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魔法使いのBar  作者: 宵待
2/6

Second Glass

 秋。空は高く空気は軽やかに乾いて、そして僅かにひやりと肌を刺す冬の気配を匂わせる季節。

 昼間の温もりに気を許すと、陽が落ちた頃に突如色を変える凍えた息吹に取り囲まれ、戸惑いと共に途方に暮れる。

 秋は、季節を急ぐように夏と冬を繋ぎ、入れ替える。

 シュウはカウンターのスツールでいつものように足を揺らしていた。

 入り口近くの、カウンターが湾曲した部分にある一席、そこがシュウの指定席だ。

 シュウはカウンターに両肘をつき、内側でグラスを磨いているハルを眺めた。

 磨かれたグラスにハルの碧い瞳が宝石の影のように映っている。一つ一つ、丁寧に拭き上げては棚に戻していく。

 シュウはその光景を見るのが好きだった。正確にはハルの手の動きを見ているのが。

 ハルの手は魔法の手だ。指が長くて綺麗で、しなやかで優しい。

その手で、ハルはカクテルに魔法を掛ける。美しい魔法使いの手。

やがてすべてのグラスを磨き終えると、ハルはシュウを見た。なにも言わなくても、思っていることは分かる。

「今日は閉店?」

 シュウはハルの視線をとらえて確認した。ハルは微笑んで頷く。

 その瞬間、灯りが一つ暗くなった。

「なにかつくろうか?」

 外の扉はすでにどこからも隠れている。今夜はもう誰も訪れることはない。

ハルの問いかけに、シュウは身軽にスツールから飛び降り、即答した。

「じゃああれ、ハルがはじめて作ってくれたやつ」

 ハルは時々シュウにもカクテルを作ってくれる。こんな風に、客がいなくて、夜が長い日に。もちろんアルコールは入っていない。しかしそれは、どれも夢のように美味しくて、シュウはいつもその味に酔いしれる。

 なかでも一番のお気に入りがある。一番思い入れと思い出があるといってもいい。

普段はその特別観を無駄使いしたくなくてあまり注文しないが、なんだか今夜は無性にそれが飲みたかった。

 秋の温度を感じたせいかもしれない。

 ハルと初めて会った日の、カクテルだ。

「了解」

 ハルは快くこたえると、足の細い、グラス部分が丸みを帯びたソーサー型のシャンパングラスを手に取った。

 ちゃんと、どのカクテルのことを言っているかわかってくれている。

 シュウは嬉しくなってハルの目の前の席に飛び乗ってその所作を眺めた。

 一つの澱みもなく、流れるようにハルの手が動く。

 オレンジの果実でグラスの縁を湿らせ、そこに大粒の砂糖の結晶をまぶす。そして、多めにシロップを加えたライムジュースとオレンジジュース、グレープフルーツジュースを凍らせておいたものを氷と一緒にブレンダーにいれた。

ハルのカクテルは、その時々で作り方が変わる。見え方が変わる、と言った方がいいのかもしれない。

カクテルの完成系は同じだが、その工程の映り方が変化する。道具を使っているようなときもあるし、完全に異空間で作業しているような時もある。実際にハルがどうやって作っているのか、目で見ている光景が真実なのかどうかも分からない。

しかしいつだってハルの動きは美しいし、カクテルは完璧だ。

今日もシュウの好み通り、オレンジを多めに加えてくれている。小気味いい音をたて、それらは混ざりあい雪のように細かく折り重なって、なめらかなシャーベット状に砕かれる。

 ハルはそれをゆっくりとグラスに注ぐと、サービスとばかりにグラスにオレンジのくし切りを一片飾った。本来ならライムの輪切りを飾るところだが、シュウの為のオリジナルだ。

 シュウはそれをみると、いつも誇らしいようなこそばゆいような、気持がふわふわと浮き足立つ心地に包まれる。まるで高層から放られた紙飛行機みたいに、自由で放埓な気分になる。

 ハルは一つも省略することなく、客に出すのと同じ要領でコースターに載せたグラスをシュウの前に差し出した。

「どうぞ、フローズンマルガリータです」

「ありがとう」

 シュウは飛び切りの笑顔を向けると、グラスを引き寄せた。グラスは冷えて霧のように細かな水滴で凍っている。それが手の中でしっとりと溶けて指先から沁み入った。

 懐かしい感触に目をそばめる。

 あの日も、こうしてハルの作ってくれたカクテルを飲んだ。

 美しい甘い結晶の輝きを見つめ、シュウは喉を滑り落ちる快感に陶酔した。


 

シュウは五歳になる。

 柔らかな黒髪に栗色の瞳、子供らしくうっすらと紅を差す滑らかな頬。そして小鳥のように愛らしく良く動く唇。

 シュウは五歳の姿のまま、何年もティエラにいる。

 ハルの魔法で、この世にいる。

 

 

白くひんやりとした、ヨーグルトみたいな心地よい弾力の夜気が吸い付いてくる夜だった。

なぜその扉に辿り着いたのだろう。

 カクテルなど飲みたかったわけではない。それ以前に、カクテルというものすら知らなかった。

 しかしいつの間にかその扉の前に立っていた。まるで内側から光と引力を帯びているかのように、不思議と引き寄せられていた。看板も照明も無い、中に何があるのかもわからない。

 それなのになぜか扉を開けることに躊躇いは無かった。

その前に立った瞬間から、その扉を見た瞬間から、言いようのない安心感に包まれていた。

 来るべき場所だったと、ようやくたどり着いたのだと、一つの疑いもなくそう思った。

 自分を待ってくれているのだと、揚々と心が高鳴った。

 把手は少し高い位置にあった。つま先立ちをして、ようやく触れた青銅の端っこをそっと下ろした。

 パチリ、という気持ちのいい音がした。ぴたりとパズルが合わさって、完成した時のような爽快な音だ。そのまま体重を乗せて扉を押した。

 橙色の灯りが優しく全身を包み込む。

 小さな両目で室内をぐるりと見回した。

長くて細いテーブルに足の高い椅子が七つ、テーブルの内側にはたくさんのグラスが並んだ棚があり、その前に、一人、立っている人影が見えた。その人影がゆっくりと向きを変え、入り口に佇む自分を見つめ、喩えようのない優しい微笑を浮かべた。

 空と海の境界のような透きとおった碧い瞳。

 その瞬間、彼が待っていてくれたのだと、確信した。


「どうぞ」

 促されて高い椅子の上に乗った。しんと何の音も聞こえないのに、空気そのものに温かな色と声が溶け込んでいるようで、ふわふわと柔らかい心地になる。

「僕はハル。君が望む魔法を、教えてもらえるかな」

「魔法・・・?」

 呆然と繰り返して、ハルと名乗った目の前の少年を見上げた。その皮膚の内側にはいったい何色の血が流れているのか、そう思わせるほど、透明な微笑だった。

「ゆっくりでいいよ」

 ハルの快い声が耳を撫で、ゆるゆると、頭の中で記憶のフィルムが巻き戻されていく。


 

いつも母の歌声を聞いていた。それを聞くと、心が浮きたち例外なく甘い幸福感が湧き上がる。嬉しくてくすぐったくて、自分の体を抱いて転がり回りたくなる。

 母の声には優しさと温かさがいつもしっとりと溶け合って、それは聞いている者にもすこやかに分かたれる。幸福を惜しみなく降り注いでくれる、歌声だった。

 母はたくさん話しかけてくれた。見たもの、聞いたもの、感じたもの。楽しかったこと、楽しみなこと、今までのこと、これからのこと。そのすべてが結局は同じ「幸福」という場所へ繋がっていると知っていて、どんな話を聞いていても安全なゆりかごの中にいるように安らいでいられた。

 しあわせだった。未来を信じられたし、待ち望むことが出来た。母の手に触れられ、母の心臓の音を聞いて、守られていると感じられた。

 母は料理が好きで編み物も好きだった。体にいいあたたかい食べ物を与えてくれたし、寒くなる前にとたくさんの毛糸を使って小さな手袋や帽子を編み、それに触れさせてくれた。

何色が好きかわからないから、といって、いくつもいくつも色とりどりの編み物が出来上がった。嬉しかった。

 母は健康にも気をつかっていた。プールの中を歩いたり、散歩をしたり、変わった呼吸法を教えてもらいに行ったりしていた。いつも一緒に出掛けたし、母がすることはすべて素晴らしいことに思えた。

 母は父を愛していた。とても心から愛していた。だから同時に必然的に愛されることが出来た。二人に愛されることが、なにより一番の幸福だった。

 父もよく僕に触れてくれた。優しく撫でて、話しかけて、笑いかけてくれた。母と二人で。

 父の手は大きくて暖かくて、少しごつごつとして日なたの匂いがしていた。その手も母の柔らかい手と同じくらい好きだった。

 父は車の運転が上手だった。よく母と一緒に乗せてくれて、ドライブに出かけた。

いろんなところに行った。海も見たし、山も見た。綺麗な夜景も見たし、空を埋め尽くすような桃色の花の大群も見た。その度に、母とふたり、いつも感動で心が満ち溢れていた。

 感動しすぎると泣きたくなる、ということも覚えた。いつも泣きたくなるくらい胸をいっぱいにしていた。母は少し涙もろくて、それがうつってしまった。

 夏の終わりごろ、涼しくなってきたころに旅に出かけた。父が運転して、母と一緒に後ろのシートへ座った。見たことも無い山道を慎重に登っていく。父の運転は、いつにもまして注意深かった。おかげで少しも揺れを気にする事なく、気持ちよく座っていることが出来た。

父と母の会話から、とても風景が綺麗で、柔らかくたっぷりのお湯につかることのできる場所へ行くとわかった。大きな大きな泉のようなお湯の中で、手足をゆらゆら伸ばせるらしい。それを聞いただけで、体中の筋肉がとろけそうに弛んだ。母はそのお湯に浸かって、また感動で目を潤ませるかもしれない。そうしたらそっと撫でてあげようと思った。

 何度目かのカーブを曲がった時、大きく視界が揺れた。母の体が、シートベルト越しでも支えられず左へ倒れ込む。一緒になって倒れながら、何か大きな音を聞いたような気がした。 同時に母の叫び声と父の呻き声を聞いた。それは、今までけして耳にしたことのない、幸福とは正反対の絶望の声だった。一瞬の出来事だった。

 そこからの記憶は、今に繋がっている。 


 顔を上げると、ハルに見つめられていた。深く澄みきった碧い瞳が、少し悲しげに翳っている。

まるでそれを隠すかのように、ハルはそっと微笑んでグラスを手に取った。家では見たことも無い、まるでフラミンゴみたいに足が細くて、透きとおったグラスだった。店内のあたたかな灯りを受け、美しく輝いている。

じっと見つめていると、いつのまにかグラスの中にはらはらと小さな粒子が降り積もり、なだらかな山となった。淡くオレンジ色に色づいていて、夕焼けの中、柔らかな新雪を纏った雪山のように美しかった。

ハルはそこに本物のオレンジをくし形に切ってグラスに飾った。見たことも無い飲み物。いや、本当に飲み物なのだろうか。氷の彫像のように、飾るためのものなのだろうか。微細な粒子の一粒ずつが、意志があるかのように煌めいていた。

「どうぞ一夜の魔法の夢を。”フローズンマルガリータ”です」

 ハルが目の前にグラスを差し出した。

 受け取ろうとして、そのときはじめて自分に手が無いことに気づいた。手ばかりではない。足も、胴体も、顔も無い。実態と呼べるものはなにも無い、ただの小さくて弱い、光の球体だった。

 扉を開けたと思ったのも、椅子に座ったと思ったのも、全部想像の中での出来事だったのだ。ただ宙に漂っているだけの、実体を持たない浮遊体に過ぎないもの、それが自分だった。

 しかし目が無いのになぜだかハルが見えた。この店も分かった。それになにより、ハルには自分が見えていた。もしかしたら顔や手や胴体も見えているのかもしれない。そう思うくらいハルは自然で、そしてしっかりと見つめ合うことが出来た。

 ハルの視線に促されるように、グラスに触れた。表面を霧のように覆っている微小な氷の結晶が、指に吸い込まれるように溶ける。

 指?

グラスに触れた瞬間に指が見えた。自分の指だった。小さな手に、小さな爪がついた手。目に入ったものがすぐには理解できず、瞳を見開いたまま固まった。目が、確かに形を持っているのが分かった。まばたきが出来た。その瞬間に睫毛が視界をかすかに霞めるのも感じられた。小刻みに震える手で、顔に触れた。少しひんやりとした、柔らかい頬の感触が手に、小さな冷たい指の感触が頬にした。そのまま視線を落とすと、カウンターの下にボールのように並んだ細い膝小僧と、足先が映った。

 それでもまだ信じられない思いでハルを見た。青星(シリウス)のような碧い瞳と視線が重なる。

「声は出せる?」

「・・・うん」

 かすかな響きだったが、自分の意志で確かに発せられる細い声を聞いた。

「男の子だったんだね」

 ハルは雲間から差し込む光のような眩さで微笑んだ。

 

小さな棺の中に、小さな手や足が並んでいる。たくさんの、色とりどりの。

頭には秋の空みたいに澄んだ水色の帽子、手と足にはぶかぶかの黄色い手袋と靴下。体中を包むように、隠すように、敷き詰められた手手手、足足足。想いの数だけ編まれた極彩色の毛糸たち。やわらかく温かく、守るように包み込まれる体。色を知らない僕に、何も映すことのなかった瞳に、賑やかであらゆる色を見せてくれる毛糸。抱かれるように、毛糸のおくるみに捲かれているように。

楽しみに待ちたいから、と性別を聞くことをしなかったくせに、それでいてどちらかわからないから、とまるで言い訳すら楽しむみたいに嬉しそうに、何色も何枚も同じ小ささで同じ帽子を編んだ。

まだアスファルトが空気を燻らせるくらいの季節から、両手から零れるくらいの毛糸を準備して、毎日毎日。

帽子が編み終わるとまた同じ色たちを使って今度は靴下を編んだ。左右綺麗に均等に、細い毛糸で編み目を揃えて。一つ出来上がるごとに眩しそうに眺めては抱きしめる。まだ見ぬ子を思い抱くように、瞼を閉じて愛おしそうに。

靴下が溢れると今度は手袋を。同じ色で同じ大きさで同じ数で、部屋の中はもう夏なのか秋なのか季節に埋もれ、それでも待つ時間を少しでも縮められると信じているかのように手を動かす。幸せな歌声をしみ込ませた糸の群れが、待ち焦がれる期待とともに結われていく。

僕はその一つの帽子を手に取った。赤い帽子だった。深い秋の濃い紅葉みたいに鮮やかな赤。

それを被った。あたたかく、やわらかい。頭に吸い付くように、ぴったりとおさまる。

足元に散らばっている靴下を取った。青い靴下。小さい。とても小さすぎて履けない。

こんなに一瞬で履けなくなるものを、母はいったい何年分作ったんだろう。左右、二足ずつ。そのすべてに思いを込めて。

今度は黄色の手袋を取った。ミトン型にころんと仕上げられた手袋。無くならないように。左右を糸で繋いで、双子みたいに並んでいる。指が三本入った。指の帽子みたいだと思った。

両方の手の指にはめて、目の高さにかざして眺めた。窮屈そうにくっついた指が、幸せそうに寄り添っているかに見えた。

声は(つか)えてしまうのに、顔には微笑みが浮かんだ。涙で視界が遮られそうなのに、溢れる思いは幸福の色をしていた。

母が編んでくれたものなら、赤でもピンクでも藤色でも、どんな色でも喜んで着たに違いない。一枚だって、無駄にしなかったに違いない。

固くしまい込まれたベビーグッズの残骸。一度も遊ばれることも触れられることも無かった小さな遊園地みたいに、箱の中に息をひそめて集まっている。積み木があって、絵本があった。カラフルな鍵盤のピアノがあって、車があった。

全部僕の為。

なにが好きかわからないから。

その言葉をおまじないみたいに繰り返して。

僕は片手で持ち上げられるくらいのおもちゃのピアノを取った。左手で胸の前で平行に持って、右の人差し指で鍵盤を押した。おどろくほど軽く、ぽろん、と寂しく澄んだ音がした。

どの部屋を見ても、無理やり押し込まれた悲しみがはみだしているように、不自然な沈黙で埋め尽くされていた。はみだしているものは見ないように、触れないように、また押し込まれてさらに別の場所からはみだした。もうどこもかしこもいっぱいで、入る隙間なんてありはしない。

母のお腹はぺちゃんこで、同じくらいぺちゃんこになった心を蝉みたいに震わせて泣いていた。

黒い服が、極彩色の毛糸の中で際立って綺麗だと思った。母の白い肌は、青みを帯びるほど痩せた色に沈んでいたが、それでもその顔も手も爪先も、とても綺麗だと思った。

美しい歌を聞かせてくれた声が、押し潰されてかすれた泣き声にしかならなくても、それを聞いていたいと思った。

胸が張り裂けそうになりながらでも、最後まで聞いていたいと思った。



僕は、生まれることができなかった。



お母さんのところに生まれたかった


心の震えが声になって流れていく。


お母さんの腕に抱かれたかった 

名前を呼んでほしかった


帽子も靴下も手袋も、もう身に着けることは出来ない

歌を歌ってもらうことも、話しかけてもらうこともない

一緒に出掛けることも、新しい景色を眺めることも


お母さん、と呼びたかった

寂しい時は寄り添って、悲しい時は撫でてあげたかった

楽しい時は一緒に笑って、嬉しい時は抱きしめたかった

お母さんの傍にいたかった


乾いたつむじ風が落ち葉を舞い上げ、母の周りに纏わりつくように吹き過ぎた。

母は膝を付いて泣き崩れた。顔を覆った両手の隙間から、幾筋もの涙の帯が伝い、地面に沁み込んでいく。いつまでもいつまでも沁み込んでいく。


もう泣かないで


風が歌う。

音をのせて母の耳元を行き過ぎる。


僕は目を閉じた。

その瞬間、頬の上で冷たくなった雫が秋風にまざり流されていく。


お母さんが生きていてくれて良かった


たくさんの歌や言葉を

帽子や靴下や手袋を

ぬくもりや優しさを

笑顔と幸福を


ありがとう


母は泣きながら首を振った。

涙もろいから、感動すると泣いてしまう。

きっと悲しい涙じゃない。

きっともうすぐ、あたたかい涙にかわる。


僕の声は聞こえたかな


安心して


僕は今もしあわせだよ




気が付くと、橙色のやわらかい灯りの中に戻っていた。

目の前にハルが立っていて、少し寂しそうな微笑みを浮かべている。胸に迷いなく差し込んでくるような、優しい表情(かお)

お別れなんだろうか。ふとそう思った。

「ハルといたい」

 一瞬だれが言ったのか分からなかった。ハルが少し驚いたような、困ったような表情になったのを見て、はじめて自分の言葉だと気づいた。

 けれど、気紛れでも気の迷いでもなかった。それは自然に込み上げたほんとうの気持ちだった。

 僕は生まれて初めての真剣な眼差しでハルを見つめた。

 ハルがくれた、推定五歳の魂。その僕の本気は、どのくらい伝わったのかはわからない。でもハルは僕を、いや、誰のことも、年齢(とし)や性別や見た目で判断して区切らない。

そう分かっていた。

 僕はハルのところに戻った。望みをかなえても消えなかった。それはきっと、意味のある事だったのだ。重要な事態だったのだ。

 穏やかな静寂がゆったりと流れて、ようやくハルが明け方につま弾く竪琴(ハープ)のような心地よい声を響かせた。

「名前がいるね」

 それは想像以上に温かな潤いを以て僕を出迎えた。

 僕はいつまでも溶けることのない雪のようなフローズンマルガリータを口に運んだ。

 しゅわりと舌の上で気持ちよくほどけて消えて、ほのかなオレンジの香りが体中を満たしていった。


″シュウ″という名前はハルが付けてくれた。僕が初めて店に入ってきた時に、秋の風が舞い込んで来たのだと思ったらしい。僕はその名前をいっぺんで気に入ったし、むしろそれ以外はあり得ないと思った。その日から僕はシュウになって、ハルとティエラで一緒にいる。

この体もハルがつくってくれた。本物の人間の体ではないから、年も取らないしほんとうを言えば食べ物も飲み物も必要ない。ただ付加価値(オプション)として飲食ができるし、ちゃんと味わうことも出来る。実に便利な人形(いれもの)だ。自由自在に動いたり喋ったりできる快感は、それを知る前に死んでしまった僕にとって何にも代えがたい贅沢な贈り物だった。

僕はハルが好きで、ハルの手が好きだ。華奢で長くてしなやかな指、およそ日常感も現実感も滲まない、カクテルをつくる瞬間だけを知っている魔法の手。

ただ、なぜカクテルなのだろうと不思議に思ったことがある。ハルだったら、美術品や装飾品、精密機器やフルコースだって、それこそなんでも作れそうな気がする。

だから、ある日興味半分に聞いてみた。一人、客が帰った後だった。その客は、今頃遠い外国にいると思う。


「ハルはバーテンダーになりたかったの?」

 シュウは両肘をカウンターについて、両手で顎を持ち上げるように包みながらハルを見あげた。ハルは、グラスの片づけをしている。少し深めのシェリーグラス。チューリップのような愛らしくあどけない形をしている。そこには今夜、夕映えの海のように鮮やかなカクテルが注がれた。

 ハルがグラスを所定の位置に戻すと、それがスイッチだったかのように音もなく灯りが落ちる。小さなダウンライトのような仄明るさだけが残った店の中で、シュウは繭に包まれて眠る蚕のような気持ちになる。あたたかくて安心で、正しい場所にいるような気持ちに。

 ハルはティエラからけして出ない。出ることが、出来ないのかもしれないとも思う。

 ティエラ自身が、ハルそのもので、もしかしたら自分と同じように入れ物の中にある魂がハルという形をしているのではないか、とも。

 シュウも外へは出ない。ハルの中で、ハルといる。外の世界なんて、防波堤の無い嵐の海へ飛び込むくらい無謀で不毛だ。この柔らかで心地の良い繭の中にいつまでもくるまれていたいと思う。しかし、蚕だっていつかは繭から出て外の世界へ飛んでいく。ゆるやかに流れる時間が、いつかは折り返すかもしれないことを、シュウはどこかで恐れている。

 その恐れが目や口からつい零れてしまわないように、毅然で気丈でありたくて、いつも少しハルを困らせてしまう。

 ハルはしっかりとシュウと顔を見合わせてから、口を開いた。ハルは行動の一つも、けしておろそかにしない。

「カクテルは魔法をかける為の依り代みたいなものだから」

 依り代の意味は分からなかったが、なにか重要な説明がなされているのはわかった。シュウは黙っておもむろに頷いた

「カクテルにはそこに込められた言葉があるんだよ。宝石や、花のように。それは、人の思いの形で、言葉には力が宿る」

 一瞬、言霊、という単語が頭に浮かんだ。言葉に宿った力が、人の思いを遂げることがある。

「そういうものには魔法を織り交ぜやすいし、取り込みやすい」

 そう言うと、区切るようにそっと微笑った。

「依り代を宝石や花にしなかったのはどうして?」

 ハルには宝石も花もとても似合うと思った。色とりどりの美しい石を操ったり、清楚で可憐な花束を、あの華奢で綺麗な指が繊細に織り上げていく情景がありありと想像できた。

「あるカクテルを探しているから」

 はじめて聞く話だった。シュウは思わず両手から顔を浮かせて、続きを待つようにハルを見つめた。薄明りの室内で、ハルの声は霧雨のようにしっとりと空気を濡らし沁みとおる。

「それは、どんなカクテル?」

「思い出せないんだ。それに、本当にそれを探したいのかどうかも、わからない」

 ハルの声はいつもどおり雪解けの水のように澄んでいて、一つの濁りも無かった。

けれど宙に放たれた言葉には、とても悲しく揺蕩うものがあった。閉じられた部屋の空気が、夜明け前の静けさように薄く張りつめる。

「ハルにもわからないことがあるんだね」

 シュウの戸惑いに、ハルは優しく微笑んだ。

「たくさんあるよ」

 夜、誰もいなくなってからハルを独り占めできるこの時間が好きだった。いろいろな話をするけれど、ハルはシュウの質問や疑問にいつもちゃんと答えを持っていて、納得させてくれる。今夜のように、シャボン玉の軌道みたいに曖昧な返答はとても珍しく、思いのほか気持ちを掻き立てた。

「そのカクテルを探すために、バーテンダーになったの?」

「さあ、どうだろうね」

 ハルの答えはやはり不明瞭だ。どこか別の場所に思慮する心の一部を置いてきているかのように、茫漠としている。

「でも、飲んでみたいんでしょ?」

 シュウはなんだか不安になって早口で聞いた。ハルが一瞬遠くへ行ってしまったような気がした。

薄明りが、さらに一段色を落として空気の色を灰青に染める。ハルの白い顔の輪郭がぼんやりとぼやけた。

「僕はこの世界のものを口にすることは出来ないから」

 その言葉に、シュウは思わず記憶の水槽の中へ手を伸ばして隅々まで底をさらった。

そうだった。これまでハルが何かを口にするところを一度も見たことが無い。なぜ気が付かなかったのだろう。シュウは水から上がった魚みたいに忙しなく口を動かした。聞きたくはないのに、ほとんど無意識に声が喉を駆けあがってしまう。

「口にしたら、どうなるの?」

 ハルがゆっくりと視線を下げた。そこにだけ明確な答えがあるのだと分かった。

「消えてしまうんだよ」

 ハルの望みは、思い出せないカクテルを探すこと。それは叶えられないことなのか、叶えたいことなのか、わからない。

シュウは身を引いて口を噤んだ。ハルが正直に話してくれるからと言って、詮索しすぎたとも思ったし、ハルの心の内側に見えないように伏せられている望みを覗き見てしまったような、何か不正を働いてしまったような罪悪感があった。

「味見が出来ないから、結構大変なんだよ」

 もはや表情も見えないほど濃い群青に覆われた店内で、ハルが微笑んだのが分かった。

 暗鬱と沈みそうになった空気とシュウの心をふわりと浮かせ、恣意的に掬い上げるように。

 シュウが言いたいことを、ハルはわかっている。シュウは望んでここに残った。

 一縷も違えることなくその望みは叶えられた。

ハルの望みは叶ってほしい。名前も知らない誰かの望みを叶え続けても、誰もハルの望みは叶えられない。

それはとても理不尽で不条理で、残酷なことに思えた。まるで永遠に石を積み上げ続ける輪廻の宿業のように。

 しかしもし叶ったなら、ハルは消えてしまう。それもまた、夢想と矛盾の交錯するパンドラの箱だ。少なくとも、シュウにとっては。そのとき自分はどうなるのか、だけどそんなことはどうでも良かった。ハルに消えてほしくなかった。

 シュウはハルを見つめ、答え合わせをするようにきっぱりと言った。

「僕は、ハルと一緒にいたい」

 碧い瞳が闇の中に薄れていく。

もしもハルが消えるなら、どうか同じ場所に行きたいと思った。



 ハルの魔法は理を歪めない。

 心の奥底に沈んだ望みに触れて、人生の流れの中に一筋の光をまぜるだけ。

 けれどそれによって、命が奪われることがあるのも知っている。

 それが望みであるならば、ハルは迷いなく魔法をまぜる。

 美しく繊細な、カクテルの一滴に。

 ハルの魔法には、優しさの量と同じだけの真実が宿っている


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