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魔法使いのBar  作者: 宵待
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Forth Glass

 祖母、水野奈江はまもなく八十歳になる。おととし祖父の正蔵が亡くなり、その頃からめっきり元気がなくなってしまった。

 存命の頃の祖父はそれは矍鑠(かくしゃく)としていて、俳句をたしなみ将棋と囲碁の腕も立ち、物知りで博識で、昔のことはもとより最近の流行にまで明るかった。体力もあり精力的で、弓道剣道さらにはテニスまで何でもやった。事実、僕は祖父からテニスの手ほどきを受けていたほどだ。

祖父は電車で一駅の場所にあるテニススクールに倒れる直前まで通っていた。休日、近所のコートで相手をしてくれる時には、颯爽と白い短パンを履きこなし、健康的に日に焼けて筋肉の付いた足を露にしていた。

 もちろん動きもそこいらの学生プレイヤーよりよほど敏捷で、祖父から一ゲーム奪うまでに五年かかった。あれは記念すべき小学六年生の春で、その日ばかりは日頃マナーを重んじる祖父がコート上で飛び上がり、ラケットをほおって文字通り手放しで褒め讃えてくれた。あの日の誇らしさを、僕は今でも忘れることが出来ない。

 僕、水野洋一は結婚十年目にして出来た子で、母はバリバリのキャリアウーマンだった。僕を作ろうと思ったのだって、近所に祖父母が住んでいて世話を任せられると踏んでのことだろうし、世間一般から見たら遅くに出来たひとりっ子だからもっと蝶よ花よと手塩にかけて育てられても良さそうなものなのに、いかんせんドライな両親はあっさり祖父母の好意に甘え切って頼り切った。

しかし今思い返してもそれでよかったと思っている。けして負け惜しみとか虚勢とかではなくて、僕は心から祖母を、そして祖父を敬愛していた。父親に似ていると言われるよりも、祖父に似ていると言われることの方が何倍も嬉しかった。(けして父に不満や欠陥があるわけではない。常識的な尊敬の念と愛情はちゃんと持ちあわせている)

 子供の頃から両親が仕事で忙しく、小学生の頃は近所に住んでいた祖父母の家へ帰宅することの方が多かった。そこで夕食を食べ、宿題をしてテレビを見て、お風呂まで入って家に送ってもらうのが平日の日課みたいなもので、必然的に僕はおじいちゃん子、おばあちゃん子として育った。

 祖母はいかにも気立ての良いお嬢さんがそのまま年を取ったような淑女で、優しくて料理が上手くていつも微笑みを絶やさなかった。僕は祖母の怒った顔などついぞ見たことが無い。祖父は礼儀や行儀には厳しかったが、やはり孫である洋一には甘い一面があったと思う。それまでは健啖家だったらしいが、洋一が生まれた途端にぴたりと喫煙はやめた。酒も飲むが、酔って暴れたり管を巻いたりなんで絶対にしない。むしろそういう人達をたしなめたり取りなしたりしてうまいこと纏め上げていた。

祖父は本当にかっこよかった。子供心にヒーローだった。髪も天然の綺麗なロマンスグレーで禿げてなくて、背筋もピンと一直線だったし、歯も丈夫だった。それに正義感が強くて情に厚くて、男気というのを絵に描いたような人だった。

 小学三年生の時、僕が不当に教師に叱られて泣いて帰った日、(それというのも身に覚えのない盗難事件の犯人に、ただその場にいたのが僕だけだという理由で仕立てられ責め立てられて謝らされた、という事件だ。無論僕は盗ってない)瞼を赤く腫らした顔を見るなり庭に連れ出して、なかなか口を割らない僕に日が暮れるまで黙って寄り添い続けてくれた。そしてついに経緯(いきさつ)を聞くなり、学校に乗り込んで猛然とかつ理路整然と抗議して汚名をはらしてくれたのも他でもない祖父だった。

祖父は多趣味で社交的で、友人も多く人付き合いも広範で、いつも週末にはどこかに出かけるか誰かが訪ねて来ているか、仕事をリタイアしてからも余生をことのほか謳歌していた。

 祖母は常時家にいて、そんな祖父を支え見守っていた。決して前には出ず目立たず、しかし重箱の隅々まで届くような細やかさで祖父を支持していた。祖父は表立っては祖母を褒めたり礼を言ったりしなかったけれど、常に感謝と敬意をもって接していたのはわかった。

 人前では祖母に対して無口だけれど、その瞳はいつも優しさといたわりを以て向けられていたし祖母は確かにそのことに気づいていたと思う。まさに理想的なオシドリ夫婦だったのではないだろうか。

 時には二人で出掛けたり、温泉なんて行ったりしていたのもつい数年前のことだ。二人とも足腰も頭も健康で、このさき十年でも二十年でも健在だとばかり思っていた。

 そんな祖父が、おととし急に脳梗塞で倒れ、そのままあっという間に逝ってしまった。

 僕が大学四年生の時で、とてもとても悲しくて辛かったけれど、同時に祖父らしいなと思った。死にざままで超然としていて、それすら含めて祖父の生きざまそのもののありようで、そうでなければ祖父にはそぐわないとさえ思えた。長患いなんて全然似合わない。ピンピンコロリの王道を胸を張って行った。苦しんだり長期入院で皆に心労を掛けたりすることなどせず、いっそ生ききったみたいに潔く。

 実際、後に残された僕の両親も、父の兄や妹やらの親族も、悲しむよりもそのあとの諸々の手配やら手続きやらに追われ、垂泣の余裕も喪失の余韻もまるで損なわれてしまっているように見えた。

通夜の後だって祖父の友人知人で溢れ返り、さながら年の瀬の大宴会だった。きっと祖父も棺から抜け出しちゃっかりその場に居座って、自分について語られるあれやこれやを面白そうに、時には相槌を打ったり突っ込んだりして、いつも通り豪快に笑っていたんじゃないかと思う。

そして、それこそすべてが祖父の思うつぼという気さえした。死んだ後のことまで見越していて、まるで祖父の手の上で祖父の思惑通りに動かされているような。

そんな時、僕はとても近く強く、どうしようもなく祖父の存在を感じた。見守られていると信じられた。

 しかしそんな祖父も、やはり残してしまう祖母のことだけは気掛かりだったのではないだろうか。僕は出来る限り祖母に寄り添うようにしていた。祖父の代わりにはならないが、せめて二人への恩返しのような気持ちで。


「洋一、今日おばあちゃんの様子見てきてくれる?最近ちょっと心配なのよ」

 朝食の片付けをしながら母が出勤の準備をしている。いつだって物事を並行して隙間なく時間を使うよう努めている母の癖だ。一つのことに時間をまるっきり使うなんて非効率的で考えられないという信念を貫いている。母は六十を前に、いまだ現役で、本人曰く最前線で仕事を続けていた。生活の為というよりは、ほとんど趣味か生き甲斐のようなものなのだろう。そのせいもあってか実年齢より妙に若々しい。

「心配って?」

 僕は僕で歯を磨きながらネクタイを結ぼうと奮闘している。親子とはどうしても似てしまうものらしい。ちなみに僕は大学卒業後、二年前にスポーツメーカーの営業職として無事就職できた。学生時代に続けたテニスの実績がものを言った。テニス用品が売れ筋で、祖父の影響を多分に受けていることは言うまでもない。

「水曜日の昼休みにちょっと寄ってみたんだけど、ほら、片付けの段取りとかもあるし。そしたら縁側の椅子で寝てたのね。で、なにか喋ってるなって思って近づいたら」

 母は祖母の家と自宅との中間くらいにある会社に勤務している。昼休みを使えば辛うじて様子を見に行くことが出来るらしい。そして、祖父が亡くなり一人身となって古い一軒家に住まう祖母の身を案じ、来年の春ごろを目途に同居するという方向で動いている。

勿論僕にも異論はない。祖母を一人にしておくのは心配だし、いまでも父、母、僕が交代でほぼ毎日のように短時間でも様子を見に行っている。

 母が途中で言葉を切って口紅を塗り始めたので、僕も歯磨きを終わらせようといったんダイニングを出た。ネクタイはまだ中途半端に左右非対称で首にぶら下がったままだ。

 念入りにうがいをして、鏡に向き直りネクタイを仕上げた。散髪したてで綺麗に整った襟足に、髭の剃り残しもない。顎のラインは引き締まり、眉毛はやや上がり気味で強気な印象をあたえる。切れ長の目に薄いくちびるはまさに祖父に似ていた。

僕は満足してタオルで口元を拭うと、ダイニングに戻った。

 母はもうバッグを肩に掛けて携帯をしまい、出勤の姿勢だ。話しの途中だったことを思いだし、僕は慌てて母に詰め寄った。

「心配って?」

 僕の言葉に一瞬ぽかんとした顔を浮かべた母に、おいおいと思いながらも辛抱強く続きを待つと、母がようやく「ああ」と独り言のように呟いた。

「なんかね、その寝言がちょっと気になって・・・”愛しいのは正ちゃん、恋しいのは正さん”て。おじいちゃんのことかしらね。でもなんか、不安でしょ。こう言っちゃなんだけど、仲が良かったし連れ(・・)に来たりしないかな、なんて」

”愛しいのは正ちゃん、恋しいのは正さん”

 僕は心の中で反芻した。確かにちょっと気にかかる。祖父の名は正蔵という。祖母は普段祖父のことを”おじいさん”と呼んでいて、名前で呼んだところなど聞いたことがなかった。もしかしたら若い時にはそんな風に呼んでいたのだろうか。そうだとしても、やはりどこか引っ掛かる。

「わかった。なるべく早く帰って見に行ってくるよ」

「よろしくね」

 母はそう言うなり踵を返すと玄関へ歩き出す。今日は朝から会議があるらしい。夜は飲み会があるから遅くなると聞いている。父もとっくに仕事へ行ったようで、玄関の扉が閉まると同時に急に部屋の空気がしんと透明になって静止した。窓からの朝日にちらちらとシンクの水滴が光って、まるで現実感がなくなってしまう。その瞬間、僕はもうすでに祖母の家に行きたいと思っていた。

 祖母と、祖父の匂いと存在の沁みついた、あの馴染み深い穏やかな家に。


 祖母の家に立ち寄った後、何となくそのまま帰宅する気になれず、そうかと言ってどこに向かうべきかもわからず、僕は帰り道をわざと迂回して歩いていた。

 水溜まりに映ったみたいに歪んだ大きな月が、とっぷりと濃い夏空に滲んでいた。

 時おり吹き過ぎる風は生温い昼間の空気の名残を含み、何かに追い立てられてでもいるみたいにどうにも落ち着かない気持ちを掻き立てた。

きっと家に帰ってもまだ誰もいない。部屋の真ん中で一人で咀嚼するには厄介すぎるざわついた感情を持て余していた。

 ふと足元ばかりを見て歩いていると気づき、慌てて顔を上げる。子供の頃、よく祖父に言われたものだ。顔をあげ、前を向いて歩けと。遅れないように、見逃さないように、そしてなにより、自信を持てるようにと。

祖父はいつだって空から見えない糸で引っ張られてでもいるみたいにしゃんと背筋を張って立っていた。その大きな背中が曲がったところなど見たことが無い。

 懐かしさにふと口元が緩みそうになった時、目の前の路地の奥に灯りが見えた。

 ぼんやりと、揺れるように、誘うように、ほのかだが確かな存在感を持って。

 僕の足はいつの間にかにその灯りに吸い寄せられていた。

細い路地を、ふらふらと進んで行く。

 すると、扉が現れた。樫の、アンティークで古い扉だ。照明も看板も無く、それでも中には人がいて、きっと何かの店が営業しているのだと思えた。

 一人になりたくなかった。

僕は、憑かれたように知らずその把手に手を伸ばした。

 ざくり。およそ把手を下ろした音とは思えない、まるで凍える朝の霜柱を踏みしめた時のような子気味いい音がして、扉は開いた。

 あたたかな間接照明の灯りが全身を迎え入れる。なぜだか、懐かしいと感じた。

古ぼけた、ランプシェードの掛かった祖父母の家の脱衣所のような、小学生の頃に、夕方の学校で一人教室に残って下校の音楽を聴いたときのような。

 感傷に浸っていると、目の前のスツールに座っていた小さな子供が不思議そうに僕を見上げた。僕もその子供を不思議そうな目で見下ろす。こんな小さな子がどうしてこんな路地奥の店にいるのだろう。そもそもここはなんの店だろう。

 僕は改めて店内を見回した。

 右手には琥珀色の綺麗に磨かれた細いカウンター、それに沿って七席ほどのスツール、内側の棚には磨き上げられた様々な形状のグラスが整然と輝いている。装飾というものはほとんど見当たらない。初めて訪れたはずの店であるにも関わらず、やはりどこか懐かしいような面映いような心地になる。少し心細いような、だけど温かいような。

「ハル、お客さん」

 子供がカウンターに向き直って声を掛ける。僕もつられてその方向に顔を向けた。

 そして目をしばたたく。

 人がいた。先ほどまでは誰もいなかったと思ったが、カウンターの内側にいつのまにか当然のように立っていて、こちらに笑顔を向けている。十五~六だろうか。少年のような、少女のような、綺麗な顔立ちをしていた。信じられないくらい透き通った碧い瞳に溺れそうになる。

「いらっしゃいませ」

 店内を構成するあらゆる分子に浸透するような、ひたりと快い声だった。その一言で、すべてがあるべき場所に落ち着いたというような説得力まである。

 僕は躊躇いながらも歩を進め、ハルと呼ばれた少年の前のスツールに腰掛けた。

おそらくバーだと思うが、こんなに若いバーテンダーがいる店には来たことが無い。最近の流行りだろうか。それともこの少年は看板娘みたいなもので、これから別のバーテンダーが出てくるのだろうか。

「ここはバーでいいのかな?」

 とりあえずいったん確認した。メニューらしきものも何もない。

「ええ、そうです」

 いささかも臆することなくハルはこたえる。ふわりと、白い蜉蝣の羽根のように一瞬輪郭がぼやけた気がした。

 自慢じゃないが、僕は一人でこんなバーらしきバーになど来たことが無い。もっとフランクでカジュアルな感じの店に友人と一緒に入ったことがあるくらいだ。社会人にもなって、と思うが、慣れない場所に来るとどうにも緊張してしまう。

「なにを召し上がりますか?」

 動揺を押し隠す虚勢に必死の僕は、きっとひどく不自然に見えたに違いない。

しかし、ハルはバーテンダーらしくそんな素振りはおくびにも出さず、落ち着いた、丁寧な口調で訊ねた。

「えっと・・・」

 僕は途端に質問にがんじがらめになってしまう。まったくどちらが年上か分からない。

 どこかに行きたいと思っていたが、酒を飲みたいと思って歩いていたわけではない。しかし、ではどこへどうして行きたかったのかと思い返すと、やはり答えは見つからない。

 この店へ辿り着いたのは、もしかしたら僕の潜在意識が何かアルコールを飲める場所を求めていたからだろうか。確かに、大の大人の男が、この時間(といっても九時過ぎだが)に一人でファミレスやカフェに入るよりは、バーの方のよほど健全で相応に思える。

 そういえば、祖父とも一度一緒に飲んだことがあった。あれは二十歳になったばかりの頃で、久しぶりにテニスへ連れ立って出掛けた帰り、偶然見つけた洒落た風情のバーへ入ったのだった。あの時、一体何を飲んだのだったか。なにせ初めての酒で初めてのバーで、そして初めて入店するにも関わらず威風堂々とカウンターに腰掛けて、熟年のバーテンダーと渡り合う祖父に、もはや尊敬の念すら抱いて見惚れてしまっていた。

 その時飲んだものの味も香りも色も名前も、さっぱり覚えていない。どうしてもっとちゃんと味わって記憶しなかったのだろう。大切な思い出になるはずの出来事だったのに。

 スツールで身を固めたまま黙りこくった僕に、ハルはとても優しい微笑を浮かべた。

まるで、その思い出の中身が見えてでもいるみたいに。

「当店のカクテルには一つだけ魔法をまぜることができます」

 見つめる先で、すべらかに空気に溶け込む声が聞こえた。

僕はそれこそ魔法か催眠術にでもかかったみたいに呆けて、その美しい相貌を見上げた。

「あなたの望む魔法を教えていただけますか」

 僕は夢の中へ誘われていくように、そっと目を閉じ胸の中で今来た道を歩き始めた。


 午後六時、退社時間になるとすぐに鞄を掴み、僕は会社を飛び出して一目散に祖母の家へ向かった。今朝母の言ったことが、勤務中もずっと気になっていた。

 電車に乗って二駅、降りると冷房で引いていた汗がまたじわりと吹き出した。今年の夏は暑かった。残暑もしつこそうだと人知れずため息をつき、足早に祖母宅へと急ぐ。

 途中のコンビニで飲み物とプリンを買った。プリンは祖母の好物だ。クリームなどは乗っていない、ごくシンプルで柔らかい、茶色のカラメルが底に沈んでいるようなものが特に好きだ。それを食べるとき、祖母は本当に嬉しそうに大事そうに、スプーンで少しずつ掬いながら味わって食べる。幸福を飲み込むみたいに時間を掛けて。きっと若いころは美しかったのだろうと思われる、白くて細い喉をゆっくりと上下して。

「おばあ、ただいまー」

 ただいま、と言ってしまうのは長年染み付いた癖だし、ここは間違いなく僕の第二の家だと言っていい。祖父も祖母も、中学生になっても高校生になっても、もちろん今も、いつでも僕の「ただいま」を喜んでくれた。

 しかし、いつもなら即座にかえってくる返事がない。

「ただいま!いないの??」

 もう一度玄関で声を掛け、僕は湧き上がる不安を抑えながら急いで靴を脱ぐと框に上がった。行儀にうるさかった祖父が見たら眉をしかめそうなほど、靴は乱雑に散らばっているが、気にしている余裕はない。母から今朝聞いた言葉が脳裏に過ぎった。もし倒れでもしていたら大変だ。

 ほんの短い廊下にも関わらず息が切れるほどに動悸をさせ大股で進むと、勢いよく居間の引き戸を開けた。祖母は大抵寝るまでそこにいて、テレビをみたり新聞を読んだりしている。

「なんだ、いるじゃん・・・」

 祖母は縁側に向けて置かれた肘掛椅子に深々と凭れかかり、首を垂れている。しばらくするとかすかな寝息が聞こえて来た。座ったままうたた寝をしているらしい。

 途端に肩の力が抜けた。部屋の中を見渡すと、テレビは付けっぱなしになっているが、他は特にいつもと変わりない。綺麗好きで几帳面な祖母らしく、整然と片付いていて、いつもどおり古い柱と畳の懐かしい匂いがした。

 僕は起こさないようにそっと軋む畳を歩き、リモコンを取ってまずテレビを消した。

そして、硝子戸を挟んですぐ隣の台所へ行き、今しがた購入した飲み物とプリンを二つずつ冷蔵庫にしまう。冷蔵庫の中もきっちり整理されていた。賞味期限切れの食材がないかだけざっとチェックして素早く締める。こういう癖も、自然と身についていた。老眼の祖母には印字された薄い数字は見えにくいのだ。おそらく母も毎回同じことをしていると思う。祖父が亡くなった直後に訪れた際などは、三か月も期限が過ぎたヨーグルトが平然と冷蔵庫に居座っていたことがあった。おそらく祖父が食べていたものだろうが、間違って摂取してしまったら大ごとだ。以来、食材の管理もこの訪問の大事な任務となっている。

 僕は祖母の顔を覗き込んだ。すぅすぅとまるで幼児みたいに安らかな寝息をたて、たまにもごもごと口を動かし首を揺らす。平和そのもののような寝顔。

 僕は思わず小さく吹き出して、そのまま忍び足で居間を出ると、向かいの和室へ入った。

 まるで温度が三度くらい下がったみたいに、空気が冷たく湿り気を帯び、肌に吸い付く感覚がする。廊下は蒸し暑ささえ感じるのに、扉一枚隔てたこの部屋は、エアコンもないのに夏でも冬でも季節などない別の空間と繋がっているみたいだ。

この家のどこからも切り離されている別次元みたいに、現実感が伴わない。

 僕は明かりは付けず、座布団を手繰り寄せて静かに仏壇の前に正座した。仏壇には一日中電気で光る、蝋燭を模した燭台の灯りがともっていて、その全体をぼんやりと、そしてその隣の祖父の写真をくっきりと照らしている。写真の中の祖父は、健康的な歯を見せて、豊かなロマンスグレイをなびかせ満面の笑顔を湛えている。

「ただいま、おじい」

 僕は声をひそめて祖父に挨拶をし、おりんは鳴らさず手だけを合わせて目を閉じた。「おう、おかえり洋一」そう言ってにっこり目尻を下げる祖父の顔が、瞼の裏に見えた気がした。

「さて」

 僕は立ち上がると、ようやく部屋の電気を付けた。傘の付いた四角い電灯は、紐を引っぱるタイプだ。腰の曲がってきた祖母の身長に合わせて、随分と長く伸ばされている。

 明かりがついた途端、部屋は現実と繋がったようにくっきりと渇いて浮かび上がる。心なしか、温度も上がったように感じる。そこはもはや誰でも通れる実際の場所になった。不思議だ。この部屋は、いったいどちらが本物なのだろう。

 僕は押し入れを開けた。荷物の整理を少しずつ進める為だ。整理と言っても、残すものと捨てるものを分別する作業だった。

この家は押し入れやら物入が多く、比例して物も多い。一体いつからどうしてそこにあるかも分からないような珍妙な代物が出てきたりもする。漆塗りの三十センチばかりある古い千手観音だったり、全五十巻からなる歴史ものの文献だったり、亀?の甲羅だったりだ。それらを同居までの間に処分なり譲渡なり売却なりをしてあらかた整理してしまわなければならない。うちの収納にも限界がある。

 無論祖母にも検分はしてもらうが、大抵は「そうねえ」とか「なにかしらねえ」とか要領を得ない返答が帰ってくる。要するに覚えてもいないようなものに埋め尽くされているのだ。その為ある程度は自分たちの裁量で判断してもいいことになっていた。よほど高価そうだったり取捨に窮するものを除いては。

 僕は押し入れから順番に箱やら袋やらを出して電灯の下に並べた。

麻袋一つと黒いプラスチック製の三段の抽斗、それから格子柄の小さなかぶせ箱だった。

 まず麻袋を開ける。袋を閉じていた麻の組紐は朽ちかけていて、ぽろぽろと指に付いた。

 袋の中身はボールだった。ゴム製のカラフルなボールがたくさん詰まっている。とは言っても、ほとんど空気が抜けて球体を成してはいないが、その色は仰々しいほど鮮やかで、この家にはまるで不釣り合いに見えた。僕が子供の頃に遊んでいたものだ。何となく覚えがある。部屋の中で小さなベビープールを膨らませて、そこをボールで満たしてプールみたいにしていたのだ。それが証拠に、袋の底には空気を入れて膨らませる仕様のビニールプールがくしゃくしゃになって押し込められていた。

「まだ取ってあったのか」

 僕は苦笑しながらもどこかくすぐったいような気持ちになって、その袋を再度麻紐で縛り直し、脇によけた。いちいち感傷に浸っていたらキリがない。甘やかな思い出を噛み締めて、その袋は処分の方へ選別する。

 次にプラスチックの抽斗を上から開けていく。書類のようだが、なんの書類だかはよく分からない。もしかしたら重要なものもあるかもしれない、と思い、父と母に検分してもらう組に入れた。

 最後に小豆色と白の格子柄のかぶせ箱を引き寄せ、蓋を開けた。中身は写真だった。

 とても古い写真だとわかる。セピア色で、精度も低くて、白い縁取りは黄土色に変色している。僕は写真を凝視した。三人の学生が映っている。学生服を来た青年が二人、そして挟まれるように女性が一人立っている。その女性は祖母だとわかった。少女の顔だが、面影がある。目元、口元、そして全体の雰囲気がまったく祖母と同じだった。

 しかし僕が写真から目を離せなかったのは、若かりし頃の祖母を見つけたからではない。

 僕は狼狽えて震える指で写真を持ちあげた。そして食い入るように祖母の右隣に立つ青年を見つめる。

「どうして・・・」

 呟いた声がやけにわざとらしく自分の耳に入り込んだ。僕は写真を持ったまま薄く開けたままにしている部屋の襖の方を向いた。廊下を挟み、椅子でうたた寝をする祖母が見える。

 僕はもう一度写真に視線を落とした。

 古い写真の中、祖母の右隣、そこに映っていたのは、僕だった。


 僕は写真を持って居間に戻った。祖母は眠ったままだ。畳の上に座り込み、白い蛍光灯の明かりの下で写真を確かめた。

 やっぱり僕だ。今朝も鏡で見た僕の顔だ。若干幼くはあるし髪型もやけに短く刈り込んではいるが、間違いない。

 そして、左端の青年に視線を移す。こちらは祖父だ。しっかりと面影があるし、以前祖父の若いころの写真を見せてもらったことがあるから見まごうはずもない。若くて、精悍で、昔の言葉で言えばハンサムという部類だろう。それからふと思う。僕と祖父は、似ている。小学生や中学生の頃、一緒に歩いているときにも言われたことがあるが、こうして同じ年くらいで並んでいると、本当に似ていると思う。そっくり、というのとは違う、顔の造形が少しずつ同じ基礎を持って出来上がっているような、皮と肉を全部削いだらまったく同じ骨格が隠れているんじゃないかというような、感じだ。たとえ兄弟と明かさなくても、他人から見れば間違いなく兄弟とわかってしまう、あの説明のつかない彷彿とした既視感。

「兄弟?」

 自分の脳裏に浮かんだ言葉に、自分で動揺した。僕はいったい何を言っているんだ。

 おじいはおじいであって、僕の兄弟のわけはない。

 しかしこの写真の中の僕と、祖父は間違いなく兄弟だ。そう思える説得力を確かに醸している。

 僕は写真を裏返した。かすれて消えかかった細い墨文字で、それぞれの人物の裏に名前が書かれていた。

 正蔵(祖父の名)、奈江(祖母の名)

 そして、正一。これが僕にそっくりな青年の名だ。

「正一・・・」

 僕は声に出した。そしてはっとする。僕の名は、祖母が名付けたと聞いた。僕が生まれた日に、まだサルみたいな顔を見るなり、祖母が急に呟いたのだと言う。「よういち」と。

 もしかしたら、それは「よういち」ではなかったのではないだろうか。「よういち」ではなくて「しょういち」と言ったのではないだろうか。「しょういち」、この写真の青年の名を呼んだのではないだろうか。

「愛しいのは正ちゃん、恋しいのは正さん」

 僕は弾かれたように顔を上げた。

 幼女のように眠り込んだまま、祖母は安らかな声でそう言った。


 祖母は、夢を見ているのだろうか。その夢の中で、誰と会っているのだろうか。


 僕はその写真を持ったまま、祖母の家を後にした。押し入れから出した物は何事もなかったかのようにすべて元の場所に戻した。飲み物とプリンは置いてきた。僕が確かに祖母の家に立ち寄ったという証拠は残す必要がある。しかし、いま祖母と顔を合わせる自信がなかった。祖母と二人きりで対峙して、穏便に会話できる自信が。口を開けば、なにかを猛烈に問いただしてしまいそうな気がした。

 がむしゃらに歩きながら、僕は家ではなく逆の方向へ足を向かわせた。今すぐ帰る気にはなれない。一人の部屋で、この写真とともに過ごす勇気が持てない。

 何故持ってきてしまったのか、祖母の声を聞いた途端、咄嗟に胸ポケットに忍ばせてしまった後ろめたさが、鉛のように胸を重苦しく押さえつけた。

 色褪せた写真が、じんわりと温度を持つように存在感を誇示している。胸の中に徐々に浸透してくるように、心臓の熱と速度をあげていく。

 僕は、おじいの孫ではないのだろうか。

 そんな疑惑が湧き上がり、いつしか湿った薄膜が皮膚に張り付いたように剥がせなくなる。掴んでも引っ搔いても、一向に離れてくれない。

 正一とは誰なのだろう。なぜ一緒に写真に写っているのだろう。なぜおじいと兄弟然として見えるのだろう。そしてなぜ、おばあはその名を呼んだのだろう。

 正一はいったいどこにいるのだろう。

 おじいは、知っていたのだろうか。

 おばあのお腹にいたのは、本当は正一の子かもしれないという事に。

 父はおばあに似ている。しかし僕は。

 正一と瓜二つに育っていく僕を、おじいはどんな気持ちで見ていたのだろうか。


 僕は胸ポケットに右手を当てた。柔らかな温もりを手のひらに感じた。

魔法(オーダー)を、承りました」

 澄んだ声が聞こえて、僕はぼんやりと顔を上げた。

そうだ、ハルという若いバーテンダーのいる、見知らぬバーにいたのだった。

 しかし、いつしか物思いに耽ってしまって、結局注文なんてしていない。

 僕の戸惑いを見透かしたように、ハルはとても優しく微笑んだ。何も心配はいらないとでも言うように。その表情はひどく大人びて見えて、多大な包容力をもって僕を落ち着かせた。

 ハルは棚からワイングラスを取り出した。薄いグラスの縁が鋭く煌めき、ダイヤモンドのような輝きを滑らせた。

 僕は黙ってその動作を観察する。あまり酒には強くないし、それほど飲む方でもない。

本格的なカクテルなんて祖父と行ったバー以来だし、あの日の記憶も曖昧だ。

 たぶん僕はあの日酔ってしまったのだろう。店に入ってから後の記憶はほぼないし、飲んだものすら覚えていないのだから。

 そうこう考えている内に、ハルはうっとりするほど美しい所作でカクテルを作り上げていく。ただボトルからグラスへ液体を注ぐ動き一つとっても、流れるように精緻で流麗だ。

 そしておそらくその分量も、測ったりしなくても恐ろしく正確なのだと思う。

 ハルはグラスに満たした二種類の液体を、最後に長いバースプーンで滑らかに混ぜると、コースターに載せたグラスを僕の前に差し出した。

「どうぞ一夜の魔法の夢を。”キール”です」

 ハルの華奢で綺麗な指が離れ、僕は目の前に残されたグラスを見つめた。

 紅玉(ルビィ)のように赤く透きとおった、美しいカクテルだった。しかし見た目はなんだか女性向にも見え、気恥ずかしい。それに、いったいなんの酒を使っているのだろうか。

 僕の猜疑的な表情を見て、ハルは白夜が明けるように静かに微笑んだ。

「このカクテルはあなたの為の特別調合(オリジナル)です。安心してお召し上がりください」

 僕は頷いてグラスに手を伸ばした。なぜかハルの言葉には疑念を挟む余地のない安心感がある。けして強引ではないのに、さらりと流れ込んでくる水のような自然的な力だ。

まるで祖父みたいだと思う。どんなに大胆で荒唐無稽なことでも、祖父が言えばすべて安泰で真実に思えた。あの感じと似ている。

 僕はゆっくりとグラスに口をつけた。飲み込む瞬間、ワイン特有の酸味を帯びた芳香が口内を満たし、鼻孔をくすぐり、空気と混ざって脳内にまで到達する。

 爽やかな果実の風味と甘み、そして胃が瞬時に熱を持つ感覚。可憐な見た目や飲み口よりも、強い酒だとわかる。ましてやいまは空腹なので、より顕著に感じられる。

 しかし、この感覚には覚えがあった。この味と香りにも。そのうちに、このグラスもカクテルの色も思い出されてきた。あの日の店内の雑音や話し声、匂いや音楽、椅子の座り心地や隣に座るおじいの肩が触れた時の温もり。

 これは、おじいとはじめて一緒に飲んだ酒だ。あの日、おじいが僕の二十歳の祝いに振る舞ってくれたカクテル。

 祝いの色はやっぱり赤だろう、なんていい加減なことをしかめつらしく言いながら、ビールやサワーみたいな軽い酒ではなくこのワインベースの強いカクテルを注文した。まるで、挑戦でもさせるみたいに。僕はその見た目の可憐さにすっかり騙されて、また祖父の手前格好を付けたくて、おそらくそれを一気に煽った。

 そうだ、あのカクテルだ。おじいと、最初で最後、一緒に行ったバーで酌み交わした酒。いつかいっしょに飲もうな、と子供のころから聞いていた祖父の言葉。それをようやく果たせた日の、思い出の味。

 祖父と乾杯をした、肩を並べられたと思った、唯一のカクテル。

 おじいは、ずっと僕のヒーローで、誰よりも強くてやさしくて、かっこよかった。


 僕はいつの間にか外にいた。見たこともない風景だったが、なんだか懐かしい景色のようにも思えた。広く果てしない草原。春風に揺れる草木に時折舞い上がる白い野花の花びら。

 その中に、一人座り込んで背中を向けている姿が目に入った。長い髪を後ろで一つに三つ編みに結って、紺の木綿のワンピースを着ている。

 後ろ姿だったが、すぐにわかった。おばあだ。若いころの、たぶんあの写真が撮られたころのおばあ。

 風に乗って、鼻歌のような声が聞こえた。楽しそうに、嬉しそうに、おばあは歌っていた。

「愛しいのは正ちゃん、恋しいのは正さん」

 僕の足が止まる。そして一度大きく息を吸い込んだ。胸いっぱいに濃い清冽な草木の香りが広がり、そのまま両腕を水平に上げて目を閉じる。おばあの夢の中に身を浸す。

 おばあはきっと、ここで待っているんだ。会えると思っているんだ。

正一はもうこの世にはいない。おじいも死んで一人になった。三人の中で、一人残ってしまった。だから、会いに来ているのだ。あの頃の自分たちに。

「愛しいのは正ちゃん、恋しいのは正さん」

 それは正一のことなのか正蔵のことなのか、おばあが待っているのはどちらなのだろう。

 しかしそこには誰も現れない。おばあはたった一人のまま、ただ手に取ったシロツメクサで花冠を編み続けている。いつまでも輪になって繋がらない、長い長い蔓を伸ばし続けている。

―おじい、いいよな

 洋一は空を見上げた。頭上を覆いつくす、水色の空が丸くどこまでも広がっている。

―おばあに会っても、会わせてやっても、いいよな

 いま僕は洋一であり、正一だ。この夢の中で、おばあが正一を待っているんだとしたら、僕は正一になる。おばあをもうこれ以上一人で待たせ続けるわけにはいかない。

 僕は息をつき、ゆっくりとおばあに近づいた。花冠の先が、見えないくらい遠く長く続いていた。おばあはいったいいつから待っていたのだろう。

 おじいが死んだあの日からか、それとも正一が死んだときからだろうか。おばあはどれくらいのシロツメクサを延々と摘み続けていたのだろう。歌いながら、一人きりで。

 さらに数歩近づいたとき、水滴が水面に落ちたような音が辺りに鳴り響いた。空間が一気に狭まったような、空気がぎゅっと圧縮されて濃密になったような、胸の中まで切なさで押し潰されるような感覚。

「奈江ちゃん」

 たまらなくなって僕は呼んだ。僕の声じゃないみたいだった。それに、あまりにも自然に祖母の名前を紡いでいた。

 祖母は立ち上がりながら僕の方を振り返った。驚いたように丸く見開いていた目が、次第に喜びと感涙に濡れていく。

「正ちゃん」

 祖母は涙を拭いながら微笑む。はじらいとはにかみとで頬を赤らめ、まるで少女みたいに。

「奈江ちゃん、久しぶりだね」

 言葉は自然と出てくる。二人の関係など何も知らないのに、すべて承知しているかのような間違いないフレーズで。

「正ちゃん、会いたかった」

 祖母が両手を胸の前で結んだ。感動しているときの癖だ。

「僕もだよ」

 僕は微笑みを返す。穏やかで、満ち足りた気持ちだった。祖母はもう何十年も正一と会っていない。正一は、祖父の弟で、あの写真を撮ってから数年後に、死んだのだ。

祖母はその頃、正一と恋をしていた。恋をしていて、その恋を突然に失った。

「とうとう一人になってしまったわ。私も、そこに行きたい」

 奈江は再び涙を浮かべた。僕は何も言えないで口を噤む。正一が言葉を失くしたのだ。

 祖母の思いが伝染して、思わず涙ぐみそうになる。

「お前はまだ早い。それに、俺は正一と積もる話もある」

 不意に背後から声が聞こえて、僕は振り返った。おそらく正一もびっくりしたことだろう。

 そこに立っていたのは、祖父の正蔵だった。もちろん、若いころの。

「正さん」

 祖母は今度は正蔵に顔を向けた。全幅の信頼を預けた、安心しきった表情に彩られている。

「お前はもう少し生きて、傍にいてやれ。まだまだ危なっかしいからな」

 祖母に言い、正蔵が僕を見た。おじいの目だった。その目が、どうだ、と自信たっぶりに言っている。そのときにわかった。おばあは正一を待っていたんじゃない。正確には正一一人を待っていたんじゃない。

 正一と、正蔵を待っていたんだ。おじいは正一に負けたりしていなかった。何十年とおばあの中にいた正一。それは、おじいにとっても同じことだった。共有して、補完して、内包して、その存在を昇華させてきたのだ。おばあと二人で。おじいは間違いなくすべてを承知していた。

 すべてを承知の上で、丸ごと全部受け入れた。

 僕は急に恥ずかしくなって俯いた。すっかりおじいに勝ったみたいに思っていた。おじいに申し訳なくさえ感じていた。でもすべて杞憂だ。取り越し苦労だ。そうだ、そんなに簡単におじいが負けるわけがないじゃないか。

「だからお前は半人前なんだ」

 ふふんと鼻を鳴らしながら得意げにおじいは言った。さも勝ち誇ったような、少年の輝きを残す瞳で。

 胸の中で小さな光が弾けた気がした。

 そうか、寄り添うつもりで寄り添われていたのも、見守るつもりで見守られていたのも、

僕の方だ。おばあじゃない。おじいはおばあにその役目を託した。考えてみれば、おじいと何十年も連れ添ったおばあも、最強に決まってる。

 もう、自分が誰の孫かなんてどうでもよかった。僕は確かにおじいの孫で、おばあの孫で、正一でもあり洋一だ。僕の中の正一が微笑んだ気がした。あるいは、高らかに大笑いした気がした。なにもかもどうでもいいくらいにすがすがしかった。

「ありがとう。正ちゃん、正さん」

 おばあの声がした。その声は澄み渡った空にあっという間に吸い込まれていく。

 おばあはただ、正一と正蔵に、それを伝えたかったのかもしれない。

 何十年分もの、ありがとう、を。


 僕は縁側で目を覚ました。空はかすかに朱に染まりはじめ、ヒグラシの声が遠く聞こえていた。

 すぐ隣の肘掛椅子に、祖母がすわってうたた寝をしていた。幸せそうに微笑みを浮かべて、目尻に浮かんだ朝露みたいな涙に、暮れなずむ夕日が映っていた。



 店の灯りが落ちる。ティエラが夜を迎える準備を始める。

 シュウが空になったワイングラスをハルに手渡した。

「ありがとう」

 受け取りながら、ハルはグラス越しに店内を眺める。碧い瞳がグラスに映り込み、海の中の水泡のように幾重にも反射している。

「綺麗な色のカクテルだったね」

 シュウはカウンターに肘をおいて頬杖をついた。あどけない栗色の瞳が好奇心を覗かせている。

「そうだね」

 ハルはグラスを洗って丁寧に拭き上げると、棚に戻した。

「僕は飲めないやつ?」

 シュウは子供の体だが本当の子供ではない。体が受け付けないことは無いが、アルコールが美味しいとは思わないように出来ている。まさしく律儀なハルらしい構成だ。

「うん。二種類のお酒で出来ているから」

 キールは白ワインとカシスリキュールで出来ているという。なるほど、ノンアルコールでは作れない代物だ。

「あのお客さん、酔っぱらってないといいけど」

 シュウが悪戯っぽく笑いながら言った。酒を飲みなれているようには到底見えない性質(たち)だったからだ。それを受けてハルも微笑む。

「大丈夫だよ」

 そんなことは百も承知だった。ハルのカクテルはいつでも完璧なのだから。ただちょっと、飲めないカクテルへの負け惜しみで言ってみただけだ。ハルはもちろん、シュウのそんな思惑もお見通しだろう。

「過去の夢の中へ入るには、すこし強めの魔法が必要だからね」

 ハルは遠い場所を眺めるように瞳を浮かせて付け加えた。シュウをなだめる為のさりげない解説でもある。

「へぇ」

 過去の夢、今日の客はそんな場所へ行ったのか。シュウは妙に納得して素直に頷いた。

「なにが綴じられていたの?」

 その問いにハルはふわりと微笑む。店内の止まった空気が、和やかに揺らいだ気がした。

「キール、綴じられた言葉は、”最高のめぐり逢い”だよ」


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