実家の畑からダンジョンが生えたので、入場料500円(大根付き)で開放してみた。 ~都会のSランク探索者が「魔境だ」と騒いでいるが、うちは近所の婆ちゃんがドラゴンを狩っている~
山あいの朝は早い。
カーテンの隙間から差し込む青白い光と、遠くで鳴く野鳥の声。
俺、九条瑛太は、いつものように午前五時半に目を覚ました。
二十八歳。独身。元システムエンジニア。
三年前にブラック企業で心身を擦り減らし、逃げるようにこの神去村へ帰ってきた。
人口百人にも満たない、携帯の電波すら怪しい限界集落だ。
だが、今の俺にはこの静寂が心地よかった。誰にも急かされず、土と向き合い、野菜を育てる日々。
今日もまた、平和な一日が始まる――はずだった。
「……おいおい、嘘だろ」
軽トラの荷台に鍬を放り込み、実家の裏手にある畑へ向かった俺は、そこで絶句した。
昨日まで青々とした葉を茂らせていた大根畑のど真ん中に、それはあった。
直径三メートルほどの、漆黒の穴。底が見えないほどの深淵からは、ヒヤリとした冷気と、どこか金属的な異臭が漂ってくる。
周囲の空間がわずかに歪み、青白い燐光が蛍のように舞っていた。
「またかよ……」
俺は帽子を取り、頭をガシガシとかいた。ダンジョンだ。
二年前、世界同時多発的に発生した亜空間ゲート。
内部には既存の物理法則を無視した空間が広がり、凶暴なモンスターが跋扈する魔窟。
世界中をパニックに陥れたこの怪現象が、なぜか俺の実家の畑には、雨後の筍並みの頻度で発生するのだ。
「今年で三回目だぞ。いい加減にしてくれ」
俺は溜息をつき、穴の縁に立った。
よりによって、収穫目前の我が家特製「九条大根」の畝を直撃している。被害額は数万円といったところか。
国連の特別機関や日本政府は、ダンジョンを「人類の脅威」かつ「新たな資源」として厳重に管理している。
発見次第、直ちに通報義務があり、自衛隊や認可を受けた『探索者』以外の立ち入りは禁止。
周辺区域は封鎖され、避難命令が出るのが一般的だ。
「通報したら、また親父が不機嫌になるな」
前回の通報時は最悪だった。
黒塗りの車が何台も押し寄せ、防護服を着た調査員たちが畑を蹂躙し、バリケードを築いて帰っていった。
おかげでその年の夏野菜は全滅。補償金は出たが、先祖代々の土地を荒らされた親父は寝込んでしまった。
もう、あんな騒ぎは御免だ。
「……埋めるか?」
一瞬、そんな危険な思考がよぎった時だった。
「おはよう、瑛太ちゃん。また生えたのかい?」
背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには小柄な老婆が立っていた。白髪のお団子頭に、花柄の割烹着。足元は健康サンダル。手にはなぜか、プラスチック製の布団叩きを握りしめている。
近所に住む、タメさんだ。御年八十二歳。この村の最長老の一人である。
「おはようございます、タメさん。ええ、また生えちゃいました。困ったもんですよ」
「あらあら、立派な穴だこと。これじゃあトラクターが入れないねぇ」
タメさんは危機感のかけらもない口調で言い、穴の中を覗き込んだ。
「どうするんだい? また役場の若いのを呼ぶかい?」
「いや、やめときます。収穫時期ですし、大ごとにしたくないんで」
俺は覚悟を決めた。
「しょうがない、今回もあの手で行くか」
納屋からベニヤ板とペンキを持ってくる。
さらさらと筆を走らせ、即席の看板を作り上げた。
『ダンジョン体験 一回五〇〇円(採れたて大根一本付き) ※怪我は自己責任でお願いします』
「これでいきましょう」
「あら、商魂たくましいねぇ」
「背に腹は代えられませんよ。タメさん、一番乗りしますか? どうせ今日も『地下資源』採りに行くんでしょう?」
「そうだねぇ。最近、腰が痛くてね。ダンジョンの空気は魔素が濃くて、湯治にちょうどいいんだよ」
タメさんはシワだらけの顔をほころばせ、財布から五百円玉を取り出した。
俺はそれを、無人野菜販売所の料金箱に入れる。
チャリン、と軽い音が、朝の冷気の中に響いた。
「いってらっしゃい。あ、深い階層は危ないから、地下五階くらいまでにしといてくださいね」
「はいよー。夕飯までには戻るよ」
タメさんは買い物カゴを片手に、サンダル履きのままペタペタと漆黒の穴へ入っていった。
まるで近所のスーパーに特売品を買いに行くような気軽さで。
俺はそれを見送ると、鍬を握り直した。
さて、ダンジョンの入り口を避けて、残りのスペースを耕さなければ。
* * *
異変が起きたのは、太陽が中天に差し掛かった頃だった。
静寂に包まれていた農道に、不釣り合いな重低音が響いてきたのだ。
砂利を跳ね飛ばし、土埃を巻き上げて現れたのは、三台の黒塗りSUV。ボンネットには、剣と盾を交差させた金色のエンブレムが輝いている。
俺は作業の手を止め、麦わら帽子の位置を直した。
「……また面倒な連中が来たな」
車が俺の畑のまわりを取り囲むように停車した。
ドアが一斉に開き、中から屈強な男たちが降りてくる。全員が統一された黒のタクティカルスーツに身を包み、最新鋭のカーボンプロテクターを装着している。
手には軍用のアサルトライフルや、魔素伝導率を高めた特殊合金の長剣。
明らかにカタギではない。かといって、役場の職員でもない。
彼らは「プロ」の探索者だ。それも、トップクラスの。
「ここか……政府の極秘衛生写真に写っていた、未確認のS級反応地点は」
リーダー格らしき男が、サングラスを外して呟いた。
整った顔立ちに、金髪のオールバック。テレビの特集番組で見たことがある。
東京の大手クラン『アークライト』のリーダー、桐島だ。若くしてSランク認定を受けたエリート中のエリート。
「おい、そこの農家の人!」
桐島が俺に声を張り上げた。威圧的な態度だ。
「はいはい、何でしょう。大根なら、今は収穫中ですよ」
「大根の話などしていない! 我々は極秘任務で来た。この場所に高濃度の魔素反応がある。……あそこか」
桐島の視線が、畑の真ん中の穴に釘付けになる。
そして、その横に立てられたベニヤ板の看板を見て、表情が凍りついた。
「……ごひゃく、えん?」
桐島が素っ頓狂な声を上げた。
後ろに控えていた部下の女性――魔法使い風の格好をした美女も、目を丸くしている。
「リーダー、あれを見てください。……大根付き、と書いてあります」
「読めば分かる! おい貴様、正気か!? ここはダンジョンだぞ! 人類の脅威だぞ! それをなんだ、テーマパークか何かと勘違いしているのか!」
桐島が俺に詰め寄ってくる。 唾が飛びそうな距離で怒鳴られ、俺は少しのけぞった。
「いやあ、うちは私有地なんで。これくらいの活用は許容範囲かなと」
「許容範囲なわけあるか! ダンジョン法違反だ! それに危険すぎる! 内部からいつ『スタンピード(魔物の氾濫)』が起きてもおかしくないんだぞ!」
「大丈夫ですよ。うちは定期的にガス抜きしてるんで」
「ガス抜きだと? 素人が知ったような口を利くな!」
女性魔法使いが苛立ったように杖を構えた。
彼女が手にしたタブレット端末が、けたたましい警告音を鳴らし始める。
「リーダー、悠長に話している場合ではありません。魔力測定器の数値が跳ね上がっています。推定震度レベル7……いえ、8に迫る勢いです!」
「レベル8だと!?」
桐島の顔色が変わった。
レベル8。それは、過去にニューヨークや上海を壊滅させた超巨大ダンジョンと同等の規模だ。
通常なら、国軍が出動し、半径十キロが完全封鎖されるレベルの災害である。
「馬鹿な……こんな日本の田舎に、レベル8、だと……?」
「早急に封鎖結界を展開します! 全員、戦闘配置! そこの農民、今すぐ避難しろ! 死にたいのか!」
「えー、まだ仕事が……」
「命が惜しくないのか!!」
桐島に胸倉を掴まれた。
本気で心配してくれているのだろう。根は悪い奴じゃなさそうだ。
だが、彼らは知らないのだ。この神去村という土地の異常性を。
ズズズズズ……ッ!
その時、地面が揺れた。
地震ではない。穴の底から響いてくる、重苦しい振動だ。
カラスが一斉に飛び立ち、周囲の空気がビリビリと震える。桐島たちが一瞬で散開し、武器を構えた。
「来るぞ! 大型反応!」
「熱源接近! この魔力パターンは……ドラゴン種です! しかも複数!」
「なんだと!? この狭い入り口から出てくる気か!?」
穴の暗闇から、灼熱の息吹が噴き出した。
畑の土が瞬時にガラス状に溶け、強烈な硫黄の臭いが立ち込める。
ヌッ、と。 巨大な爬虫類の頭部が、地上に姿を現した。
それは、まるで暴力の化身のようだった。
真紅の鱗に覆われた巨体。大型トラックほどもある頭部。口の端からは溶岩のような唾液が滴り落ち、金色の瞳が俺たちを見下ろしている。
『レッドドラゴン』。 火属性の頂点に君臨し、一匹で戦車大隊を壊滅させると言われる災害指定モンスター。
それが一匹ではない。後ろからさらに二匹、計三匹が狭い穴を押し広げるようにして這い出してきたのだ。
「グルルルルゥゥゥ……ッ!!」
咆哮一発。 衝撃波でSUVの窓ガラスが割れ、俺の看板が吹き飛んだ。
「ひぃっ!?」
桐島の部下の一人が腰を抜かした。
無理もない。Sランク探索者といえど、ドラゴン三体を同時に相手にするなど想定外だ。
だが、桐島は違った。
「怯むな! ここで食い止めるぞ!」
彼は瞬時に長剣を抜き放ち、青白いオーラを纏わせた。
さすがはトップランカー。判断が早い。
「総員、攻撃開始ッ!!」
号令と共に、轟音が炸裂した。
アサルトライフルからの徹甲弾、魔法使いによる氷結の矢、そして桐島自身による真空斬り。
現代の探索技術の粋を集めた飽和攻撃が、先頭のドラゴンに殺到する。
――ガギィンッ!!
だが、響いたのは硬質な金属音だけだった。
弾丸は鱗に弾かれ、魔法は表面で霧散し、桐島の斬撃も浅い傷をつけただけに終わる。
「馬鹿な……効かないだと!?」
「魔法障壁が厚すぎます! こちらの魔力が通りません!」
「くそっ、これがレベル8の個体か……!」
ドラゴンが嘲笑うように口角を上げた。
喉の奥が赤熱し、膨大な火炎ブレスの予備動作に入る。
「まずい、ブレスだ! 全員退避! 防御結界を……間に合わないッ!」
桐島が絶望の表情で叫んだ。
終わった。誰もがそう思った。
視界が真っ赤に染まる寸前。
パァーン!!
乾いた、とても軽い音が響き渡った。
まるで、布団を叩くような。
直後。
ブレスを吐こうとしていたドラゴンの頭が、見えない巨人の拳で殴られたかのように、地面にめり込んだ。
「……は?」
桐島が口を開けて固まる。
ドラゴンの口の中でブレスが暴発し、くぐもった爆発音が体内で響く。
白目を剥いて痙攣するドラゴンの背後に、小さな人影があった。
「こらっ! 畑に入ろうとするんじゃないよ! 瑛太ちゃんが丹精込めて作った大根を踏む気かい!」
怒声と共に、再びその腕が振り下ろされる。
握られているのは、ピンク色のプラスチック製布団叩き。ホームセンターで数百円で売られている、ごくありふれた日用品だ。
パァーン!!
二度目の衝撃音が響いた瞬間、空気が歪んだ。
布団叩きの先端から放たれた衝撃波が、ドラゴンの硬度な鱗を紙のように引き裂き、その下の頭蓋骨を粉砕したのだ。
「ギャフンッ!」
情けない断末魔を上げて、最初の一体が沈黙する。
現れたのは、タメさんだった。買い物カゴにはネギやキャベツが溢れそうに入っている。
「邪魔だよ! ほら、あっち行っておし!」
タメさんは残りの二体のドラゴンの前に立ちはだかると、その太い尻尾を素手で掴んだ。
小柄な老婆の、どこにそんな力があるのか。
彼女は「よいしょっ」という掛け声とともに、体重数トンはあるドラゴンを背負い投げの要領でブン回した。
ドォォォン!! ズズゥゥン!!
二体のドラゴンが放物線を描き、穴の奥へと叩き返される。まるで洗濯物を放り投げるような手軽さだった。
地響きが止み、再び静寂が訪れる。
後には、頭を潰されたドラゴンの一体と、埃を払うタメさんだけが残された。
「ふぅ。まったく、しつこいトカゲだねぇ。今日は運よく『竜のキモ』が取れそうだったから急いでたのに」
タメさんは額の汗を拭い、買い物カゴを持ち直した。
カゴの隙間から、紫色の禍々しい臓器――Sランク素材『エンシェント・ドラゴンの肝』が見えている。
どうやらダンジョン内の主を狩ってきた帰りらしい。
「あら、瑛太ちゃん。お客さんかい?」
「ええ。東京の方らしいですよ、タメさん」
「そうかい。こんにちは。騒がしくしてごめんねぇ」
タメさんは桐島たちに向かって、にこやかに会釈した。
桐島は腰を抜かし、ガタガタと震えながら後ずさっていた。その目は、ドラゴンを見た時よりも遥かに深い恐怖に染まっている。
「あ……あ、ありえない……」
桐島がうわごとのように呟く。
「レッドドラゴンを、布団叩きで……?物理無効スキルはどうした……?魔法障壁は……?いや、それ以前に、あの老婆のステータスは……測定不能!?」
彼の持っていたス〇ウターらしき端末が、バチバチと火花を散らしてショートした。
俺は桐島の肩に手を置いた。
「ああ、気にしないでください。タメさんね、昔から布団叩くのが上手くて。この辺の婆ちゃんたちはみんな強いですよ。毎朝、ゲートボール代わりにスライム叩いてますから」
「……」
桐島は無言で俺を見た。その瞳は「こいつは何を言っているんだ」と語っていたが、目の前の現実は覆らない。
その後、俺たちは呆然とする『アークライト』の面々に、冷たい麦茶を振る舞った。
彼らは縁側に座り込み、虚ろな目で湯のみをすすっている。畑にはドラゴンの死体が転がったままだ。
「……落ち着きました?」
「あ、ああ……」
桐島は力なく頷いた。プライドも常識も、粉々に粉砕されたようだ。
「で、どうします? ダンジョン、入りますか? 今なら入り口のドラゴン、解体し放題ですよ。素材だけでも億は下らないでしょう」
「……」
桐島は震える手で財布を取り出し、無言で五百円玉を差し出した。他のメンバーもそれに続く。
彼らはもう、ここが「管理すべき危険地帯」ではなく、「自分たちの常識が通用しない魔境」であることを悟ったのだろう。
「まいどあり。あ、これサービスの大根です」
俺は泥付きの大根を一本ずつ手渡した。彼らはそれを、まるで聖遺物か何かのように恭しく受け取った。
「……いただきます」
彼らは大根を小脇に抱え、恐る恐るダンジョンへと入っていった。
入り口で死んでいるドラゴンの前で、「記念撮影してもいいですか?」と聞かれたので、シャッターを押してあげた。
写真の中の彼らは、引きつった笑顔でピースサインをしていた。
「瑛太ちゃん、今日のお昼はドラゴン鍋にするけど、食べるかい?」
台所の方から、タメさんの声が聞こえる。
いい匂いが漂ってきた。ドラゴンの肉は、下処理さえしっかりすれば最高に美味いのだ。
「いいですね。あ、俺、親父の秘蔵の日本酒持って行きますよ」
これが、神去村の日常だ。
この村の土壌は、昔から魔素をたっぷりと含んでいる。その土で育った野菜を食べ、その湧き水を飲み、急勾配の山道で足腰を鍛え上げた老人たちは、知らず知らずのうちに身体能力が限界突破しているらしい。
特に、還暦を過ぎてからの伸びしろが半端ない。
Sランク探索者が必死でレベル上げをしている間に、ここの老人たちは「今年の冬は冷えるねぇ」と言いながら、薪割りのついでにゴーレムを両断しているのだ。
後日。桐島が自身のSNSに投稿した、
「田舎の婆ちゃんが布団叩きでドラゴンを瞬殺してた件(証拠動画あり)」
というポストが拡散され、世界中がパニックになった。
以前にも一度こういうことがあり、神去村には日本中から取材陣や探索者が押し寄せようとしたが、村の入り口で青年団(平均年齢70歳)に追い返され、すごすごと帰っていったという。
* * *
「おい、瑛太。ネットが大変なことになっとるぞ」
翌日。朝の農作業を終えて縁側で茶を啜っていると、親父がタブレット片手に飛んできた。
親父、九条巌。六十五歳。
頑固一徹の農業一筋だが、最近は腰痛のせいで畑に出られず、家でネットサーフィンばかりしている。
「どうしたの親父。また変なニュースサイトでも見た?」
「違うわ! お前のことだ! 見ろ、これが世界トレンド一位になっとる!」
親父が突きつけてきた画面を見て、俺は茶を吹き出しそうになった。
そこには、昨日のタメさんがドラゴンを布団叩きで粉砕する動画が再生されており、その下には英語、中国語、アラビア語など、あらゆる言語でコメントが溢れかえっていた。
『CGだろ? これ映画の予告編?』
『いや、投稿者はあのアークライトの桐島だぞ。本物だ』
『日本のBBAは化け物か!』
『武器が布団叩きって舐めプにも程があるだろ』
『場所特定した。日本のKAMISARI村だ』
「うわぁ……」
俺は頭を抱えた。
予想はしていたが、拡散のスピードが早すぎる。
桐島の奴、余計なことをしてくれたものだ。
その時、村の防災無線がサイレンを鳴らした。
『村民の皆様にお知らせします。現在、村の入り口付近に、多数の不審な車両が集結しております。青年団の皆様は、直ちに公民館前に集合し、警備にあたってください。繰り返します――』
「始まったか」
俺と親父は顔を見合わせた。
神去村は山奥の袋小路にある。村への入り口は、一本の細いトンネルしかない。
俺は軽トラの鍵を掴んだ。
「親父は家で戸締まりしててくれ。俺は様子を見てくる」
「待て、ワシも行く。腰は痛いが、村の危機とあっちゃ黙ってられん」
「無理すんなよ……」
軽トラを飛ばして村の入り口へ向かうと、そこは既にカオスだった。
狭い山道に、テレビ局の中継車、探索者ギルドの装甲車、そして海外ナンバーの軍用車両までがひしめき合っている。
空にはヘリコプターが旋回し、爆音が山々にこだましていた。
「ここを通せ! 我々はアメリカのSSランククラン『スターズ』だぞ!」
トンネルの出口で、マッチョな外国人が怒鳴り散らしていた。
全身をパワードスーツで固めた、いかにも強そうな集団だ。
対する防衛ラインは、我が村が誇る青年団の方々。
平均年齢六十二歳。手には角材や鍬、あるいはゲートボールのスティックを持っている。
「あーん? 英語は分からんが、村長が『余所者は通すな』って言ってるんだ。帰りな」
仁王立ちしているのは、青年団長の源さん、御年七十八歳。
元漁師で、今は盆栽が趣味の好々爺だ。ただし、背中の筋肉は鬼の顔のように盛り上がっている。
「どけと言っているんだ、ジジイ!」
アメリカ人の一人が痺れを切らし、威嚇射撃として地面に向けてガトリング砲をぶっ放した。
ダダダダダッ! とアスファルトが砕け散る。
普通の人間なら恐怖で竦み上がる場面だ。だが、源さんは耳を小指でほじりながら、あくびをした。
「うるさいねぇ。耳が遠くなるかと思ったわ」
「なっ!?」
「そんな豆鉄砲で脅してるつもりかい?ワシらの若い頃はなぁ、山奥で数十匹の熊と素手で殴り合ったもんじゃよ」
源さんが、持っていたゲートボールのスティックを軽く振った。
ブンッ!
風切り音と共に、アメリカ人が持っていたガトリング砲の銃身が、飴細工のようにぐにゃりと曲がった。
「は……?」
アメリカ人の目が点になる。
彼には見えなかっただろう。源さんのスティックが音速を超え、ピンポイントで銃身だけを叩いた神速の一撃が。
「お前さんたちの国じゃ、年寄りを敬うってことを教わらんのかね?」
源さんの背後で、他の老人たちも臨戦態勢に入った。
漬物石をお手玉のように弄ぶお婆ちゃん。
チェーンソーを片手で軽々と振り回す林業のお爺ちゃん。
全員から放たれる「歴戦の猛者」のオーラに、SSランククランの面々が青ざめていく。
「撤退だ! ここは人間の住む場所じゃねえ!」
「マミー! 帰りたいよぉ!」
世界最強と謳われた探索者たちが、泣きながら逃げ出していく。それを見送った源さんは、やれやれと肩を回した。
「最近の若いもんは根性がないのう。のう、瑛太」
「お疲れ様です、源さん。相変わらずキレてますね」
俺は軽トラから降りて声をかけた。
「おお、瑛太か。お前の畑の穴のせいで、えらい迷惑じゃわい」
「すみません。埋めようかとも思ったんですけど」
「馬鹿いえ。あれのおかげで、今年は松茸が豊作なんじゃ。魔素を吸って、傘が雨傘くらいデカくなっとる」
源さんはガハハと笑った。
この村の老人たちにとっては、ダンジョンパニックすらも「ちょっとしたイベント」程度の認識なのだ。
* * *
騒動が一段落し、マスコミや探索者たちが遠巻きに村を監視するようになった数日後。
俺はいつも通り、畑仕事に精を出していた。
今日はジャガイモの収穫だ。
鍬を振り上げ、地面に突き立てる。テコの原理で土を掘り起こし、黄金色の芋を掘り出す。
無心で繰り返す単純作業。だが、その日は視線を感じた。
「……誰だ?」
手を止めずに視線だけを向けると、農道の脇に停めた黒いセダンの陰から、サングラスの男がこちらを窺っていた。
身なりは良いが、隙がない。どこかの諜報機関のエージェントだろうか。
無視して作業を続ける。
ザシュッ。ザシュッ。
自分の心地よい、リズミカルなテンポで鍬を振るう。
すると、男がおずおずと近づいてきた。
「失礼。少しよろしいですか?」
「はい? ダンジョンなら五百円ですよ」
「いえ、ダンジョンではなく、あなたに興味がありまして」
男は名刺を差し出した。
『内閣府 超常現象対策室 室長補佐』という肩書き。
どうやら日本政府の役人らしい。
「私は以前、剣道の全日本選手権で優勝した経験があるのですが……あなたのその鍬の振り方、只者ではありませんね」
「はあ? ただの農作業ですが」
男は真剣な眼差しで、俺の手元を見つめた。
「重心の移動、筋肉の収縮、そしてインパクトの瞬間の脱力。すべてが完璧な理に適っている。まるで古流剣術の達人のようだ」
「買いかぶりすぎですよ。毎日やってれば、誰でもこうなります」
俺は苦笑した。 だが、男は引かない。
「試させていただいても?」
「何をです?」
「これです」
男は懐から、小石を取り出した。
そして次の瞬間、それを俺の顔めがけて全力で投げつけてきた。
ヒュンッ!
鋭い風切り音。プロ野球選手の投球並みの速度だ。
だが、俺の身体は思考するより先に動いていた。
カィンッ!
俺の手にした鍬が、目の前で閃いた。飛んできた小石は、真っ二つに切断され、左右に分かれて背後の地面に落ちた。
鍬の刃には、傷ひとつついていない。
「……え?」
俺は自分の手元を見て固まった。 今、俺、何した? 小石を? 鍬で? 斬った?
「素晴らしい……!」
男が震える声で称賛した。
「飛来する物体を視認し、その軌道を読み、鍬の刃という極小の点のみで迎撃する。しかも石を『弾く』のではなく『斬る』とは……まさに神業! 剣聖級の腕前です!」
「いやいやいや! 偶然ですって! ていうか危ないでしょうが!」
「失礼しました。しかし、これで確信しました。あなたもまた、この神去村という特異点が生み出した『超人』の一人なのですね」
男の言葉に、俺は背筋が寒くなった。
超人? 俺が?
俺はただの元SEで、今は農家のお兄さんだ。タメさんや源さんのような、ゲートボールで音速を超える老人たちとは違う。
――いや、待てよ。 思い出してみれば、心当たりはなくもない。
帰郷してからというもの、三十キロの米袋を指一本で持てるようになったり、トラクターが故障した時に手で押して家まで運んだり、蚊を箸で掴めるようになったりしていた。
田舎暮らしで健康になったからだと思っていたが、もしや……。
「やはり、食事ですかね」
男が俺の思考を読んだように言った。
「高濃度の魔素を含んだ土壌で育った野菜。それを常食している住民の細胞は、魔素に適応し、異常な進化を遂げている。……若いあなたは、その適応速度が老人たちよりも早いのかもしれません」
俺は足元のジャガイモを見下ろした。
丸々と太った、美味しそうなジャガイモ。こいつらが、俺をモンスターに変えていたというのか。
「どうです? その力を国のために役立ててみませんか? 特殊部隊の教官として――」
「お断りします」
俺は即答した。
「俺は野菜を育てるのが好きなんです。人を斬るより、ジャガイモの皮を剥く方が性に合ってる」
「……そうですか。残念です」
男は潔く引き下がった。
だが、去り際に不穏な言葉を残していった。
「しかし、世界はあなた方を放っておかないでしょう。力ある者は、好むと好まざるとに関わらず、争いの渦中に巻き込まれるものです」
男が去った後、俺は再び鍬を握った。
手になじむ柄の感触。試しに、空に向かって軽く振ってみる。
ヒュンッ! 空気が裂け、真空の刃が数メートル先の雑草を刈り取った。
「……マジかよ」
俺は空を見上げた。
俺の平和な田舎暮らしは、とっくの昔に終わっていたのかもしれない。
* * *
それから数日後。事態は思わぬ方向へ転がり始めた。
動画の拡散や政府の干渉、それらに伴う気苦労が重なったせいだろうか。実家の居間で、親父がうめき声を上げている。
「ぐぬぬ……腰が……腰が割れるぅ……」
「大丈夫かよ、親父。病院行くか?」
親父の腰痛が悪化したのだ。
長年の農作業のツケが、ここに来て爆発した。ぎっくり腰の一歩手前、という状態だ。
「病院なんぞ行かん! 湿布貼って寝てりゃ治る!」
「そんなレベルじゃないだろ。脂汗かいてるじゃないか」
そこへ、回覧板を持ったタメさんがやってきた。
「あらあら、巌ちゃん、派手にやったねぇ」
「おお、タメさんか……情けない姿を見せてすまん」
「いいんじゃよ。人間、歳には勝てん。……でもねぇ、その腰、放っておくと歩けなくなるよ?」
タメさんの不吉な予言に、親父が青ざめる。
農業一筋の親父にとって、歩けなくなることは死刑宣告に等しい。
「そこでじゃ。どうだい、湯治に行かんかね?」
「湯治? どこの温泉だ? 箱根か? 草津か?」
「いいや。もっと近場だよ」
タメさんはニカッと笑い、窓の外を指差した。
俺の畑の真ん中に開いた、あの不吉な穴を。
「……ダンジョン?」
「そうさ。あそこの最深部、地下百階にな、『黄泉の湯』っていう秘湯があるんじゃよ」
「よ、黄泉の湯……?」
名前からしてヤバそうだ。入ったら二度と帰ってこられない気がする。
「あそこの湯は効くよぉ。ドラゴンの血とマグマが混ざった源泉掛け流しでね。魔素がたっぷり溶け込んでて、どんな難病も一発で治る。あたしのリウマチも、あそこで泳いだら完治したしね」
タメさんは事も無げに言った。
地下百階。
そこは人類未踏の領域だ。世界最強の探索者ですら、地下五十階が限界だと言われているのに。
「本当か、タメさん! ワシの腰も治るか!?」
「ああ、治るとも。ついでに若返るよ」
親父の目が輝いた。 藁にもすがる思いなのだろう。
「瑛太! 車を出せ! ダンジョンへ行くぞ!」
「マジで言ってるの? 地下百階だぞ? エレベーターなんてないんだぞ」
「軽トラで行けばいいじゃろうが!」
いや、答えになってない。
無茶苦茶だ。
だが、親父の剣幕と、タメさんの「案内してやるよ」という言葉に押され、俺は渋々承諾した。
「……分かったよ。準備するから待っててくれ」
俺は納屋へ向かった
愛車の軽トラック『ハイゼット』。こいつもただの軽トラではない。
俺が暇な時に趣味でいじくり回し、トラクター用のエンジンを魔改造して搭載したモンスターマシンだ。
さらに、荷台には対衝撃用の幌をかけ、タイヤは悪路走破用の極太タイヤに履き替えてある。
「よし、行くか」
俺は運転席に乗り込み、助手席に親父を、荷台にタメさん(彼女は「風が気持ちいいから」と荷台を希望した)を乗せた。
「そいじゃあ、ダンジョン・ドライブといこうかい!」
タメさんが布団叩きを掲げて号令をかける。
俺はアクセルを踏み込んだ。軽トラが唸りを上げ、畑の大根を避けながら、漆黒の穴へと突っ込んでいく。
視界が暗転し、浮遊感が襲う。
次の瞬間、俺たちは異界の荒野を爆走していた。
空は紫色に淀み、巨大なキノコの森が広がっている。地下1階層だ。
「ギャオオオオ!」
いきなり、オークの集団が道を塞いだ。棍棒を振り回し、威嚇してくる。
「邪魔だあぁぁぁ! ワシは腰が痛いんじゃあぁぁ!」
助手席の親父が窓から身を乗り出し、怒号と共に散弾銃(害獣駆除用)をぶっ放した。
ドォォォン! 魔力を帯びた散弾がオークたちを吹き飛ばす。
「ひゃっはー! いいぞ巌ちゃん! もっとやんな!」
荷台のタメさんが、すれ違いざまにオークの頭を布団叩きでスパーンと叩く。
俺はハンドルを切り、オークの死体を巧みに避けながら、さらに奥へと続くスロープを駆け下りる。
「瑛太! 次のカーブはドリフトじゃ!」
「無茶言うなよ! ……しっかり掴まってろ!」
俺はサイドブレーキを引き、ステアリングを一気に切った。
軽トラが横滑りしながらコーナーを抜け、地下2階層への階段をジャンプして飛び降りる。
目指すは地下百階。世界最強の老人たちと行く、地獄の湯治旅行の始まりだった。
* * *
地下五十階層。灼熱の溶岩地帯。エアコンの効かない軽トラの車内は、サウナのような暑さになっていた。
「暑い……腰が……」
「我慢してくれ親父! あと半分だ!」
俺は汗だくになりながらハンドルを握っていた。
この軽トラは特別製だが、それでもマグマの輻射熱には耐えられない。
タイヤが溶ける前に駆け抜けるしかない。
だが、行く手には新たな障害が現れた。
「グルルルルッ!」
バックミラーに映ったのは、四足歩行の狼型モンスター。
全身に風を纏い、超高速で移動する『ソニックウルフ』の群れだ。
推定レベルは8。
Sランク冒険者でも逃げ出すスピードスターである。
「瑛太ちゃん! 後ろからワンちゃんたちが追っかけてくるよ!」
「ワンちゃんじゃありませんよタメさん! あれに噛まれたら軽トラごとミンチです!」
ソニックウルフたちが加速する。
その速度は時速二百キロを超えているだろう。
改造軽トラのスペックでも振り切れない。
右側の狼が、鋭い牙を剥いて飛びかかってきた。
「させんわぁぁ!」
親父が叫び、散弾銃を窓から突き出した。
ドォォォン! 至近距離での射撃。だが、狼は空中で軌道を変え、弾丸を回避した。
速い!
「クソッ、ちょこまかと! 腰が痛くて狙いが定まらん!」
絶体絶命かと思われたその時。
俺の脳内で、何かが切り替わった。畑へ続く、あの狭くて曲がりくねった農道。ガードレールもなく、片側は崖。
そんな悪路を、収穫した野菜を満載して毎日走ってきた感覚が蘇る。
「親父、しっかり捕まってろ。……少し、本気出すぞ」
俺はギアを一段落とし、アクセルをベタ踏みした。
エンジンが悲鳴に近い咆哮を上げる。
前方のコーナー。溶岩の海に突き出した、直角に近いヘアピンカーブ。
普通のドライバーなら減速する場面だ。
だが、俺は逆に加速した。
「なっ!? 瑛太、死ぬ気か!」
「これが、神去村の『農道走り』だ!」
コーナー突入の直前。俺は一瞬だけブレーキを踏み、荷重を前輪に移すと同時にステアリングを逆に切った。
フェイントモーションからの、慣性ドリフト。
軽トラの車体が真横を向き、四輪全てがスライドする。
後輪が崖の縁ギリギリを掠め、小石がマグマへと落ちていく。
「ひょえええええい!」
タメさんの歓声が風に消える。
ソニックウルフたちは、俺たちの急激な挙動変化に対応できなかった。
勢い余ってコーナーを曲がりきれず、次々とマグマの海へとダイブしていく。
ジュッ、という音がして、狼たちが消し炭になった。
「……見たか」
俺はカウンターを当て、車体を安定させた。
「柿畑へ行く裏道の方が、よっぽど道幅が狭いんだよ」
「お、お前……いつの間にこんな運転技術を……」
親父が顔面蒼白で呟く。
俺はニヤリと笑った。これもまた、この村で培われた「異常な適応能力」の一つなのだろう。
数多の苦難を乗り越え、ついに俺たちは地下百階へと到達した。
そこは、意外なほど静謐な空間だった。
見上げるほどの高い天井には、発光する苔が星空のように輝いている。
そして目の前には、巨大な地底湖が広がっていた。
水面からは白い湯気が立ち上り、硫黄の香りが漂っている。
間違いない。ここが『黄泉の湯』だ。
「つ、着いた……」
「よくやったぞ瑛太! これでワシの腰も助かる!」
親父が涙目で歓喜する。
俺もハンドルに突っ伏した。長かった。本当に長かった。
が、安息はまだ早かった。
ザバァァァッ!!
湖の水面が割れ、巨大な影が立ち上がった。
漆黒の鱗。ねじれた二本の角。そして背中には蝙蝠のような翼。
その大きさは、以前畑に出たレッドドラゴンの比ではない。
体長五十メートル級。神話に出てくる『黒龍』そのものだ。
『我ガ眠リヲ妨ゲル者ハ誰ゾ……』
龍が口を開くと、重低音のテレパシーが脳内に直接響いてきた。
圧倒的な威圧感。このダンジョンのラスボス、深層の守護者だ。
「ひぃっ! で、デカい!」
「こりゃあ、さすがに散弾銃じゃ無理じゃな……」
俺と親父が竦み上がる。
だが、荷台から降りたタメさんだけは違った。
彼女はペタペタとサンダルを鳴らして湖畔に近づくと、龍を見上げて言った。
「あら、ポチじゃないか。久しぶりだねぇ」
……ポチ? 今、なんて言った?
『……ヌ? ソノ声ハ……』
龍が巨大な瞳を細め、タメさんを凝視する。
そして次の瞬間、龍の威圧感が霧散した。
『オオ! タメ殿デハナイカ! 息災デアッタカ!』
「ああ、元気だよ。最近ちょっとリウマチ気味だけどね」
龍が嬉しそうに尻尾を振った。その風圧だけで軽トラが揺れる。
俺と親父はポカーンと口を開けていた。
「タメさん……知り合い?」
「ああ。十年くらい前かな、山菜採りで迷い込んだ時にね、こいつが腹を空かせて倒れてたから、おにぎりを分けてやったんだよ。それ以来の仲さ」
山菜採りで地下百階まで迷い込むタメさんも凄いが、おにぎりで餌付けされたラスボスもどうなんだ。
『タメ殿ノ連レナラバ、歓迎イタス。サア、湯ニ浸カッテイカレヨ』
龍――ポチは、親切にも手を差し伸べ、俺たちを湯船の中央にある岩場まで運んでくれた。
* * *
ちゃぽん。
俺たちは服を脱ぎ、源泉掛け流しの『黄泉の湯』に肩まで浸かった。
熱めの湯が、疲労困憊の身体に染み渡る。
「うおおおお……極楽じゃあああ……」
親父が絶叫に近い声を上げた。
見れば、苦痛に歪んでいた親父の顔色が、みるみるうちに血色を取り戻していく。
腰の周りに黒い靄のようなものが浮かび上がり、空中に霧散していくのが見えた。
腰痛の呪いか何かが解けたのだろうか。
「どうだ親父、腰の具合は?」
「信じられん! 痛みが消えた! いや、それどころか二十代の頃のように力が漲ってくるわい!」
親父が立ち上がり、ガッツポーズをした。
その背筋はピンと伸び、肌には若々しいハリが戻っていた。
恐るべき効能だ。
「いい湯だねぇ。ポチ、背中流しておくれ」
『心得タ』
タメさんはポチの刃物のような爪で背中を掻いてもらい、気持ちよさそうに目を細めている。
俺も湯をすくって顔を洗った。視界がクリアになり、体中の細胞が活性化していくのが分かる。
これなら、明日の大根の収穫も一瞬で終わりそうだ。
一時間ほど湯治を楽しんだ後、俺たちはポチに別れを告げた。
「また来るよ、ポチ。次はキュウリの漬物を持ってきてやるからね」
『楽シミニ待ッテオル。……アア、ソレト』
ポチは巨大な爪で、湖の底から何かを掴み出した。
それは、目も眩むような巨大なダイヤモンドの原石だった。
『土産代ワリニ、コレヲ持ッテイケ』
「あらあら、気を使わせて悪いねぇ」
タメさんはそれを買い物カゴに放り込んだ。
数十億は下らない代物だろうが、店の一つもないこの村では漬物石の代わりくらいにしかならないだろう。
帰り道。
軽トラの荷台には元気になった親父とタメさん、そしてお土産のダイヤが載っていた。
行きは地獄だったが、帰りは身体能力が強化された俺の運転で、わずか三十分で地上に戻ることができた。
畑の穴から飛び出した軽トラは、夕焼けに染まる神去村に着地した。
空気は澄み、カラスが鳴いている。いつもの平和な日常がそこにあった。
「……帰ってきたぁ」
「うむ。腹が減ったな。今日はダイヤを町で売って寿司でも取るか」
「贅沢だねぇ」
「いやダイヤ売るんかーい」
今日も今日とていつもと同じ、夕焼けの景色の中。
俺たちはビッグダイヤを抱えながら笑い合った。
* * *
後日談。
神去村の『ダンジョン湯治』の噂は、ごく一部の(主に老人たちの)間で広まることになった。
桐島率いる『アークライト』も、その後何度か村を訪れたが、攻略ではなく「農作業の手伝い」をさせられている姿が目撃されている。
彼らもまた、タメさんの布団叩きと、親父の散弾銃による指導を受け、着実に強くなっているらしい。
俺、九条瑛太は今日も畑を耕す。
時々ダンジョンから這い出してくるドラゴンを鍬で追い払いながら。
入場料は変わらず五百円。
大根と、ちょっとしたスリル、そして世界最強への切符が欲しいなら、いつでも歓迎する。
ようこそ、神去村へ。




