Third Glass
ふらりと散歩に出かけたのだと思っていた。
宗助は黒く艶のある毛と伸びやかな体をしていた。にゃあと二回鳴くのは、エサの合図だ。
その宗助が帰ってこなくなった。当然、エサも出さない。こんなことは今まで一度も無かった。いくら気まぐれで気分屋だからと言っても、食事を抜いたことは無い。夜はいつも同じベッドで丸まって、夏でも冬でも一緒に眠った。
宗助はもうすぐ十歳になる。体は小さいが、遊ぶことが大好きでいつも体には葉っぱや蜘蛛の巣や、何かしらの冒険の跡を付けていた。面倒がらず遊び相手にもよくなってくれた。宗助が特に好きだったのは、ボール遊びだ。転がしたり、つついたり、時には持ったまま逃げてしまって追いかけたりすることもあった。ごろごろと喉を鳴らすと、愛しそうな両眼が見つめてくれた。
宗助が帰ってこなくなって、もう二日が立つ。
父親も母親も十年可愛がった宗助のことで頭がいっぱいのようだった。とても愛されているのだと思う。二人とも宗助以外はどうでもいいというように、自分はまるで見向きもされなかった。いまならいなくなっても気づかれないと思った。
開いたドアに忍び足で近づくと、するりと外へ抜け出した。あまりにも簡単に逃亡は成功し、とても解放された心地がして、冬枯れの木立の奥に広がる渇いた空を見上げた。
冷たい風が高いところで流れていく。雲が引っ張られて擦れ(かすれ)、どんどんちぎれていく。
前を向くと、夕暮れに差し掛かった道の先には人の姿はまるでなかった。
宗助を探そう。
心に秘めた思いを遮るものはなにもないことを確認し、颯爽と足を踏み出した。
しかし捜索はすぐに暗礁に乗り上げた。とりあえず一緒に行ったことのある公園や土手や学校の校庭にはいなかった。他にどこを探せばいいのだろう。人の多い場所に行けばいいのか、少ない場所に行けばいいのかもわからない。あまりうろうろしていて誰かに声を掛けられたりしても面倒だった。
そういえばお腹を空かせているかもしれない、と思った。宗助は二日も帰ってきていないのだ。もしかしたらどこかでご飯を食べさせてもらっているかもしれない。宗助は食べることが好きだった。好き嫌いは多かったが、食べているときは本当に幸せそうな表情をしていた。宗助の隣で食事をしながら、その満足そうに口の周りを拭う姿を見ているだけで満腹になったような気がしたものだ。
それならば飲食店のある方向へ行ったほうがいいのかもしれない。
そう思い立つと、向かう先を定め、身軽に駆け出した。
辺りは鬱蒼と闇が落ち始めていた。冬の夜は早くて長い。月は白く煌々と光を放ち、雲の影が空より黒く不気味な影を蠢かせながら流れていった。
風が強くなり、冷えたアスファルトから足先が凍り始める。宗助はなかなか見つからない。
こんなに暗くなってしまっては、今日はもう探せないかもしれない。
とぼとぼと歩きながら、一旦引き返そうかと考えた時だった。見上げた先の路地の奥に、光が見えた。ぼんやりと淡く輝いて浮かび上がる扉だった。
夜の心細さに、街燈に群がる羽虫のように無意識に引き寄せられる。
把手に触れた。その瞬間、
ぽちゃん、とコップいっぱいに満ちて膨らんだ水の表面に、一滴の雫が落ちるような音がして、扉が開いた。
オレンジ色の間接照明。けして目を刺すようなけばけばしい光ではないが、闇の中で広がっていた瞳孔がきゅっと縮まるように反応して、目が眩んだ。
「ハル、お客さん」
しばらく突っ立ったまま動けずにいると、一番手前のスツールに腰掛けていた子供が店の奥に向かって声を掛けた。小さな男の子だ。五歳くらいだろうか。スツールから高く足を浮かせて時折ぷらぷら膝を動かしている。ふとその足元へ視線を落とすと、床にはスツールの影以外に揺れる陰影はなにも見当たらなかった。
「いらっしゃいませ」
近づいてきたのは中学生か高校生かと思われる少年だった。最近はこんなに若い子供が店をやっているのだろうか。
訝しみながらも、勧められるままに席に着いた。
ハルと呼ばれた少年は、碧い水晶みたいに透きとおった瞳をしていた。宗助とは違い、薄い茶色の毛をしている。高級な猫みたいに見えた。
「今夜は風が冷たいですね」
窓もない店内で、どうしてそれが分かるのかと不思議に思った。彼は、なぜだか外には一歩も出ていないように見えた。外の気配というものが、まるでしない。
「何を召し上がりますか?」
ハルが訊いた。なにを、と問われても、そもそもなんの店だかも分からない。食べ物の匂いもしない。なにより、現実の匂いがしない。生活とか、雑音とか、そういったありふれたものの気配が皆無で、隔離された清潔な防音の箱の中にいるような気分だった。
非現実な空間に急に不安が湧き上がる。夢でも見ているのではないかと思えてくる。
目を白黒させながら黙っていると、ハルは幼子に童話を読み聞かせるような鷹揚さで告げた。
「僕はバーテンダーです。お客様にカクテルをお出しします。そこに一つだけ、魔法をまぜることができます」
「カクテル?魔法?」
カクテルは聞いたことがあった。確か酒のはずだ。父親が話しているのを聞いたことがある。しかし魔法とはどういうことだろう。それもなにか酒の一種なのだろうか。
困惑した表情を見て取って、ハルが柔和に微笑んだ。
「あなたの望む魔法を教えていただけますか」
「望む、魔法・・・」
そうだった。いったいなぜこんな場所にいるのか。宗助を探していたのだ。
当て所なく彷徨っていたら光が見えて、ここに行きついたのだ。探さなくてはいけない。
早く見つけないと、二度と会えなくなってしまうかもしれない。
突如押し寄せた言いようのない焦燥感に、思わず声が上擦った。
自分はこんな声をしていただろうか。こんな話し方をしていただろうか。それすら混乱の渦中に埋もれながら、あの日を思い出していた。
二日前。宗助がいなくなる直前だ。父親と母親が部屋に来て、代わる代わる忙しそうに行きかいながら、大きな鞄に服やらタオルやら洗面用具やらを詰めていた。旅行でも行くのだろうか。それにしては表情は沈み雰囲気は殺伐としている。宗助は黙ってそれを見ていた。
僕は旅行には一緒に連れて行ってもらえるのかな、などと暢気に考えていた。
田舎へ帰るときはいつも連れて行ってもらえたが、旅行の時は大抵置いてきぼりにされた。二日くらいなら大丈夫よね、なんて言いながらご飯を用意するのは母親だった。少し非難めいた視線を向けると、「あら怒ってるみたい」と言って楽しそうに微笑った。
宗助は悄然として元気がない。なにかを悟っているようだった。
僕は宗助に擦り寄って、視線だけで「大丈夫?」と訊いた。
宗助は大きな瞳で僕の瞳を覗き込むと、同じく視線で「すぐに帰ってくるよ」と返した。そのときは、なぜ宗助がそう伝えたのかは分からなかった。しかし、そのあとすぐに宗助はいなくなった。
旅行に行ったとばかり思っていた両親は、その日のうちに戻ってきた。宗助は連れずに。大きな荷物も無かった。声を潜めて話している会話に聞き耳を立て、こっそり拾う。
手術がどうの、日程がどうの、という単語が途切れ途切れに聞こえる。
まったく意味がわからない。ただ宗助がいなくなった。それだけだった。
僕は宗助が五歳の時から一緒にいる。それから何をするにもどこへ行くにも一緒だった。僕は宗助が大好きだった。冒険が好きで、食べることが好きで、気軽に遊んでくれる宗助。
あまり外へは行けない僕にとって、唯一の親友だった。外へ出ると車に轢かれたり病気を貰ったりするから、などと母親が心配して、極力出ないようにされていた。
それでも宗助と一緒の時は時折外でも遊んだ。そのときばかりは二人とも日が暮れてくたくたになるまで走り回った。だけどきまってその後で、宗助は具合が悪くなった。心臓が弱いらしい。
僕は母親にきつく叱られた。夢中になると、僕も宗助もそんなこといつもすっかり忘れてしまう。そしてその後は、また外へは出して貰えなくなった。
宗助がいないと外には出られない。宗助はいつも僕を守ってくれているみたいに傍にいた。車から、病気から、退屈や絶望からも。だから僕も宗助を守ろうと決めていた。
いつも傍にいて、宗助が困っていたらどこにだって駆け付けようと誓っていた。
それなのに、宗助は一人でどこかへ行ってしまった。
いま、いったいどこにいるのだろう。なぜ僕を置いていってしまったのだろう。
もう僕を守ってくれないのだろうか。守らせてはくれないのだろうか。
もう僕は、必要ないのだろうか。
暗澹とした気持ちで思考を閉じて、ぴかぴかに磨かれたテーブルに視線をおとした。濡れたような艶やかな琥珀色。宗助の瞳の色に似ていた。
ふとそこにぼんやりと移り込んでいる瞳と目が合った。左が金、右が青みを帯びた碧。これは、誰の瞳だっただろう。何だか不自然に肌の色も白い気がする。照明のせいだろうか。
「魔法を、承りました」
降ってきた声に我に返って顔を上げた。ハルが、静かに微笑んでいる。
なにか注文しただろうか。いや、なににしてもここで出されるものはおそらく口にできない。
「あの、僕はお酒は飲めなくて。それに他にも口にしてはいけないものが多くて」
慌てて言い淀みながら言い訳をした。聞きなれない声だった。太くて落ち着いた、まるで大人の男のような声に自分で狼狽えた。なぜこんな声が出るんだろう。それになぜ、こんなに言葉がすらすら話せるんだろう。
ハルはなぜ僕を見て、平然としているのだろう。
ハルはそっと表情を緩めて、持ち手の付いた胴の広い透明なグラスを取りだした。しっかりと厚みのある、丸っこいグラスだった。
そしてなめらかな手つきで次々と材料を取り出していく。一体どこにしまってあったのか、まるで手の内から零れ出てくるようにハルの目の前に揃っていく。
いつしかカウンターの内からは甘い香りが漂い始めていた。あたたかい温度を含んだ、濃厚で優しい香り。それは店内の照明の色と絡まり合って、丸いお湯のように辺りを満たしていく。
やがてハルはグラスに移したクリーム色の液体をコースターに載せて、僕の目の前に滑らせた。
「どうぞ一夜の魔法の夢を。”エッグノッグ”です」
顔を寄せなくても芳しい香りが鼻孔を通り体中に駆け巡った。うっすらとミルク色の湯気が立ち昇り、その表面は生みたての卵のように滑らかで丸みがあった。
しかしどんなにいい香りがしていても、酒は飲めない。
僕はもう一度断ろうと決心して顔を上げた。
しかしその心を見透かしたように、ハルの落ち着いた声が柔らかに覆い被さる。
「このカクテルはあなたの為の特別調合です。安心してお召し上がりください」
言われて、僕は再度グラスに視線を落とした。酒は入っていないという意味なのだろう。
やや緊張を解く時間を置いてから、グラスを持ち上げた。そういえば僕の手はこんな形だっただろうか。こんなにも簡単に、把手を掴めるような手をしていただろうか。
戸惑いながらも、もはや動いた手は止まらなかった。そのまま引き寄せられるようにグラスに口をつけた。あたたかく濃密な香りを凝縮した液体が、ゆっくりと喉を伝い落ちていく。
僕はいつのまにかあの店ではなく知らない場所に立っていた。
甘い香りはどこにも残っていなくて、鼻を刺すような消毒液の匂いが充満している。
オレンジ色のやわらかい間接照明は消え、白々とした無機質な蛍光灯の光が廊下の隅々まで照らし出していた。行きかう音はせわしなく、金属の鳴る音や人の話し声で雑然としている。
僕は辺りを見回した。ここはどこだろうか。考えながら、歩き始める。
とても大きな建物のようだ、学校よりも広い。いくつも部屋があって、ベッドが並んでいた。そのベッドには、子供たちばかりが寝ていて、学校の宿泊施設かなにかかと思ったが、誰もが腕に細い管を通した針を刺している。僕はなんだか恐ろしくなって、足早に進んだ。
そのとき、見知った顔を見つけて立ち止まった。父親と母親だ。そういえば勝手に家を抜け出してしまっていた。急に二人に会うことに臆した気持ちになり、廊下の曲がり角に体を隠してこっそり様子を観察した。
二人とも顔色が悪く、幾分やつれているように見えた。疲れがはっきりと頬にも手足にも影を落とし、取り囲む空気を澱ませている。やがて一つの部屋の前で立ち止まると、一呼吸おいて顔を見合わせ、不自然に明るい笑顔を張り付かせて入っていった。
すぐに中から声が聞こえてくる。僕はそっとその部屋へ近づいた。
そして、突然の落雷に打ち据えられたように硬直して息を飲んだ。
宗助がいた。
他の子どもたちと同じように、腕に管のついた針を刺して、パジャマを着ている。柔らかな頬は少しやせて、蒼白い色をしていた。
僕は声が出なかった。再会の感動と、そのいでたちを見た衝撃と、どうしても飲み下せない疑問。あらゆる情動が出口を求めて頭の中を飛びまわり、ぶつかり合ってこだましていた。
宗助に何があったのだろう。なぜこんな所にいるのだろう。なぜ痩せてしまったのだろう。なぜ僕のところに帰らないのだろう。なぜ、なぜ。
そればかりが回り続ける駒のように繰り返された。
両親とたわいない会話を交わして楽しそうに笑っている宗助は、いつもと変わりなく見えた。
屈託なく、天真爛漫で、無垢な宗助。だけど自由気ままに冒険の旅に出て、美味しそうに食べ物を頬張って、僕と日が暮れるまで走り回った宗助は、もういない。
もう二度と帰ってこないのだと、分かった。
この白くて固い、大きな巣箱のような建物の中から、出られることはないのだと分かってしまった。
すぐに帰ってくるよ、そう伝えた宗助は、もう帰れないことを知っていた。
僕は、宗助が帰らないことを本当はわかっていた。
もうずっと前から、宗助は重い病気だった。
家の中は、ほんの小さな物音さえそれに触れないように気をつかっていた。常に薄紙の上を踏み抜かないような生活に、神経が張り巡らされていた。
テレビ番組も、学校も、近所を歩くことさえ、いつの間にか制限の輪が徐々に狭まり、収まりきらずにその輪の外へ樹液のように不穏に沁み出していた。
宗助は、とっくに自由ではなかった。家にいても、ここにいるのと同じくらい窮屈で、狭い輪の中だけが彼の世界になっていた。
あののびやかな手も足も、もうどこにも伸ばせない。宗助の壊れた心臓が、父も母も、友達も先生も、僕でさえ手の届かないところに追いやった。
部屋の中から笑い声が聞こえてくる。取り繕った見せかけの笑顔が行き交う。泣きたいくらい滑稽で、悲しいほど純粋で、胸の中がきゅうっと押し潰されて切なくなる。
ゼンマイ人形みたいだと思った。捲いた螺子の長さしか動くことのできない、可哀そうな人形。はじめは早くて軽快で、そのうち速度を落として徐々にゆっくりと止まっていく。
宗助の心臓のように。
宗助の捲かれたゼンマイは、いまどのくらい進んでいるのだろう。あとどのくらい、残っているのだろう。
懸命に両親を気遣って見せる笑顔が目に浮かぶ。その琥珀色の瞳は、どれほどの苦しみを押し殺し、小さな胸を傷つけているのだろう。
宗助は一緒に眠るベッドの中で、僕にだけはほんの少し弱音を零した。聡明な彼は、僕が言葉をわかると知っているかのように、遠慮がちに打ち明けた。たぶん表情を読まれると思っていたのだろう。喜びや悲しみは、動物には言葉以上に明瞭に伝導する。
「僕の心臓はね、少しずつ弱くなっていくんだって。電池が切れていくみたいに、もう戻ることはないんだって。電池って、全部切れたらどうなるのかな」
僕はこたえられずに小さく鳴いた。宗助の温かくて細い腕が、僕の体の上に乗る。その腕はとても軽くて、震えていた。
「お父さんもお母さんも好きだけど、僕がいつも一緒にいたいのは君だよ。僕が病気になっても変わらないでいてくれるのは、君だけだから」
僕は宗助の腕に顔を擦り付けた。髭が擦れてくすぐったかった。それでも構わず何度も何度も頭を揺らした。宗助が笑いだすまで、何度でもそうした。
とうとう宗助はたまりかねて吹き出した。くすぐったいよ、と言って僕を抱き寄せて頭の動きを封じた。宗助の心臓の音が聞こえてくる。壊れ始めた心臓の、規則正しい綺麗な音。薄い胸の奥で、確かに宗助を生かしている音。
「あったかいね」
宗助が僕の背中に鼻を押し付けて目を閉じた。毛皮の向こうに小さな息遣いを感じ、そこに繋がっている命を感じ、僕は宗助と繋がっていると感じる。
宗助の命と、僕の命は繋がっている。
僕の心臓の音と、宗助の心臓の音が和音のように重なって一つの旋律を奏でる。
僕たちは、二人で一つの心臓を共有して生きているんだ。
やがて宗助の息がゆっくりと整い始める。
僕の背中を抱いたまま、安らかな寝息を立てている。
僕は、宗助をずっと守ると決めている。
部屋からの和やかな話し声が止み、しばらくして両親がドアから姿を現した。
部屋の方を向き直ると、また明日来るから、といってぎこちない笑顔を浮かべる。もう、完璧な笑顔をつくる材料は底を尽きているのだろう。擬装と疲労と悲哀が、メビウスの輪のようにちらちらと絵を変えて巡っていた。
僕はその後ろ姿を見送って、そっと廊下を歩きだした。
宗助の部屋に向かって、一歩一歩大切に踏みしめるように進んだ。
薄いクリーム色の、スライド式のドアの前に立った。右上の表札には、宗助の名前が書かれている。間違いなく、宗助がここにいる。さっき見た、痩せて顔色が悪くて、腕に針を刺した宗助が。
ドアに手を掛けた瞬間、僕の心臓が激しく打ち始めた。胸から飛び出してきそうなほどに、背中を通り過ぎていく誰かに聞こえてしまいそうなほどに、鈍く重い音でずんずんと鳴り響き、体の周りが自分の心音に取り囲まれる。
このドアを開けたら宗助に会える。あれほど会いたかった宗助がすぐそこにいる。
しかし会うのが怖かった。なにかを決定的に認めなければ、その先には行かれないことが分かっていた。
この期に及んで、僕は臆病者になっていた。宗助はあんなにも簡潔に、率直に、運命を受けいれていたというのに。
何度もドアに掛けた手を引っ込めた。逡巡して、鼓舞して、また惰弱した。
こんなにも長い間不審な動きで突っ立っている僕に、誰も目もくれず声もかけてこなかった。僕はそのせいで、思うままにさんざん躊躇を繰り返した。
どれくらい時間が経ったのだろう。もう辺りに人影はひとつも見えなくなった。廊下にいても、外が草木も眠るほどの静けさに包まれたことが分かった。白い廊下の照明が、何段階にも色を落として薄い青色に染まった。
まるで水の中のように、空気も音も止まっていた。
「だれ?」
部屋の中から声がした。ほんの小さな呟きのはずが、まるで耳元で囁かれたように克明に鼓膜を震わせた。
宗助の声。間違いなく僕に向けられた、愛しい声。
僕は乱れそうになる息を整え、ゆっくりドアを開けた。
こちらを見つめていた宗助と、すぐに目が合った。濡れたような琥珀色の、大きな瞳。いつも僕を見つめてくれる瞳。
僕は心臓と同じくらい荒ぶる息を整え、出来るだけ静かにベッドに近づいた。
たぶん僕の姿は、宗助が知っている僕ではない。びっくりさせたり、怯えさせたりしたくはなかった。害がないということを、この短い距離で証明しなければならない。
しかし宗助はその様子を夕凪のように静かな眼差しで見つめていた。声を上げることも、身を引くことも無かった。
僕はベッドの真横に立った。宗助が穏やかに僕を見上げる。視線がぶつかった。
「クロだね」
懐かしむような、慈しむような、泣きそうな笑顔が宗助の顔に広がった。
僕の目は、金色と青みを帯びた碧。黒猫によくあるオッドアイだ。人間にはついぞ見当たらない。でもそれがなかったとしても、宗助には僕が分かったんだと思う。僕が宗助を間違えないように、宗助も僕を間違えない。僕たちの心臓は、繋がっている。
「そんなにおじさんだったんだ」
宗助が笑顔を向けた。濃く影を差す頬が、僅かに明るい色を宿す。
「猫の一年は人間よりずっと早いんだ。じつは一年目でもう君の年齢をとっくに追い抜いていたんだよ」
僕は負けじと笑顔を浮かべた。上出来だったと思う。宗助の顔に、さらにあたたかい色味が映った。
「じゃあ僕が心配することはなかったんだね」
心から安堵している声だった。
僕は心の内側を掴まれたように切なくなる。
宗助はどうしてまだ僕の心配をしているのだろう。心臓が壊れて苦しいのは宗助なのに、僕の心配なんてする必要がどこにあるのだろう。
僕が何も言えないでいると、宗助はふと表情を緩めた。心電図を計る装置の規則的な音だけが、沈黙の間を埋めていく。
「話をしよう」
宗助が隅に畳まれていた折椅子を指した。僕はそれを広げて枕元に座る。
残された時間が少ないことを、僕たちはわかっていた。宗助の心臓は、僕の心臓だから。
僕はなるべく宗助に負担がかからないように、横になるように言った。宗助は素直にそれに頷いて、白い枕に小さな頭を沈めながら、顔を向けた。
「ねえ、なにから話そうか」
僕たちはもう共犯者だ。同じ時間を生きるために、何かから、何ものからも逃げている。
僕は捨てられた猫だった。真っ黒で、血統書も無い雑種の黒猫で、それだけで不吉だと追い出された。
生まれる先など選べない。姿も運命も前もって教えてもらえない。
僕は生まれて数日で行く末を呪った。毛の長い、いい匂いのする猫が、温かい部屋で上等な餌を与えられる中、僕は道端の段ボールの中で変色した新聞紙を齧っていた。
生まれてからいいことなんて一つも無くて、これから先もけしてないのだと確信できた。
雨が降ると、段ボールが湿ってぶよぶよと気持ち悪く纏わりついた。変な臭いもして、薄汚い僕は誰からも見向きもされなかった。空腹でめまいがして、喉が渇いて雨水を啜った。
寒くて丸まっているのに、ちっとも温かくならなかった。もう体を温める力なんて、どこにも残っていなかった。
雨が止んでふと空を見上げると、こびりついた目やにの向こうに、視界を埋め尽くす広大な青空が見えた。こんな景色を最後に見られるなら、まあいいかと投げやりな気持ちが湧いた。
僕は力を抜いて前足を重ねて顎をのせた。目を閉じて、同時に耳を閉じて外界のすべてを遮断した。
もういつ迎えが来てもいいころだ。
そのとき、ふわりと全身に何かやわらかいものが被さる感触がした。そして、すぐさまその感触と共に体が宙に浮き、持ち上げられる。
僕は閉じた目を開いた。くっきりと青い空と、すぐ間近に僕を見つめる瞳が目に入った。
澄んだ琥珀色の瞳。その主は、両腕にしっかりと僕を抱き、顔を寄せて囁いた。
「大丈夫。僕が助けてあげるから」
その日から、僕は宗助の猫になった。
僕は”クロ”と名付けられた。もちろん全身真っ黒な黒猫だからだ。随分安直だなとも思ったが、宗助は五歳になったばかりだ。妥当なところだと承服した。
宗助は非の打ち所の無い飼い主だった。遊んでくれるし、約束は守るし、けして怒らない。
善良を絵にかいたような子供だった。両親からもふんだんに愛されていた。ひねたところなど一つも無かった。僕を飼うことにそこそこに反対し異を並べた両親も、結局は宗助の主張を飲んだ。
宗助は愛され方を知っていたけれど、けしてそれを不当に振りかざし傲慢にふるまうようなことはしなかった。子供でありながら、どこか達観していて、全速力で年を重ねているような感じがした。やり残すことを少しでも減らすように、人の気持ちを汲むことを、逃さず達せられるように。宗助は子供だったが、大人よりも深い心眼を持っていた。
猫である僕は、一年も経てば成人と変わらない成長を遂げる。宗助の聡明さは誰よりも分かっていた。そして、それを無邪気さの中に隠して周囲を安心させていることも。
だから僕はいつも宗助の傍にいて、宗助の心に寄り添った。子供でいてもいいのだと、緊張から解放させたかった。
宗助は気づいていた。自分の心臓が、軋んだ音をたてて歪に崩れていくことに。
「学校に行こう」
宗助が七歳の時だった。本来ならランドセルを背負って週五日、勤め人のように学校に通うのだろう。だけど、しばしば通院やら入院が必要な宗助はそれが出来ない。いつも部屋で本を読んでいるか、ぼんやり窓の外を見ていた。その宗助が、朝起きるなり僕に宣言した。
おそらく昨日から、もしかしたらもっと前から計画を練っていたのかもしれない。
五月のある土曜日。父親と母親は、親類の結婚式とやらで朝からバタバタとしていた。披露宴には出ず、式だけで帰るという事で、午前中の二時間程度家を空けるらしい。宗助が、「寝ているから」といって、安心して出席するよう説き伏せたのだ。
両親は最後まで不安を滲ませながらも、義務感に駆られるまま、くどい申し送りを残して出掛けて行った。宗助は一つも不興な表情を見せることなく、見事穏便にそれを見送った。
玄関が閉まるや否や、すぐさまパジャマを脱ぎ捨て、外出用のパーカーとズボンに着替え、僕を振り返る。
「校舎に忍び込めるかな」
それは、かつて見ていた冒険者の輝く目だった。
学校までは歩いて二十分程度。土曜日の早朝。通学路となる道に歩く子供の姿はどこにもなかった。
宗助と僕は勇者一行のようにずんずん進んで行く。ライバルは誰もいない。抜け駆けして先にゴールしようとするものなど見当たらない。
のどかな雀の鳴き声と、遠くに車の排気音の群れが聞こえた。
「クロ」
宗助が、道沿いのコンクリート塀の上を歩く僕を見上げて言った。
「競争しようか」
琥珀色の瞳の表面に、悪戯めいて、挑戦的な色が浮かんでいた。言ったが先か、もう宗助は走り出していた。あ、という間も無く、その小さな背中がぐんぐん離れていく。
僕はいつの日かの追いかけっこを思い出して、心の隅に立てかけてあった枯れ木に火種を撒いた。
あっけなく火はついて、僕は駆け出した。笑いながら、息を弾ませながら。
全速力で走って、校門が見えた時、宗助に追いついた。宗助は僕を見て笑った。僕も笑った。これは真剣勝負だ。久しぶりの、宗助との真向対決だ。
心が湧きたち、心臓が踊った。宗助の心臓も踊っているのが分かった。
僕たちの心は一つだった。
耳元で風が流れていく音がする。景色が一足飛びに移り変わっていく。夢中で校門の前に着いたとき、宗助の姿はなかった。
僕は興奮の息をなだめながら、後ろを振り返った。
苦し気に胸を抑え、数歩後ろで宗助が倒れていた。
それから宗助は日に日に衰弱していった。
外出を固く禁じられ、部屋に閉じこもる日が増えた。
それでも宗助は素直で善良だった。不満めいたことも、誰かを非難することも、八つ当たりをすることもなかった。
安らかな瞳で、自分の運命を受け止めていた。
宗助が八歳になった時だった。誕生日のプレゼントに絵の具が贈られた。
油絵具だ。子供が使うような画材ではないが、宗助がどこからか知ってそれを望んだ。
もったりと濃い、重量をもった絵の具がパレットに広がった。
白い四つ切の画用紙に、宗助は下書きもせずに絵の具を置いていった。何層にも塗り重ねていった。
水彩ではこうはいかない。宗助がしたかったことは、油彩でしか表現できなかったのだ。
しかし、僕にも両親にもその絵の意味は分からなかった。はじめから意味などなかったのかもしれない。
塗り重ねられた油絵具は、無駄で美しくもなく、不透明で均整を崩す。
ただそれを証明したかっただけのように、無意味にちぐはぐに見えた。
宗助は九歳になった。相変わらずほとんど学校には行っていないが、穏やかで元気そうに見えた。外出は禁じられているが、庭には出られたので晴れた日はよく一緒にひなたぼっこを楽しんだ。レンギョウに囲われた庭の中、それが今の宗助の自由の輪のすべてだ。
宗助は日を追うごとに理知的になっていくように思えた。幼く無邪気な部分はそのままに、それとは別の枝が育っていて、もう一つの宗助の世界をたわわに作り上げていた。
両親や親族に見せるのは無邪気な枝で、僕に見せるのは理知的な枝の方だった。
分裂はしているけれど、根幹の部分は一緒だった。宗助はむしろ分裂を楽しんでいた。
「クロ、太陽があったかいね」
瞼を閉じて、両腕を広げながら陽の光を全身に受け止めるようにして言った。
「君はまるで、僕の影みたいだね」
宗助の影に入るように佇んでいた僕は、どきりとして体を起こした。
宗助が振り返って、影の形が変わる。僕はぴったり隠れるように場所を移動してまたとどまった。僕たちの影はまるきり一つに重なり、僕のビー玉のような瞳だけが浮かび上がる。
宗助は満足そうに、首を少しもたげて微笑った。
十歳になったばかりの頃、畏れていた発作が起こった。
それはあまりにも突然で、必然的で、誰もが驚き、誰もが受け止めた。
とうとう来たか、そんな感じだったと思う。
救急車が近づいて来る音を聞きながら、母親に背中をさすられて倒れている宗助は苦しそうに顔を歪めていた。胸を抑えたまま、うっすらと目を開ける。
顔の前に座っている僕を見た。胸のあたりのシャツを握り締める指先が、白く色を失くしていた。唇も、白を通り越して青みを帯びていた。
宗助は母でもなく父でもなく僕を見て、
「クロ・・・」
僕の名前を呼んだ。
十日間の入院だった。たくさんの検査をするための入院で、次の入院のための準備でもあった。
宗助に会えない間、僕はずっと宗助の部屋にいた。宗助のベッドで眠った。ここにきてから毎日そうしてきたように、一つも間違うことなく繰り返した。そうすれば、宗助が帰ってきた時に少しもずれることなく時間が繋げられると信じていた。綻びもひび割れも無い、なだらかな道の上に、宗助を戻してやれると思っていた。
だけど宗助はもうその道には乗らなかった。
一人で別の道へ歩いていってしまった。もうすぐ途切れて暗闇に落っこちる、短い道へ。
僕は宗助を想った。初めて会った日からのことを思い返した。
僕を拾ってくれた時、濡れて醜い僕を抱いてくれた時、宗助は大きな父親のようだった。
そのうち兄のようになり、友達のようになり、弟のようになり、子供のようになった。
どの宗助も愛しかった。守ってもらった分、守りたいと思った。愛してくれた分、愛したいと思った。宗助なしではとても生きていけない。宗助だけが、僕の世界のすべてだった。
「クロ」
現実のベッドに身を横たえる宗助が、僕を見上げた。痩せて、針を刺して、不自由な宗助。
僕は意識を引き戻し、向けられた声に応える。
「なんだい?」
宗助は目を細めて笑った。風も無いのに、白いカーテンが揺れた気がした。
「いま、僕と同じところにいたよね」
宗助が言っていることが、合わせ鏡のようにぴたりとわかった。僕の追憶と宗助のそれは、抜きつ抜かれつ縺れ合いながら、同じ場所に辿り着いている。
「もうすぐ僕はクロの孫になるのかな」
声には邪気の無い揶揄が含まれていた。面白がっているのが分かった。
「それはまだ、もうちょっと先だよ」
僕は応戦する。宗助と、また追いかけっこを楽しみたい。
規則的な電子音が、少し人間じみて聞こえた。
「クロがおじいさんになったら、シロになるね」
宗助が笑いを噛み殺すように喉の奥を震わせた。
「僕の毛は黒いままさ。猫だからね」
僕は負けじと受けて立つ。多少毛艶はくすむかもしれないが、人間みたいに白くなったり毛量が減ったりはしない。いま、僕が一歩リードだ。
「クロは好きな子はいなかったの?結婚したいとか思わなかった?」
突然カーブする。僕は慌てて体勢を立て直して追いかけた。また一歩置いていかれる。宗助は本当に有能な選手だ。
「そんな子はいなかったよ」
宗助は?と言いそうになって、慌てて質問を飲み込んだ。宗助は僕をじっと見つめる。
僕の思ったことは、声にならなくても全部伝わってしまう。
「クロの時間を、僕に縛り付けてしまったよね。お嫁さんに会う時間を奪っちゃったかな」
「まだ機会はあるよ」
そんな気はまったくなかったが、宗助があまりに寂しそうに微笑むので、思わず言ってしまった。僕は宗助さえいれば良かったから、お嫁さんなんて一度も考えたことはない。
「もしクロに子供が生まれたら、僕が名前を付けるよ」
また飛躍する。一歩前に出たと思ったらまた抜かされて、まさにデッドヒートだ。僕の心は心地よい疲労感で満たされる。
「いいけど、全員クロにはしないでほしいな」
生まれた子がみんな黒い毛だったら、何と名付けるのだろう。宗助ならそれはそれは相応しい名前を思いついてくれそうだが、逆に面白がって全部クロと名付けるなんてことも平然とやってのけそうな気もする。
「でも僕は、クロの子供は見られない」
宗助は渇いた小さな唇に、僅かに微笑を浮かべた。突然、すべての道にぴしゃりとドアが立てかけられたように、身動きが取れなくなる。
「ほんとならクロが先におじいちゃんになって、僕が看取ってあげるはずだったんだよね。そうしたら、僕はクロと同じお墓に入ろうと思ってた」
素直で正直で、真剣な言葉。でもその言葉の奥にある闇と重圧が僕の心を沈めていく。
追いかけっこは、きっと宗助の勝ちだ。
それきり口を噤んだ僕に、宗助は無邪気な笑顔を向けた。
蒼白い顔にかさかさに色を失くしたくちびる。琥珀色の瞳だけが、独立して生き生きと輝いていた。
「クロ、髪を触らせて」
言われて、僕は椅子から降りて床に膝を付いた。顔を枕元に近づける。
宗助はシーツからゆっくり腕を出すと、僕の髪へ手を伸ばした。
薄い水色の、長袖のパジャマの腕が、布越しでもひどく細いと分かった。袖口から覗いた白い手首には青い静脈がくっきりと浮かび、指ではじけば粉々に砕けそうなくらい儚く見えた。
宗助の細い指が髪の間に差し込まれる。優しく、愛おしむようにゆっくりと撫でる動きに、僕は目を閉じた。全身で、全神経を研ぎ澄ましてそれを感じとった。ほんのひとかけでも零してしまわないように、慎重に、繊細に宗助を僕の中に刻みたかった。
「まるで雲を触ってるみたいだ」
宗助はうっとりと目を閉じる。
僕は感動に押し潰されて息が出来なくなる。
宗助に触ってもらえる幸せ。そして宗助を幸福にできることの幸福。僕はいま、世界中で一番幸福な猫だ。
電子音が、まるで人間の声みたいに早くなったり遅くなったりしている。正確な機械がこんな動作をするだろうか。僕はちらりとモニターの画面を見た。たくさんの緑の三角が、高くなったり低くなったり低地になったり、忙しなく動いている。
「あまり時間は掛けられないんだ」
宗助の声にかすれた吐息がまざる。髪に触れていた手が、重力に任せて力なくベッドの上に落ちた。
「宗助?」
僕は宗助の顔を覗き込んだ。
「邪魔をされたくないから。僕はクロだけにみていてもらいたい」
「みてるよ。いつも君を守ってる。僕たちは、そうやって一緒にいたんだから」
そのときが近づいているのを感じた。心臓は体中に跳ね返るくらいばくばくと煩く鳴っているのに、頭の中は冷たく静まっていた。
「・・・待ってたんだよ、クロ。君が来てくれるのを待ってた。君に会えたら、いこうと決めてたんだ」
「僕たちの間には、生も死も関係ない。君がいくところが、僕がいるところだ」
僕は宗助の手を握ってきっぱりと言った。冷たくて細くて小さな手。それを両手ですっぽりと覆い、僕は宗助を見つめた。生きている宗助のすべてを、ぜったいに見逃しはしない。
宗助は僕の瞳の中で、ゆるく微笑んだ。その微笑みが、白く透けていく。
部屋の中は宇宙のような静寂に包まれ、緑の三角も消えた。動くものも鳴るものも何もなかった。宗助のゼンマイは、切れた。
違う。
宗助は、自分でゼンマイをゼロにした。
乱れた機械の記録に気づいて、医師や看護士が飛んでくる前に、自分で止めた。
僕に、僕だけに見守られて逝くために。僕以外に、その瞬間をけして見せないために。
僕だけが、宗助の最期の生の瞬間を、貰ったのだ。
僕は宗助の小さな顔を見つめ、瞼を閉じた。
繋げなければ。
僕たちの道を、なだらかに。
起伏も穴ぼこもなく、すんなり戻れるように。
「宗助」
僕は呼んだ。少し先を歩いていた宗助が振り返った。
やれやれというような、それでいてすっかりお見通しだったというような、ひどく理知的な笑顔が零れる。僕だけが知っている宗助の笑顔。
僕は全身をバネみたいに使って駆け出した。前足も後ろ足もこれでもかと全速力で動かす。そして目の前に広げられた腕の中に、勢いをつけて飛び込んだ。
あたたかい両手が、しっかりと僕を抱きかかえる。
真っ直ぐに伸びた僕たちの道が、宗助の肩越しに見えた。
医師たちが駆け付けた時、静かに息を引き取った宗助の腕の中には、艶やかな黒猫が寄り添うように抱かれ、その小さな心臓は止まっていた。
まるで幸福な夢の中で眠っているかのように、二つの命は安らかな表情で、幸せそうに並んでいた。
店の灯りが落ちる。今日の客が望みを終えたのだ。
シュウが指定席のスツールから身軽に降りるとハルの前の席に座った。
ハルがグラスを手に取り片付け始める。
「ハル、そのカクテルお酒入ってないんでしょ。僕も飲んでみたい」
ハルは洗ったグラスを丁寧に拭きながら微笑んだ。
「もちろん」
ハルの指先にあたたかな火が灯る。材料はその手の中でいつの間にか温められていく。
魔法の火は本物よりも少し色が薄いと思う。まるで雨垂れの窓の向こうで燃えているように、薄ぼんやりと滲んで見える。
華奢で綺麗なハルの指が、グラスをとって出来上がった液体を注ぐ。ぽってりとしたクリーム色の、ホットカクテルだ。
あまく色づく香りが、鼻孔だけでなく心まで甘やかにくすぐる。
シュウは形だけ息を吹きかける真似をして、一口啜った。やけどなんてするはずはない。ハルのカクテルはいつでも完璧なオリジナルだ。口にする相手にとって、間違いなく最上の状態で提供される。
思った通り、心に染み入るあたたかさと濃密な甘み。血管の一本一本をやわらかに膨らませていくみたいに幸せが駆け巡る。
「僕、これ好き」
たしかエッグノッグと呼んでいた。卵と牛乳と砂糖の、シンプルだけど絶妙に深みのある
味わい。微笑んだハルの腕が伸びてきて、シュウのくちびるの端を人差し指の背で優しく
拭った。
シュウは恥ずかしくなって俯く。子供みたいに口についていたようだ。これだから牛乳は、と少し恨めしく思いながらも、やっぱりグラスに手が伸びる。この甘美な誘惑を全身が欲していた。
「これにはなにが綴じられているの?」
気恥ずかしさを散らすようにシュウは問い掛けた。
今日の客はその後どうなったのだろう。こんなに幸せなカクテルを飲んだのだから、きっととても幸福になったのだろうな、と漠然と想像を巡らせた。
シュウには客のその後はわからない。知っているのはハルだけだ。
聞けば教えてくれるが、自分から語ってくれることはない。
それが、人が定義するところの幸福ばかりではないことを、ハルは知っている。
だからハルのカクテルは、いつも目の前の客の為だけのオリジナルなのだ。
ハルは蝋燭の火を吹き消すようにひそやかに微笑った。シュウにはなんだかその意味が、わかったような気がした。
「エッグノッグ、綴じられた言葉は、″守護″」
シュウはその言葉を、胸の奥に刻み付けた。




