を打っているという確信も希薄だった。身体はある。しかし、その存在感が現実のものよりも一段薄い。
「……ここは」
声に出したつもりだったが、音が空間に吸い込まれていく感覚だけが残った。反響はない。沈黙ですら、存在しているのか怪しい。
混乱はしていた。だが、恐怖で思考が止まるほどではない。
――夢ではない。
そう判断するのに、時間はかからなかった。夢にしては感覚が整理されすぎている。曖昧さがない。現実と違うのに、現実よりも輪郭がはっきりしている部分がある。
そのときだった。
白一色だった視界に、微かな歪みが生じた。
空間の一部が、ゆっくりと焦点を結び始める。人の形をした影が、滲むように現れ、次第に色を持ち、細部が定まっていく。
ひとりの女性だった。
年齢は判別しがたい。若くも見えるし、そうでないようにも見える。穏やかな表情と、落ち着いた佇まいだけが印象に残った。白い衣をまとっているが、この空間では白が特別なのかどうかも分からない。
彼女は、こちらを見ていた。
「お目覚めですね」
声は、はっきりと届いた。頭の中に直接流れ込むわけでもなく、空間に響くわけでもない。ごく自然な会話として、言葉が成立している。
「中村幸一さん」
呼ばれた名前に、違和感はなかった。驚きもなかった。まるで、最初からそう呼ばれることが前提であるかのように、意識がその音を受け取っていた。
女性は軽く一礼する。
「はじめまして。私は女神エリスと申します」
女神。
その単語を聞いても、現実感が急に増すことはなかった。だが、否定する理由も見当たらない。ここが常識の通じる場所ではない以上、その肩書きが真実である可能性も、十分にあり得る。
エリスは、淡々と続けた。
「まず、事実からお伝えします。中村幸一さんは、先ほどの世界において死亡しました」
宣告は簡潔だった。感情を乗せるでもなく、重々しく演出するでもない。事務的と言っていい口調だった。
「現在のあなたは、意識・記憶・人格を保持したまま、こちらの空間に移行しています」
質問はいくつも浮かんだ。だが、遮る気にはならなかった。提示される情報が整理されており、順序だっている。割り込むより、まず受け取る方が合理的だと感じた。
「あなたには、新しい世界で生きる権利が与えられています」
“権利”。
選択肢があるのかどうかは語られない。ただ、拒否を想定した説明ではなかった。
「特別な使命や役割が課されることはありません。世界を救う必要も、誰かと戦う必要もありません」
エリスは、そこで一拍置いた。
「ただ、生きてください。それだけです」
その言葉を聞いても、胸が高鳴ることはなかった。安堵とも、落胆とも違う。むしろ、条件があまりにも簡潔で、過不足なく提示されていることに、奇妙な納得感を覚えた。
「ここから先へ進むためには、いくつかの準備が必要になります」
エリスは視線を外さずに言う。
「次に、その説明を行います」
白い空間が、わずかに明るさを増したように感じられた。輪郭のない世界が、ゆっくりと次の段階へ移行しようとしている。
エリスの表情に迷いはない。その振る舞いは終始一貫しており、何かを探る様子も、戸惑う気配も見えなかった。
――少なくとも、彼女にとっては、これが完全に“仕様どおり”の出来事なのだろう。
そんな感覚だけが、静かに意識の底に残っていた。




