第41話 どうか今だけは、夫に見つかりませんように
※残酷描写注意
ステラ・ファルネリアは祈っていた。
どうか今だけは、夫に見つかりませんようにーーーと。
暗い地下倉庫。じめっとして寒い。手元のランプだけが唯一の明かりだった。
劇場を建設する資材が保管されている。来るのは劇場建設のスタッフだけ。
もう労働時間も終わっているから、この時間に来る人間はいない。
今しかない。
ステラはかすかなランプを頼りに台本を読む。
西部の街・ヘンネで行われる劇の台本だ。
一ヶ月ほど前に「主役として出演してほしい」と打診があった。
けれど、夫のハルムートが一方的に断わった。
ヘンネの劇場は小さく、ステラの格を下げると言って。
その後にステラはこっそりとヘンネのスタッフに「夫に内緒で劇に出られないか」と相談した。
すると、秘密で出演できるように調整してくれた。
ステラは泣いて喜んだ。
舞台に立つのがステラの何よりの幸せだった。
台本を読み、倉庫で声を出す。
足元が見えないから動きづらい。けれど、それでも、劇に出られるならなんでもする。
夫・ハルムートとの結婚は突然だった。
ステラ・フォン・アーデルシュタインは南部の有力貴族アーデルシュタイン公爵のひとり娘だった。
並々ならぬ美貌とスタイル。透き通る声。そして、抜群の記憶力。
すべてを持ち合わせたステラは、たちまち演劇界の大スターになった。
けれど、そんな幸せな日々は長くは続かなかった。
昨年、愛する両親が事故で亡くなった。
ひとり打ちひしがれているところに現れたのが、ハルムート・ファルネリアだった。
「あなたを劇で拝見してからあなたの虜だ。私はあなたの力になりたい」
と優しく微笑まれて、ステラは泣いてしまった。
誰も頼れるひとがいない中、ハルムートは手を差し伸べてくれた。
それからはトントン拍子で話が進み、ステラはハルムートと結婚することになった。
ハルムートは優しかった。
紳士的な佇まいには安心感を覚える。
「父から相続したファルネリア領を立派にしたいんだ」と意気込む姿は、応援したくなった。
ステラはハルムートとの結婚に前向きだった。
ーーーけれど。
「ヘンネの劇場だと? 断れ」
夫は、ステラが女優の仕事をするのを渋るようになった。
理由は様々だ。「小さな劇場はお前の格を下げる」「お前は夫をひとりでパーティーに出させるのか」と。
夫の声は冷たかった。
鋭いカミソリのようで、聞く度にステラは萎縮してしまった。
夫は正しい。自分は間違っている。
自分を助けてくれた夫を支えないなんて妻失格だ。
そう、ステラは考えるようになった。
ハルムートがため息を吐く度に、ちらりと視線を向ける度に、ステラは息がしづらくなった。
一ヶ月ほど前、自分たちの結婚の記事が出たらしい。
本当はもう少し前から結婚していた。
けれど、ハルムートが「まだタイミングじゃない」と出版社と連絡をとっているのを聞いてしまった。
なんのタイミングかは分からなかったけれど、ハルムートがステラとの結婚を何らか切り札にしているのは分かった。
愛はなかったのだろうか。
あの優しかったハルムートは嘘だったのだろうか。
ステラは毛布にくるまって考えた。
決定打が与えられたのは数日前。
ハルムートが血相を変えてステラの部屋に入ってきた。
「お前、アーデルシュタインの養子なのか」
ステラはヒュッと息を呑んだ。
そう、ステラは養子である。
アーデルシュタイン公爵家は長らく子供ができなかったから、南の孤児院にいたステラを養子にしてくれたのだ。
「はい」
「……はあ。こっちも偽物か」
え、とステラは言葉に詰まってしまった。
”ニセモノ”? どういうこと?
養父母はステラを実の子のように愛してくれたし、教育も受けさせてくれたし、女優業だって応援してくれた。法的な手続きもして、子である権利は持っている。
聞き間違いだろうか。
もう一度ハルムートの顔を見上げるも、ああ、聞き間違いではなかったと一瞬にして理解した。
ハルムートの視線は、もうステラに興味を失っていた。
それから、ハルムートは「俺の邪魔はするなよ」と言って、部屋を出た。
ステラはただ、呆然と閉じた扉を見ていた。
気を落としてはいられない。
ステラは悔しい思いを噛み締めながらも、自室で台本を読んだ。
ヘンネの劇は一ヶ月後に迫っていた。夫に隠れて練習していた成果か、動きは掴めたし台詞も全部覚えた。
けれど、部屋で練習していたのが夫にバレてしまった。
ステラは殴られた。
男性からの初めての暴力に、ステラは頭が真っ白になった。
痛い。軽い身体は床に転がり、頬がじんじんと痛む。
「俺の邪魔をするなって言ったよな」
「し、してな……」
「しているだろう。ファルネリア領で劇場を建設していると知りながら、他の劇に出るのか? 夫の敵対する劇場だと知って?」
「ち、ちがっ……」
「お前という財産をみすみす他の劇場に貸してやるものか。分かったらすぐに断れ」
ステラは出演辞退をする手紙を無理やり書かされた。
けれど、悔しくて、夫に内緒で追加で手紙を送った。
「どうか、辞退の手紙が届いても、どうか、劇に出させてください」と。
まだヘンネからの返事はない。
けど、もし出られる可能性が1パーセントでもあるのなら。
ステラは夫に隠れて演劇の練習を続けた。
家の中は危ないから、誰にも見られないところで。
見つけた地下倉庫には劇場の建築資材が積まれている。木と埃の臭いで息が詰まった。
けれど贅沢は言ってられない。
ランプを床に置いて立ち上がる。
覚えた台詞を口にして、闇に手を伸ばしてーーーー
「ステラ、こんなところにいたのか」
ぎい、と重い扉が開いて、かすかに光が差し込む。
立っていたのはハルムートだった。
ステラは息を呑んだ。
咄嗟に台本を背に隠し、ぎこちない笑顔を浮かべた。
頭が真っ白になる。冷や汗が垂れる。
どうして、どうして、どうして。
「お前宛に手紙が来ていた。ヘンネの劇場から。早く見せてやろうと思ったんだ」
「……あ、ありがとう、ございます」
「まさか、辞退の手紙の後に”お手紙”を出していたとは気づかなかったよ。……なあ、ステラ」
ハルムートが地下倉庫に入ってくる。
ばたん、と扉が閉まった。
地下倉庫は暗い。ステラの足元のランプ。
そして、ハルムートが持つランプが揺れる。
一歩ずつ、ゆっくりとハルムートは近づく。
革靴の音が冷たく響く。
ステラは震えた。目頭まで涙が込み上げて、恐怖で何も言えなかった。
「お前、ヘンネの劇に出ると言ったんだな」
白い手紙を、ハルムートは目の前に出した。
ランプのかすかな明かりでは上手く読めないけれど、確かに書かれていた。
『事情は分かりました。一ヶ月後、ヘンネでお待ちしております』と。
「………ち、ち、ちがい、ます」
「そうか。じゃあ、これは捨てていいな?」
そうして掲げられたのは、ヘンネへの汽車のチケットだった。
ステラはひっ、と喉の奥が詰まった。
「っ……、い、……いや、です」
「なぜだ? 必要ないだろう。ヘンネの劇には出ないのだから」
「い、いや、やだ、いやです! 返して!」
ステラはハルムートに掴みかかった。
チケットを奪おうと、その右手に飛びかかる。
ハルムートは驚いたのか、一瞬顔を引きつらせて、勢いよく左手でステラを殴った。
ばりん、と大きな音が響いた。
「きゃあっ!」
ステラは咄嗟に顔を覆った。
小さくうずくまる。
熱い。痛い。
顔の右側を覆って、あああ、と声を出す。
かすかに見えた床には、ガラスが散っている。そしてオイル。火の臭いがする。
ステラは、ランプで顔を殴られた。
「いたい、たすけ、たすけて、いたい……っ!」
「……お前が飛びかかったからだ」
「ごめんなさい、ごめ、たすけてください、いたい……っ!」
左目からぼろぼろと涙が零れる。右目は開かない。
私の顔はどうなったの、わからない。
けど、けど。
ハルムートははあ、とため息を吐いて、扉の近くに立っていた執事を呼んだ。
「これの処置を頼む」
「承知いたしました」
「代わりの女優を見つけておけ。もう顔は治らないだろう。こいつは今後、外に出すな」
ーーーーえ?
ステラは声のした方向に顔を向ける。
けど、掠れて、もう何も見えなかった。
第四十二話は明日の12時20分頃投稿予定。
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