第48話 この傷をつけた男を、私は絶対に許さない
トビアスの瞳はすさんでいた。空洞で何もない。
ただハルムートの焦った表情が、鏡のように映っている。
「兄さんが俺を見捨てた日のこと、覚えてるよ」
夜。道路は冷たく、体温が奪われていく。
涙が乾いた頬に、細かな砂利が張り付いた。苦くてまずい。汚い。惨めだ。
トビアスは、兄に見捨てられた日のことを克明に覚えていた。
ハルムートは背筋がゾッと冷えた。
胸ぐらを掴む手が震える。
「そんなの、お前が招いた結果だろう。俺は何度も忠告したよな。聞かなかったのはお前だ。それなのに責任をとれだなんて、甘えるのもいい加減にしろよ」
そうだ。自分は悪くない。
ハルムートは必死で自分の心を奮い立たせた。
俺だって金が必要だった。
父が成し遂げられなかった事業を成功させたかった。
それなのに、馬鹿な家族に足を引っ張られる。
俺は何も悪いことをしていないのに。俺は真面目に生きてきたのに。
「兄さんが悪いなんて言ってない。兄さんはいつだって正しいよ」
トビアスの表情は渇いていた。
以前同じ家にいた時とは全く違っていた。
純粋なまでの愚かさが消えている。
劣等感と自己顕示欲に塗れた幼稚さが、これっぽっちも見受けられない。
「何が言いたいんだ。反省したっていうのか」
「俺だって学んだんだ。兄さんから"生きる術"ってやつを。兄さんみたいに賢く生きたいからね」
ハルムートは口の中が急速に渇いていく。
ーーーイヤな予感がする。
「なんだ、お前、何が言いたい。ヘンネに何しに来た。何をするつもりなんだ」
「俺は兄さんを売る」
ハルムートは全身に鳥肌が立った。
トビアスはぎょろっとした瞳をハルムートに向ける。
「エレーナと取引をした。俺の負債を全て支払う代わりに、ヘンネの新聞社にリークの手紙を渡すと」
「……このっ」
「兄さんが俺を『家族関係放棄証明』で見捨てたこと、ザントクラーデの負債をエレーナが肩代わりしたことが書かれている」
「ふざけるな!」
掴んでいた胸ぐらを思いっきり突き飛ばした。
トビアスの身体がずしゃ、と地面に転がる。
ハルムートは倒れたトビアスの汚いポケットを探った。
どこに手紙がある。
ちくしょう、奪い取って捨ててやる。
暴れるトビアスの手足を押さえつけて服を探る。
揉み合いになり、何発か顔も殴って、互いに髪をつかみ合った。
息を切らして、ハルムートはやっとトビアスから手紙を手に入れた。
ざっと中身を確認する。
さきほどトビアスがリークしようとしていた情報が書かれていた。
エレーナがザントクラーデの返済で支払った金額は五億六千万クラム。
はっ、とハルムートは鼻で笑った。
「っ、は、エレーナのやつ。ご苦労なことだ。この馬鹿に託したばかりに」
「っ、かえ、せ」
トビアスは地面に転がりながら、弱々しく手を伸ばす。
その手を踏み付けて、ハルムートは、はは、と笑った。
勝った。
五億も払ってこの無能に大事な手紙を託すなんて。
あいつもぬるい。所詮学のない浅はかな女だ。甘い考えで大金をドブに捨てるとは。
こいつが手紙を無くすとは想定していなかったのか。
この手紙にはエレーナのサインが入っている。
だからこそ信憑性がある。
これさえ奪ってしまえば、トビアスがいくら必死にリークしようとしても無駄だ。
この馬鹿が出版社にたれ込みに行こうが、ただの浮浪者が戯れ言を吐いていると無視されて終わりだ。
俺はこの馬鹿どもと違って日々信頼を築き上げてきたんだ。
俺のイメージが簡単に崩せるとでも思っているのか。
「おい、念のためこいつはうちに監禁しておけ。二度と外に出すな」
「承知いたしました」
後ろで控えていた執事に言いつける。
執事はさっとお辞儀をして、護衛たちがトビアスをずるずるとひきずる。
トビアスはもう暴れる気力もないのか、弱々しく頭を下げていた。
乱れた髪を片手で整える。
この馬鹿のせいでこんな遠くまで来てしまった。
ユリウス王子を王都に見送ることもできなかったし、俺のイメージも良くないだろう。
あの分じゃファルネリアに投資などしてくれないようだったが。
まあいい。あいつは所詮第二王子。
もっと別の貴族に声をかけよう。
俺に価値を見いだす投資家はたくさんいるんだーーーー
「馬鹿だね、兄さん」
トビアスは後ろ手に縛られながら、ふっと笑う。
ハルムートは「は?」と苛立った声が出てしまった。
「兄さんに恨みを持ってるのが、俺だけだと思ってるのか」
「……何が言いたい」
「ああ、そうだ。面白い話を耳に挟んだんだ」
トビアスはうつむきながら、くくく、と喉の奥で笑いを噛み殺す。身体が楽しそうに震えている。
ハルムートは背筋が冷えた。
どくどく、心臓がイヤな音を立てる。
なんだ、なにを聞いたんだ。
ハルムートは叫んだ。
地面に押さえつけられているトビアスの髪を掴み、唾を飛ばして怒鳴りつける。
トビアスは楽しそうに瞳を歪めていた。
「九月二十日。リンドベルグで、ステラ・ファルネリアが主演の舞台が行われる」
ハルムートは汽車に飛び乗った。
走って、道行く人を突き飛ばして、自らの姿も顧みずに、走った。
遠くでトビアスの高笑いがしたが、もう耳に入らなかった。
執事たちすら置いて、ハルムートはひとりで走った。
今日は九月十五日。
ヘンネからリンドベルグは、直通の線が通っていない。王都を経由して五日はかかる。
あの女を外に出してはならない。
今から行けばギリギリ間に合うかどうか。
夜遅い便だったが、最終の汽車に飛び乗った。ハルムートはリンドベルグへ向かった。
九月二十日。
リンドベルグはひとで溢れていた。
ハルムートは街ゆく人の背中を押して、子供を蹴り飛ばして劇場へ向かった。
リンドベルグの劇場は街の中心部にある。
劇場に近づくにつれ人の数も増えていく。並ぶ庶民を押しのけ、息を切らして走る。
ステラを止めなければ。
あの女はトビアス以上に危険だ。
ステラは大人気女優だ。
それに、ステラの顔には大きな火傷がある。
舞台の下からでもはっきりと分かるような、傷が。
俺がつけた。俺がランプで殴ってつけた傷だ。
もし、あれが世に出ることになったらーーーー
ハルムートは頭が真っ白になっていた。
焦って、呼吸がうまくできなくて、ただ足がもつれても、走った。
劇場に着く。
通路に沿って歩くと、観客席に出た。目の前には大きな舞台。立派な赤いカーテンがかかっている。
観客席は埋まっていた。数千人を超える客がそわそわと劇が始まるのを待っている。
席の後方には知り合いの記者もいた。何社か新聞社も呼んでいるらしい。
ーーーまずい、まずい、まずい。
声をかけられる前に、急いで背を向けて走った。
関係者専用通路を見つける。
スタッフはみな忙しそうだった。ハルムートを止めるものはいなかった。
あたりを見渡し、ステラを探す。
けれど、いない。ここはどこだ。わからない。知らない小道具が並ぶ。
しばらく歩き回っていると「すみません、もう始まるので」とスタッフに追い出された。
閉め出された扉のすぐそばは、立ち見の観客席だった。多くの人で混雑している。
途端に照明が落ちた。真っ暗になる。
観客たちが息を呑んで舞台を見つめる。
静寂が耳に痛い。
ブーン、と低い音が鳴って、カーテンが開いた。
ハルムートは、叫び出しそうになるのを必死にこらえた。
舞台には、美しいステラが立っていた。
顔の右半分を覆う、火傷の傷を携えながら。
「ああ! なんということでしょう。私は夫に殺され、死に戻ってしまった。この傷をつけた夫を、私は許さない。絶対に許さない!」
ステラは舞台の上で、叫ぶ。熱を持って。
ただの演技ではない。
鬼気迫る、怒りを持った、すべての感情が込められた姿だった。
ハルムートは引き込まれてしまった。
怒声は自分に向いている。
殺される、この女に殺される。
は、は、と心臓が勢いよく脈打つ。呼吸が浅くなる。
どうしよう、どう、もう、止められない。
ハルムートは震えながら、舞台に立つステラをただ見つめるしかできなかった。
第四十九話は18時10分頃投稿予定。
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