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魔法使いのBar  作者: 宵待
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Loop Glass

 (そら)(ゆき)は五歳。双子の兄弟だ。蒼が兄で悠が弟。二人は一卵性で、父親が見ても見分けがつかないほどにそっくりだった。

 柔らかで少し色素の薄い髪も、吸い込まれそうな大きな黒い瞳も、白くてきめの細かい肌も、薄紅色のくちびるも、もちろん背丈や体重も、どこをどう見てもどう測っても寸分の違いも無かった。

 ただ一つ、声色だけが違った。蒼は高音の鍵盤楽器(オルガン)のような伸びやかな声。悠は鈴の音のような可憐で清廉な声。父が二人を見分ける時は、決まって二人を呼んで返事をさせた。

 二人が生まれる時、母、(しお)は命を落とした、元来体が弱かったこともある。そこに双子の出産だった。汐は蒼を生み、そして悠を生み落とす際に力尽きた。

 父の悲嘆と落胆は筆舌に尽くしがたいものであり、妻を救えなかった自責の念と絶望とで憔悴し、心痛を極め、やがて緩やかに偏狂していった。

 父は無事に生まれた蒼を愛し、母の命を奪うに至った悠を愛さなかった。

 性質の面でも、蒼は愛される術を知っていた。甘えやわがままを巧妙に駆使し、小動物のそれのように身や心を摺り寄せその魅力を振り撒いた。一方、悠は控えめで穏やかだった。周りを気遣い我を押し付けるようなことはなかった。優しくおとなしく、しかしそれは父の目には全く留まらないものでもあった。

 同じ容貌を持ちながら、父の愛情はひたすら蒼のみに注がれ、それはあらゆる場面で如実に表れた。

 たとえばどこかへ出掛ける際、父は蒼にのみ行き先の希望を聞いた。蒼が遊園地と答えればそれで決定した。同じ誕生日、同じプレゼント、それは蒼が望んだもので統一された。

 何がしたい、何が食べたい、何が欲しい。すべて同じように与えられたが、悠が選ぶことは一度もなかった。

 それでも二人は仲の良い兄弟だった。喧嘩らしい喧嘩など、男児の兄弟にも関わらず一度もしたことがない。

二人には双子特有の意思疎通の力が備わっていた。以心伝心という名の連帯感、必ずそうなるであろうという既視感があり、大抵は悠がすべてを受け止め譲る形となり、衝突することが無かった。そしてまた、悠はそうすることに特段の不満も抱かなかった。

 蒼の思考が、流転の末、結局は自分の考えている先に繋がっているという事を知っていた。蒼の方が一足早くその場所へ辿り着くというだけで。

蒼は直感的で利発で、悠は思慮深く聡明だった。

 それが双子という理由だけの特異な能力ではないことを、悠は杳として気づき始めていた。なにか、自分自身でも御しがたい不可思議な力が体の内側の中心に球体のように存在し、そこから鼓動のように息吹をもって光を放っているかのような、どうにも実態がつかめず持て余す感覚。それが日に日に強くなるのを感じていた。

 そしてそれは、蒼にはなく、悠だけが持つものだという事も。

 悠は戸惑いながらも、その秘密を小さな胸に押しとどめ、誰にも話すことは無かった。


「ねえ悠、かくれんぼをしよう」

 六歳の時だった。休日に父の仕事が入り、午後二人で留守番をすることになった。

 かくれんぼは二人が好きな遊びだ。家の中で、父に許された場所、たとえは風呂場やベランダや父の部屋は禁止で、それ以外の場所ならどこにでも隠れられた。どちらかが鬼になり、どちらかが隠れ、見つかるまで続いた。 

 悠には”わかろうと思えば”すぐに蒼の居場所はわかった。しかし、それをしては面白くもないし、第一ルール違反はしてはならないという律儀な使命感があった。悠はいつでも正々堂々とかくれんぼをした。

 じゃんけんで悠が勝った。蒼が鬼になり、かくれんぼが始まった。

「いーち、にーい、」

 蒼が壁に向かって目を塞いで数を数えはじめる。三十まで数えたら、探し始めるのだ。

 悠は急いで隠れ場所を探した。廊下の戸棚や、クローゼット、カーテンの裏はもうほとんど探し尽されて隠れ場所としては味気ない。どこか、新しくてかつ見当もつかない場所をみつけたい。悠は家じゅうの間取りをくまなく想像し、自分の身を押し込められる窪みを探した。蒼が二十まで数え終わる声が聞こえてくる。

 悠は決心して家に一つだけある和室の押し入れの中に隠れた。暗くて、少し湿っぽい匂いがして、物がいっぱいで狭い。押し入れの中にはなにか不気味なものが潜んでいそうで、得体の知れない恐怖が住み着いていた。それを見ないようにぎゅっと目を瞑り、中に入ってそっとふすまを閉めた。

「もういいかい」

 蒼の声が聞こえた。

「もういいよ」

 悠は居場所を悟られないよう、小さくこたえた。目を閉じて壁に凭れて座り、立てた膝の上に顔を埋めた姿勢で待つ。

 蒼が一つ一つ部屋をまわって中を確かめる気配がした。棚を開けたり。机やベッドの下をのぞいたり、時折独り言のように「あれ」だの「おかしいな」といった声がまざる。

 悠はじっと息をつめて蒼が来るのを待った。最終的にはどこにいたって見つかるのだ。

 家の中だし隠れる場所はたくさんあるようで決まっている。ただ見つかるのがいつになるかというだけの話で、それまでのどきどきを味わうのが醍醐味なのだ。

 しかし、蒼はなかなか現れない。はじめこそうまく隠れられたと思っていたが、次第に蒼の捜索の気配も感じなくなり、がらんとした家の中にひとり取り残されて、開かずの間に閉じ込められてしまったような心細い気持ちに襲われる。無言の時間が長引くにつれ、その不安は膨れ上がり、とうとう悠は押し入れを開けた。

 和室には誰もいない。蒼の足音も聞こえない。

 悠はそろそろと押し入れから出ると、和室から廊下を見渡した。そこにも蒼の姿はなかった。

「蒼?」

 悠はリビングの方へ向かって声を掛けた。

 返事はなく、依然としてどこにも蒼の気配がない。歩く音も、部屋を探る音も、声もしない。

「蒼、どこにいるの?」

 悠は鈴の音のような声を震わせた。言いようのない切実な不安が襲ってくる。

 リビングにもいない。風呂場やトイレも探した。蒼は一体どこへ消えてしまったのだろう。

 悠は瞼を閉じ意識を集中した。蒼の居場所を探すために、その能力(ちから)を使った。

 そして、閉じていた目を開けると、はじかれたように二階へ駆けあがり、寝室に入るとベランダへ続く硝子戸を空けた。

 蒼が、ベランダの手摺によじ登り、そこに腰掛けているのが見えた。

「蒼、危ないよ。早く降りて」

 不安定な足場から平然と悠を見下ろす蒼を説得しようと、一歩近づいた。

 ベランダへ出ることは、父にもきつく禁止されている。

「平気だよ。悠もおいでよ」

 蒼は全く意に介した様子もなく飄々と言ってにこりと笑う。ひとつ突風でも吹けば、小さな体は易々と宙に持ち上げられてしまうだろう。

悠は恐怖で身を竦ませながら、祈るような思いで再び蒼に懇願した。

「勝手にベランダに出たらダメだって、いつもパパが言ってるよ。お願いだから降りて、中に入ろう」

「だからだよ」

 蒼は悠を見つめた。同じ顔の同じ瞳。まるで鏡を見ているかのように向き合って、蒼はふと微笑んだ。

「悠はさ、なんとも思わないの?おんなじ顔の双子なのに、僕ばっかり可愛がられて、悠は見てももらえない。悔しくないの?寂しいとは思わないの?」

 返す言葉は見つからなかった。悠はそのことを生まれた時から、もしかしたら生まれる前から分かっていた気がする。瞬きするほどに当然のこととして、疑問を持つことすらなかった。

悠はただ蒼を見つめ返した。同じ顔。同じ瞳。しかしその表情は、ひどく大人びて冷ややかなものに見えた。

「僕と悠はほんとは一人だったんだよ。一つの命だった。わざと離されたんだ。だって悠は、僕のことがわかる(・・・)でしょ」 

 傾き始めた陽の光を背に、蒼の姿は影のように暗く象られる。逆光に目を細めながら、悠は次第に速度を増す心臓の音を聞いていた。

「僕たちはもう一度ひとつになるべきなんだ。それが正しい形なんだから。ママはね、君にだけ能力(ちから)を残した。そして僕にはパパの愛を与えた。でもそれは間違ってる」

 蒼の言っていることが頭の中で渇いた音となって反響する。意味をとらえる前にどこかへ跳ね返って、つかまえることが出来ない。いつまでも続く鬼ごっごのように捉えられない言葉が指先を冷たく凍らせていく。

「悠、ここへきて」

 蒼が微笑んだ。悠は言われるまま蒼の足元へ近づく。

 すると、蒼は羽織っていた青い上着(パーカー)を脱いで悠に差し出した。

「悠のを僕に貸して」

 二人は大抵揃いの服を着ていた。蒼は青を。悠は白を。

 見た目で二人を見分ける一つの手段として。

 悠は戸惑いながらも着ていた白い上着を脱いで蒼と交換した。ベランダは、近づく冬の気配を存分に含み、冷たい風が容赦なく吹き抜けている。

 蒼は白い上着に袖を通し、悠も倣うように青いそれを羽織った。

 蒼が、にっこりと微笑んだ。

「忘れないで。僕は(きみ)で、君は(ぼく)だ」

 蒼の体が後ろに倒れた。支えるものなど何もない、空中へ。

 悠は動けなかった。蒼が落ちていくのを、夢ように見つめていた。長い長い時間見つめていた。そして、急に時計が巻き戻るように視界は晴れ、蒼が落ちた音が聞こえた。

 悠はそのまま気を失った。


 蒼は頭から落ち、落ちた瞬間に空に昇った。

 二人の見分けはつかない。まるで一人の人間が時に人格を変え二人を演じているかのように、父でさえ、見た目には判別できない。

 違うのは声だけだ。

 蒼は悠の服を着ていた。父は思考を放棄し、それを疑いなく受け入れた。

 死んだのは悠で、生きているのは蒼だと。今まで二人が衣服を交換して父を騙すようなことをしたことはなかった。

 父の不在中にベランダへ出て、誤って転落した。悠としての蒼は事故死とされた。父は、悠は日頃から一人でベランダに出ることがあったと、警察に証言した。

 悠が父に断りなくべランダへ出たことなど、一度もなかった。

「良かった。蒼が生きていて」

 父は声を潤ませ悠を抱き寄せた。本当に、心から安堵した幸せそうな表情だった。

 悠はただ黙って微笑んだ。思い出す限り、はじめての父の抱擁。あたたかかく、力強く、愛情を込めた声と腕。

 本当のことを言わなかったことに後悔はなかった。蒼と同じ顔で良かったと思った。

 それは、父の愛を受けたからではなく、父の幸せが守られ、蒼の思いが遂げられたからだ。

 悠が黙っている限り、蒼は永遠に愛される。

 悠はそのとき、自分も死んだのだと気づいた。

 蒼の肉体は滅び、悠の心は死んだ。二つが一つになったのだと。

 蒼が言った言葉の意味が、ペープサートのように表裏を繰り返しながら見え隠れする。

 悠はその日から声を失くし、蒼となった。

―忘れないで。僕は(きみ)で、君は(ぼく)

蒼の声が、いつまでも耳の奥でこだました。


父は今まで以上に()を溺愛した。事故のショックで言葉を閉ざした蒼を心配し、どこに行くにも一緒に連れて行った。仕事も在宅で行えるように会社と交渉し、一人ではどこにも出して貰えなくなった。

蒼が人と接触することを嫌い、常に何かに警戒していた。蒼を傷つけるもの、惑わせるもの、あらゆる悪と信じるものから遠ざけた。まるで監視でもするかのように、一挙手一投足に注意深く反応した。

病院へは何度か連れていかれた。心の診断をする病院だった。

悠は事故についての記憶を失っているふりをした。父は医師が逆にその記憶を執拗に引き出そうとすることを懸念し、いつしか病院ヘの足も遠のいた。 

父は、蒼を蝕む記憶として、悠を忘れさせたいと考えていた。

父の愛を受ければ受けるほど、悠は孤独を感じた。はじめから、”悠”という人格は錯覚で、そんな人間はいなかったのではないかとさえ思った。

一ヵ月を過ぎるころには、息苦しさを覚え、父から距離を置きたいと思った。しかし、そう思うこと自体、重大な裏切りになるような気がした。父に対して、蒼に対して。

自分が生きていることの意味は、父と蒼の望みと幸せを守る為なのだと言い聞かせた。

悠の持ち物を処分するとき、父は言った。

「全部同じものだから、取っておかなくてもいいだろう。お前も思い出すと辛いだろうから。だけどこれからは好きな色の服を着られるな。青でも白でも、何色でも、蒼だとわかる」

 その声は、とても澄んでいた。

 悠は蒼のように屈託ない笑顔で頷いた。

 そして死んだはずの心に、さらに深く、冷たいナイフを突き立てられたのだと感じた。


 悠の持つ不思議な能力(ちから)

遠くのものを見たり聞いたり、人や物を探したり、記憶や心の断片を見ることが出来た。

 しかし指の数ほども使ったことはない。

 それはしてはいけないことだと思っていた。普通じゃないし、無意識に異質なものだと穿ち避けていた。その能力がどんなふうに他者に畏怖と疑心をもたらすか、本能で知っていた。

 蒼がいなくなってから、悠は心の中で蒼と会話した。大体いつも、蒼から話しかけてくる。”事故”のことを覚えていないふりをした方がいいと提案したのも蒼だった。その方が、父も安心するからと。悠は少しの躊躇いもなく納得した。

 蒼がいなくなったのに、目の前で落ちるのを見たのに、不思議と悠の心は落ち着いていた。まるで本当に覚えていないかのように、巻き戻した映像に心が波立つことは無かった。その部分だけ、色を重ねて塗り替えられたように見えなくなっていた。

 蒼がいなくなったのは確かだ。しかし、現実にいた時よりもさらに強く、その存在を身近に感じていた。蒼が言ったように、自分の心の中に住みついたような、あるいはあるべき場所に元通り戻ったような、それは呼吸するほどに違和感なく馴染んだ感触だった。

 蒼の声はいつも明朗で心地いい。

今日の朝食の卵はケチャップを使っているから、淡い服は着ない方がいいだとか、色鉛筆の青色がなくなりかけているだとか、夜寝る前の本はどちらにしたらより良い夢が見られるかだとか、他愛ないことを教えてくれる。

蒼のアドバイスを受けて、悠は自分でも驚くほど上手に蒼を演じることが出来た。

 心の中の蒼は変わらず笑顔で快活で、まるで生きて話しているのではないかと錯覚するほど明晰だった。

悠は不意にわからなくなる。

 蒼は本当に自分と一つの命となって生きているのだろうか。それともただの幻なのだろうか。もしくは、自分の能力が蒼の声を聞かせているのだろうか。


 それから半年が過ぎた。

 悠は声を失くしたまま蒼であり続けていた。

「蒼、今日は一緒に寝よう」

 自分の部屋に入ろうとしていた悠を、父が呼び止めた。父の部屋はめったと入ることができない。かくれんぼでも禁止の場所だった。

父は船や海の生物や天体が好きで、部屋にはそれらの模型やボトルシップなどの置物が沢山あった。蒼から硝子で出来た信じられないくらい透き通った地球儀があると聞いたこともある。壊れるものが多く、むやみに立ち入る事は許されていなかった。その為、父の部屋はさしもの小さな迷宮の宝箱のような特別感があり、悠は夜、時折父に呼ばれて部屋に入れてもらえる蒼を少なからず羨ましく思っていた。悠は開いた扉越しに覗いたことがあるだけで、その部屋に入ったことは無い。

 呼ばれて嬉しい反面、ひどく後ろめたい気持ちもあった。

 蒼にだけ許されていたその場所に、父を欺いた形で入るのは、神聖な何かを不躾に踏み荒らす冒涜のような気がした。

「どうした。新しい船の模型もある。見せてあげるよ」

 なかなか返事をしない悠に、父はことさら優しく微笑みかけた。断るわけにはいかなかった。そうするにはあまりにも不自然で、父の好意と期待を踏み躙ることにもなる。

 心の中の蒼から反論は聞こえなかった。了承と捉えていいのだろうか。

 悠は躊躇いがちに頷いて、父の後に従った。


 父の部屋は本当に沈没船の宝の隠し場所のようだった。

 美しい帆船のボトルシップや模型、何を模したのかは分からないが、金属でできた螺旋状の幾何学的なモニュメント。天井からは神秘的な白鯨の模型が吊り下がり、蒼が言った通り透きとおった碧いクリスタルの地球儀もあった。

 悠は物珍しさと驚きとで、扉近くで身を固めてそれらに目を奪われていた。

「蒼、ここにおいで」

 父がベッドの近くの揺り椅子に腰掛けた。悠はその声に我に返って、父を見つめる。

 とても優しく、穏やかな表情をしていた。父はいつも、蒼とこんな風に部屋で過ごしていたのだろうか。

 心の中に、喩えようのない小さな漣が沸き上がり、さわさわと打ち寄せた。

 悠はそっと父に近づいた。揺り椅子に座る父の前に立つと、父は悠の体を抱きあげ膝に乗せて座らせた。椅子が反動で緩やかに揺れる。父の膝はあたたかく、ゆりかごで揺られているように心地よかった。

「蒼は船が好きだったね」

 囁くように口を寄せて、耳元近くで声がした。部屋に沿うように作りつけられた樫の棚の上に、帆柱を三本携えた凛と美しい船の模型が見えた。

「ごらん。あれはアメリゴ・ヴェスプッチ号。世界一美しい船だよ」

 父の声が水に沁み渡るように部屋を満たす。静かな碧い月明りに照らされた空間は、まるで深い海の中にいるようだった。

 悠はその船を見つめた。父の腕が背中から体を包み、引き寄せられる。

 首筋に父の息遣いが聞こえた。そして、温かく柔らかい感触が押し当てられる。

 悠は驚いて父を振り返った。父はやや焦点の合わない目で悠を見つめていた。とても近い距離で、薄暗い部屋の中でもその瞳の輪郭がはっきりと分かった。

 急に、体中にざわつくものを感じた。頭の奥と指先がはっきりわかる速度で冷たく熱が引いていく。父の腕の力は思いのほか強く、身をよじる事もできない。

「この髪の色も、黒曜石のような瞳も、すべらかな白い肌も、ほんとうに汐にそっくりだね」

 顔を逸らした悠の髪の香りを嗅ぐように顔を近づけ、そしてそのまま首筋まで移動する。

 今度ははっきりと、首に押し当てられたのは父の唇だと分かった。混乱したまま硬直していると、生暖かいぬめりが首から耳に掛けて這い上がった。

 全身に電流のように悪寒が走る。血液が逆流するかのような、おぞましい違和感。

 悠は反射的に後ろを振り向いた。

 窓からの薄明りに浮かび上がった父の顔は、知らない亡霊のように見えた。

 悠の心に恐怖が突き抜けた。体は腕に囚われたまま、振りほどくことが出来ない。

「どうしたんだい蒼。いつもこうしているじゃないか」

 父の右手が顔に伸びてくる。頬に触れられた瞬間、思わず両腕で父の胸を押し返した。

「やめて・・・」

 気づいたときには遅かった。音もなく静まり返った部屋で、ほんの小さな鈴の音のような声が震えた。

 父の気配が膠着したのが分かった。心臓の音が体中に鳴り響いている。悠は怯えながらゆっくりとその顔を見上げた。

 黒海に沈んだ鉛玉のような、冷たく暗い瞳が悠を見ていた。

 視界の中で、父の両手が目の前に伸びてくる。そして、一瞬で意識が消し飛んだ。

 首を絞めつけられ、床に落ちて抑え込まれる。背中に受けた衝撃で呼吸が詰まり、しばらく声も出せずに空気を求めて喘いだ。

 浅く荒い息をつきながら薄く瞼を開けると、怒りでも哀しみでもない、暗闇が張り付いたように表情のない父が、悠を見降ろしていた。そして、悠の瞳を覗き込むように顔を近づける。

「汐を奪い、蒼まで奪って、なぜお前が生きている」

 地中から蠢くような声だった。憎悪でも絶望でもない、あるのは果てしない虚無と虚脱。

 そのときわかった。

父は、はじめから疑念を抱いていた。

 些細な仕草や行動の癖。いくら気を付けていても完全に模倣し隠すことが出来ない、日常的な認識の相違。悠自身が気づいていないこと、蒼と父の間で積み重ねられていた不分明な部分。そして何より、悠は父の言いつけを破ったりしない。

父が常に行動を注視していたのはそれを見極める為であり、外に出さなかったのは他人に悟られない為。

本当は疑っていた。いや、むしろ気づいていた。ただ疑惑を抑圧し、認知を拒絶していただけ。そして認めたくなかったものを眼前に突き付けられた時、父の精神はついに崩壊し、豹変した。

話せるのに話せないふりをしていること。蒼のふりを続けていること。事故を無かったことにしていること。父の目に映る悠は、粗悪で悪辣な模造品(レプリカ)だった。

声が出せない。細く小さな喉が、大きく温かい手によって完全に塞がれている。謝罪も説明もできない。たとえ出来たとしても、聞いてもらうことも信じてもらうことも、もはやその言葉を()る事すら許してもらうことは叶わないとわかった。父には、蒼の声は聞こえない。悠の声も、届かない。

父の口が動き、何かを言った。もう聞こえはしなかった。その言葉がなにか、考えてはいけないと思った。しかし、わかってしまった。もし声が出せたとしても、悠にはなにも言うことが出来なかった。

―お前が死ねばよかったのに

 父は静かにそう言った。


 蒼に注がれていた歪んだ愛情。悠はなにも知らなかった。

 悠には能力(ちから)を、蒼には父の愛を、その言葉を、蒼はあのときどんな思いで口にしたのだろう。

 不幸という言葉を使うならば、父に愛されなかった悠ではなく、愛された蒼が不幸だったのだろうか。

 賢明な蒼が、父の挙動を不審に思わなかったはずはない。きっとそれが、異常で恥辱的な行為だと気づいていたはずだ。

 いつから始まった事なのかもわからない。蒼はなにも言わなかった。父の部屋に呼ばれた後、語られるのはそこにあった珍しく興味深いコレクションの数々の紹介で、悠はいつもその話を心待ちにしていた。

 笑顔で話しながら、蒼は一人で耐えていた。もしも自分が拒否すれば、次は悠が標的になるかも知れない。もしくは、悠に対する風当たりが強くなるかもしれない。そう思ったのかもしれない。自尊心からの羞恥や虚勢ではなく、父の愛を自分に縛り付けて悠から遠ざける為だったのだと、今ならわかる。

 蒼は悠とは対照的に表情が豊かだった、子供らしく奔放に喜怒哀楽を表現した。

 しかし、やはり一番思い出されるのは、純粋な笑顔だ。蒼はいつだって笑っていた。

 おそらく、父の行動に対して疑問を抱いていることをおくびにも出さず、なにも気づいていないふりをして無邪気に応じていた。そうやって、悠を守ってくれていた。蒼には能力が無かったのに。


けれど本当は気づいてほしかったのかもしれない。能力があるにもかかわらず、なにも知らず、知ろうともしなかった僕を、恨んでいたのかもしれない。もしかしたら、憎んでいたのかも。

蒼はついに我慢することをやめて、自分の死という形で終わらせることを選んだ。

心の中の蒼の声は、どんなことが起こるかをわかっていて、父の部屋に入ることを止めなかった。

これは蒼の復讐なのだろうか。だとしたら、一体どうしたら許してもらえるのだろう。 

僕は蒼を守れなかった。この能力はその為のものだったのかもしれない。それなのに、使わないことが正義だと信じて、目を逸らして、意思の外に追いやり、ただ無闇に放置した。

ほんとうは僕が蒼を守るべきだったのだ。


父の澱んだ瞳が、表情を欠いたまま悠の首に掛けた指へ力をかけていく。

空気が遮断され、思考も手足も感覚を失っていく。

苦痛はなかった。視界も次第に白く隔たり、ただふわふわと、体から何かが抜け出していくような浮遊感を感じていた。


蒼は普通じゃない愛などいらなかった。僕も普通じゃない能力なんていらなかった。

だけどここにいたってどうすることもできない。僕はなにもわかっていなかった。

蒼と僕はほんとは一人だったと言った。母が間違っていると。

もしその通りだったとしたら、母はなぜ僕たちを分けたのだろう。蒼はなにを知っていたのだろう。

双子だと言う理由だけでは説明もつかないほど、二人の容貌は酷似していた。同じ顔、同じ手足、同じ髪、同じ指に爪。きっと臓器だって同じ形に違いない。

どうして今まで気づかなかったのだろう。元々一つだったものが、薄く切り離されて二つになっただけなのだ。

一つの命で生まれたら、なにもかも正常だったかもしれない。

母も死なず、父の愛も健常で、僕が異能を持つこともなかった。

元通り、正しくいられるように、そうなれる場所へ、蒼は行きたかった。

僕の能力があれば,行けるかもしれない。二人で、一緒に。

今度こそ救わなければ。

僕は蒼で、蒼は僕だ。

それを叶えることが、一つである二人の望み。


悠はぼんやりと宙を見つめた。夜の天井に深海を泳ぐように浮かんでいる白鯨が見えた。海に還る万物を(あまね)いて受け入れてきた悠遠の瞳。

その瞳は、月明りを吸い込んで深く澄み渡る碧い水晶(クリスタル)の地球を見つめていた。

優しく、懐かしく、あるべき場所を求めるように。

白鯨の瞳が、いつしか泪を零すように溶けだし歪みはじめる。

深遠の常闇を揺蕩ったその雫を、どこからか差し伸べられた白い手が掬いあげた。

虚空に差し込まれた見知らぬ御手を、ずっと前から知っている気がした。 

薄れていく意識の中、何かが優しく喉を伝い落ちる。白い指で美しく錬成された碧い滴り。

薄氷のように透きとおる硝子(グラス)の縁が、玲瓏に輝くのが瞼の裏に残った。

それは、一度目はこの世界に繋ぎ止め、そしてもう一度飲めば、解き放たれる。


理を歪め、この世界に留まり続けるという禁忌(タブー)


これはいったい

誰の罪なのだろう。



「ハル、お客さん」

今夜もどこかで扉が開く。

そのバーの名は「ティエラ」。

地球の真ん中に開いたブルーホールのように、吸い込まれそうな青藍色(せいらんしょく)の瞳のバーテンダーが出迎える。


「いらっしゃいませ」


ハルは、誰よりも優しく、なによりも甘美な夢を綴る、カクテルをつくる。    




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