第44話 あなたは舞台に立ちたいかしら?
ホテルの一室に、五人が集っている。
わたくしとヴィルヘルム、テオドール、マティアス。
そして、ステラ・ファルネリアを名乗る女性。
暖炉から静かに木が爆ぜる音が響いていた。
重い沈黙の中、テオドールがみなに紅茶を用意する。
ことり、とカップを彼女の前に置くと、彼女は「ありがとうございます」とか細い声で言った。
ストールを被り、うつむいたまま。
「ええと、俺はここ連日、ファルネリア邸へステラさんに『劇に出てくれないか』と依頼に行っていました」
マティアスが切り出した。
わたくしたちは座って、じっと彼の話を聞く。
「いつも門前払いでしたが、一週間以上家の前に居座っていたんです。そしたら彼女に話しかけられました」
マティアスが隣に座る女性を示す。
彼女はこくん、と頷いた。
「……なるほど。経緯は分かったのだけれど。彼女は本当に”ステラ・ファルネリア”さんなの?」
「はい。彼女の声は一度聞いたら忘れられません。凜として美しくて……」
「わかった。いいわ、ストップ」
マティアスの語りに熱がこもりそうなので一旦止めた。
ステラはか細い手でストールを握ったまま「本当です」と呟いた。
「私がステラ・ファルネリアです。少し前まで女優をしておりました」
「少し前? 引退なさったの?」
「………はい」
小さな呟きだったが、部屋をしんとさせるには充分だった。
マティアスは唇を噛んでいる。あれほど熱烈にオファーをしていたのだから、突然の引退宣言に悔しい思いをしているのだろう。
重苦しい空気に息が詰まりそうだ。
ステラは「本当に申し訳ありません」と呟く。
「でも、マティアスさんが来てくれて、嬉しくて……。私でなければいけないと語る声がとても熱心で。門前払いしてしまうのが申し訳なく、事情をお話しできればと思いました」
ストールを掴む手に力が入る。
わたくしは眉をひそめた。
ステラの声に嘘はなさそうだ。
この様子なら彼女は引退したくないように思えるが。
夫・ハルムートに演劇の仕事を辞めるように言われたのかもしれない。
というのは想像できるけれど、それだけで彼女が引退するだろうか。
そんな芯の弱そうな女性には思えないが。
「事情を伺ってもよろしいかしら?」
わたくしは極力優しい声を出した。
ステラの細い身体がかすかに震える。
ステラは意を決して、顔を覆っていたストールをはらりととった。
「!」
わたくしたちはみな、息を呑んだ。
ステラの顔、右半分には、ひどい火傷の痕があった。
「驚いたでしょう。こんなことになってしまったから、もう舞台には立てないんです」
ステラは自嘲気味に笑った。
左半分はもとの顔なのだろう、噂通り美しい顔が覗いている。
サファイアのような瞳に長い睫毛、きめ細やかな白い肌。
けれど、右半分は皮膚が赤黒く焼けただれていた。
痛々しい。右目は半分ほど閉じている。
嘘ではない、本物の火傷の痕だ。
「私の価値なんて顔しかない。”舞台で輝く一粒の星"。そう称されていたのに、この顔じゃあもう輝けない。だから、引退することにしたんです」
気丈に微笑むけれど、その表情には虚しさと悔しさが渦巻いていた。
マティアスは泣きそうな表情で「ああ、そんな」と零した。
「どうして、なにが、どうして、そんな傷を? 何があったんですか?」
縋るように尋ねる。
ステラは瞳を伏せ、困ったようにうつむく。
そうね、と薄い唇を上げて、ぽつぽつと説明した。
夫のハルムートに劇に出ることを反対されたこと。
隠れて劇に出ようとしたら、見つかってランプで殴られたこと。
その際に火傷を負い、治療を受けたものの、顔の傷は治らなかったこと。
現在はファルネリア邸で軟禁されていること。
「ヘンネの劇は断わりました。みなさんにご迷惑をかけてしまった。本当に、申し訳ない。……ほんとうに、」
ステラの声が震えた。
気丈に振る舞っていたけれど、次第に涙声になった。
ストールを握りながら、唇を噛み締める。
「……ひどい。自分の妻になんてことをするんだ」
ヴィルヘルムは低い声で呟いた。
ぎりぎりと拳を握り締めて、怒りを殺している。
「仕事を勝手に断わるどころか、こんな傷まで負わせて。許されることじゃない」
「……ええ、そうね」
「女性の顔に、しかも、舞台に出る女優だぞ。商売道具と言ってもおかしくない。それに、軟禁だなんて。妻をなんだと思ってるんだ」
わたくしはカップに手を伸ばす。紅茶は冷めてしまっていた。
一口含むと頭が冴えてくる。
「……ハルムートお兄様はそういうひとよ。外面はいいけど、身内には支配者のように振る舞う。典型的なDV野郎」
ぽつりと零すと、ヴィルヘルムとマティアスは悔しそうに歯を食いしばった。
わたくしは紅茶をまた一口飲む。
「ルイーズお姉様やトビアスお兄様、そしてわたくしにも。使用人にも必要とあれば暴力を振るいましたわ。”しつけ”としてね」
「しつけなんて、そんな……犬じゃないんだぞ」
「彼より格下のものはみな彼の”所有物”なのですわ」
ステラがわたくしをじっと見る。
エレーナ・ファルネリアがハルムートの妹だということを、改めて実感しているのだろう。
まさか、義理の姉とこんな共通点で盛り上がれるなんてね。
「……やっぱり、そうよね」
ステラは視線を落として自嘲気味に笑った。
「ヘンだと思ったの。私のことをよく知らないのに熱烈に結婚を申し込んできたから。その時はそういうこともあるかなって思っていたけど……。ハルムートさんは、私の”顔”と”名声”を自分の所有物にするために結婚したのね」
愛なんてなかったんだわ、と、ステラは小さく呟いた。
その声は冷たく、怒りを含んでいる。
けれど全てを諦めたような虚しさに包まれていた。
「そんなっ、いや、いやですよっ!」
マティアスはステラの手を取った。
強くぎゅうっと握り締めて、縋るように叫んだ。
「俺はステラさんにそんな結婚してほしくない! ステラさんは俺たちの憧れなんだ。スターなんだ! それが、くそっ、あの、クソ野郎! なにがっ! なにが夫だ!」
「マティアス、落ち着きなさい」
「落ち着いていられません! 訴えましょう! 弁護士だ。暴力と軟禁、証拠はそろってる。ステラさんをこんな目に遭わせて、タダで済むと思うな!」
マティアスの顔は赤く、憤怒で覆われている。
腕の血管が浮き出るほどの強さで、ステラの細い手を握った。
ステラは眉を下げて悲しそうに微笑んだ。
「気持ちはありがたいけれど、私にはもう夫以外の家族はいないの。演劇の仕事もできないし、離婚したら食べていけないわ」
「俺が払いますっ! ステラさんが自由になるお金くらい、安いもんだ!」
「お断りするわ。夫にどんな報復されるか分からないし。マティアスさんを巻き込みたくないの」
ステラはふふ、と優しく微笑む。
火傷があろうとステラは美しかった。
上品な仕草、可憐な表情。包み込むような優しさ。
それらは長年かけて身に付けた空気感なのだろう。
ーーー彼女なら。
「ステラさん。あなた、リンドベルグの劇に出てくれないかしら?」
ステラは、え、と目を丸くして呆然とした。
「わたくし、あなたに出てほしいわ」
「で、でも、その……私はもう、こんな傷ができて、舞台に立てる顔じゃ……」
「あなたは傷があっても美しいわ」
わたくしは真っ直ぐにステラの顔を見つめる。
火傷の痕は右半分を覆い、治らないだろう。
深く火が浸透した様子が窺える。
でも、それでも。
「わたくしはあなたの劇が見たい。あなたは? 舞台に立ちたいかしら?」
真剣な瞳でステラを射貫く。
ステラの顔が強ばった。
口を半分開いて、ひゅ、とかすかな呼吸音が聞こえる。
部屋の中がしんと静まりかえる。
ステラは、きゅっと手元のストールを握った。
「……立ちたい」
「そう」
「舞台に、立ちたい。私は、……私は、演じたい」
ステラの瞳から、一筋の涙が零れた。
初めて見た彼女の素顔だ。
悔しさと悲しさと、熱意に満ちあふれた、女優の顔だ。
第四十五話は18時30分頃投稿予定。
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