First Glass
そのバーは路地の奥にある。どこの路地かは分からない。定まっていないとでも言うべきか。しかしいつも同じ扉で同じ空気で同じバーテンダーが出迎える。
突如現れる扉には、看板も照明もない。それはまるで扉そのものが内側から発光しているかのように人を誘う。蝶が蜜を求めて花びらの内に降り立つように、本能が引き寄せる。
そこは一度しかくぐることのできない扉。美しいカクテルを飲み干した後、バーの記憶は跡形もなく消失する。二度と辿り着くことも思い出すことも叶わない。
ただそこでのひと時が、一杯のカクテルとそのバーテンダーが、ほんの少しの優しさと真実で人生を潤す一筋の流れとなる。
バーの名は「ティエラ」。そしてそこに立つ一人のバーテンダーは、いまだ少年の容貌でカウンターの内に立つ。年の頃はどう見ても十五・六。およそ世間一般のバーテンダーの様相とは程遠い。あどけない相貌と無垢の表情を以てやわらかな微笑を湛える。
彼の名は、ハル。
そしてハルは、魔法を使う。
ハルのカクテルには、一つだけ魔法がまざる。それは飲む者の心に溶け、記憶の奥へと沁み渡り、形を残さず一夜で消え去る。
甘美に潔く、華麗に儚く。まるで夜ごと繰り返される、胡蝶の夢のように。
そこに酔いたいがために、導かれる場所。
それが、魔法使いのバーだ。
いつもなら寄り道などせず家に帰るところだ。
そうしなかったのは、ここのところ失敗続きで心も体もすっかりささくれ立っていた為かもしれない。もしくは金曜の夜で、一種の強迫観念のように一杯だけ外で飲んで昼間こびりついた心の垢みたいなものを落としてから、こざっぱりと部屋に帰りたかったのからなのかもしれないし、ただそのように振る舞う、同じように日常にすり減らされほぼ機械的に歓楽街へ足を運ぶ勤め人の真似事をしてみたかったからなのかもしれない。
なんにしてもさしたる理由も動機も目的もなく、ふらふらと自宅から逸れた道なりを、ネオンが連なる街へと向かって歩いていた。
ゆらゆらと種々の色を織り交ぜて揺れ動く光を眺めながら、早瀬尚子は昼間の出来事を回想する。
「こんなミスをするなんて、早瀬さん、あなた何年目?まったくたるんでるのよ」
先輩お局社員の叱責が鼓膜に張り付いている。何年目?三年目だ。それは新人ではないがまだ中堅でもなく、実にあやふやで足場の固まっていない立ち位置だと言える。
事実、勤続三年を迎えた社員が新たな道を目指して退職していく姿を毎年見送ってきた。今年は、同期の十人の内、三人が去った。
尚子は溜め息をつく。何もしがみつくほどの会社ではない。やりがいも将来も見えない。
しかしやめてどうなるのか、その先の苦労と不安定な生活とを天秤にかけてとどまっているに過ぎない。実家暮らしではない尚子にとって、たとえ一時期でも無職になるというのは非常に心もとないし、多少の蓄えがあるといっても所詮たかが知れている。つまりは即座に死活問題に直結する。
それよりなにより、辞めて特にやりたいことも無いのだった。適度にまじめに仕事をこなし、当たり障りなく人付き合いをし、時折頭を下げていれば無難に一日は終わる。そう、無難に。生産性も、発展性もなく。そしてけしてそれらを求められてもいない。
気楽なものだ、と割り切ってしまえばいいのだ。それで当面生活に困窮することはないのだから。
尚子は歩を早める。歩いている内に取り留めのない考えばかり浮かんで自分の首を締めあげてしまう気がした。体までがんじがらめになって歩けなくなってしまう気がした。とにかく早く辿り着きたかった。どこか、どこでもいい、この気持ちを一時的にでも濾過して忘却させてくれるなら。
尚子の仕事は健康食品の電話受付だ。注文専門で相談窓口とは違うが、たまにクレームめいた電話も入る。もちろんその際の受け答えのオペレーションも受けているし、そういう客からの電話を今まで何度も受けたことがある。そつなく対応してきたはずだった。
しかし、今日の客は少し勝手が違った。クレームを訴える客には二通りある。はじめからクレームを言ってやろうと鼻息荒く電話を掛けてくる客と、話している内にクレームに発展していってしまう客だ。後者はとても後味が悪い。なにしろ自分の受け答えのまずさで客の言い分をグレーから黒へ変貌させてしまうのだから。
正直落ち込むしひどく反省もする。上長からも嫌味を言われるし、同僚からの同情の視線も痛い。三年目でまだそんなことをやるのかと。
「だからね、何度も言っているけど私はリノレン酸100ミリ配合分を2セット注文したのよ。それなのに届いたのは50ミリの分で、しかも4セットも届いたの。完全にそちらのミスよね?」
何度目かの主張を一言一句違えることなく訴える。それに対してこちらも一言一句違えることなく謝罪する。
「大変申し訳ございません。当方の確認ミスとなりますので、すぐにご注文の商品と交換対応させていただきます」
このやりとりはもう五回目だ。何が気に食わないのか、三年の経験で大体察することは出来る。つまり、さらに上の対応を望んでいるのだ。自分から吹っ掛けたという形ではなく、あくまでこちらが自主的にサービスするという形を取りたいのだ。それを引き出すまで粘る。ごねるとか怒鳴るとかあからさまにクレーム客になるような真似はしない。この手の客は厄介だ。それならあからさまな方がよっぽど対応しやすい。さっさと上長に相談して望むようにしてやればいいのだから。しかしこんな風にのらくら続けられるとなかなかそうも出来ない。完全に消耗戦だ。どちらかが根を上げるまでの。
また同じ問答を繰り返し始める。尚子は半ばあきらめ半分でセリフを読み上げるように正確な対応で応酬した。感情も真心も上滑りしすぎてどこにもとどまらない。時間と精神を擦り減らし、得られるものは尚子にはなにも無い。心の内壁に、踏みつけてしまったガムのような不快感がべったりとこびり付く。
ついに焦れたのは客の方だった。ここは三年で培った忍耐の粘り勝ちだ。徐々に客の言葉にけんが含まれ始め、それとともに自分の言い分に自分で興奮し始める。
「こっちが丁寧に言っているのに、あなたはまともに受け止める気があるのかしら。ただマニュアル通りに謝っているだけで、ちっとも誠意が感じられないわ」
もっともだ、と納得しながらも殊勝な声音で尚子は謝罪する。
「ご不快な思いをさせてしまい、まことに申し訳ございません。貴重なご意見として承ります」
ここでけして言い返してはいけない。客の言うことは全て「貴重なご意見」だ。
「大体ね、健康食品といっても口に入れるものよ、内臓に影響だって与えるの。場合によっては薬にも毒にもなるのよ。その辺わかってるの?」
「重々承知しております。ご心配をお掛け致しまして、申し訳ございません」
そもそもリノレン酸が100ミリだろうが50ミリだろうがどれほど違いがあると言うのか。まして健康に被害が及ぶなんて。そう考えるなら飲まなければいい。
尚子は表面的には苛立ちを押し隠し、胸の内で毒づく。
おそらくこの客は、新人ほども初々しくなく、ベテランほども貫禄の無い中途半端な立ち位置の私を見抜いている。新人のようにすぐ泣いたり上役に交代することもなく、ベテランのように知識と話術で説き伏せられることも無いことを。
こういう客はほとんど動物的な嗅覚でそういうものを嗅ぎ分ける。早い話が、憂さ晴らしだか暇つぶしだかのターゲットとして白羽の矢が立ってしまったのだ。しかしおざなりな対応は出来ない。受電データはすべて録音されているし、相手が気分を害せば即座に公開される恐れもある。
「大体謝罪にも心がこもっていないのよ、あなたニュースとか見てる?最近もあったでしょ。健康食品が重大な疾患を引き起こしたなんていうのが」
二回目の「大体」だ。いちいち言葉尻を捉えられて「大体」と括られたらたまったものではない。
ふと顔を上げると、オペレーターの席の隙間を巡回しているお局上長と目が合った。対応が長引きすぎている。早く切り上げるようにと言わんばかりの厳しい目線を送ってくる。思わず電話口でため息が出そうになって慌てて飲み込んだ。
尚子は一度深呼吸し、慎重に言葉を選んで答えた。
「その件につきましても、社内でしっかりと共有し、ご利用のお客様にご不安を与えませんよう商品の安全性につきましては最大の配慮を致しております。弊社の商品に関しましては、そのような心配はござませんので、安心してお召し上がりください」
「安心って簡単に言うけどね、あなたは若いから何ともないだろうけど、こちらはいちいち気にしないと。ほら、色々病気なんかもあるしね。この間も病院で・・・」
これ以上は付き合っていられない。世間話や身の上話まで持ち出されては完全に業務範囲外だ。どうにか話を元の商品の交換に戻さなくては。しかしまた機嫌を損ねると面倒なことになる。
ちらりと電話の受電時間を確認した。もう十五分も経っている。限界だ。対応時間は基本的に七分以内と定められている。上長のこめかみにうっすらと血管が浮かび始めているのが遠目でも見て取れた。
「お客様、そうしましたら今回はリノレン酸100ミリ配合の分2セットと交換の手配を至急取らせていただくという形でよろしいでしょうか」
やや強引に話を戻した。しかしこれは思いのほか相手の不興を買ってしまったようだ。電話越しに客が気色ばんだのが分かった。
「あなたね、今までの話聞いていたの。やっぱり聞いてなかったのね。いい加減に聞き流していたんでしょう。私は今そんなことを言ってるんじゃないのよ」
心底うんざりしたが、もちろん声には出さない。むしろおもねるように出来る限り温和な声音で対応する。
「もちろん、しっかり伺っております。貴重なご意見として・・・」
「そうじゃないの、あなたは若いから知らないかもしれないけど、この年になると色々あるのよ、それこそこの間だって元気だと思っていた近所の旦那さんが急に倒れて、そのまま亡くなったのよ。人なんて何が原因でいつあっけなく死ぬかなんてわからないの。だから口にするもの一つでも大切なの。ほんとにわかってるの?」
「わかってます!」
気づいたら大声で言い返していた。電話の向こうの客が押し黙る。フロアを見渡すと、それこそフロア中の人間がまんべんなく何事かとこちらに目を向けて息を飲んでいた。
そしてもちろん、お局上長が一足飛びの身のこなしで隣まで来ると、尚子のインカムをひったくるように取り上げて恐ろしいほどの猫撫で声で対応を引き継ぎ始めた。目線はこちらに向けて、声とは対照的に明らかに般若の形相をしている。
しかし、そのどれも気にはならなかった。頭の中は金属のボールが飛び回っているみたいにくわんくわんと耳障りな反響音が鳴り響き、顔の上半分は熱いのに、その下は水の中にいるみたいに冷たくて、そこに手足がある感覚すらない。
客に対して言ったのではない。客の言葉はただのきっかけにしか過ぎない。
尚子は音を失くした室内で呆然と自分の声を繰り返した。
私の恋人は、一年前にあっけなく死んだ。
有村昌也、それが恋人だった男の名だ。大学の同級生だった。学部は違ったが、当時の登山ブームで何となく入った山岳サークルで知り合い、二年生になった頃に付き合い始めた。最初の印象はよくも悪くも普通。特に容姿も性格も特技も取り立てて秀でるものはなく、かと言って劣る部分もなく、はっきりいって目立たなかった。
サークルは大所帯で、男女比は完全に男の方が多かった。同じサークルにいながら半年間はお互い名前も知らなかったと思う。
それがなぜ付き合うまでに至ったかと言うと、半年経った頃に登った山がきっかけだった。尚子は初心者に毛が生えたようなもので、山の装備も知識もままならないお粗末なものだった。スニーカーで登ろうとしたくらいだ。山登りには存外資金が掛かるとその時はじめて知った。靴からカッパから帽子からリュックから果てはトレッキングポールなる杖まで。それに本格的に登るなら寝袋やテントなどもいるらしい。
気軽に入部したものの、その大げさな準備にすっかりやる気をなくしていたところ、声を掛けてくれたのが昌也だった。昌也はかねてから登山が趣味で、多くの装備をほとんど人に貸せるほどの容量で備えていた。僕が使ったもので良ければ、と少し躊躇いがちに声を掛けられた時のことをよく覚えている。真剣で、純粋で、とてもまっとうな表情をしていた。
こういった大学のサークルには大抵男女の色恋を狙った下心を秘めて入部する者も多い。かくいう尚子も素敵な人がいたらな、くらいのときめきは求めていた。しかし、昌也にはまったくそれがなかった。ほんとうに心から山を愛していた。それもあって、他意無く気安く借用できたのだと思う。
実際昇った山は標高千メートルほどの、頑張れば小学生が遠足で登ることも出来るくらいの山だった。しかしこれまで運動部でもなければ山登りも初体験の尚子には、十二分な洗礼を浴びるくらいに過酷だった。他にも尚子のように山慣れしていない、ほぼ初心者の群れが列の後方で半分も登らないうちについて行けなくなってへばっている。
「おーい、一年、大丈夫かー?」
先頭の方から三年の先輩が声を掛ける。
「大丈夫ですー」
口々に答えるが、当然言うだけで進みもしなければ士気も無い。正直引き返したい気持ちでいっぱいだった。心構えはしてきたつもりだが、完全に体力的にも精神的にも準備不足で、もう足は動かない。同じような面々が同じような思いを抱えて口には出さないが見えない団結で繋がっていた。誰ももう一歩も上に進もうとはしなかった。
先頭集団が何やら相談を始めている。どうしたものかと密やかな声が上方から風を伝ってぼそぼそと流れてくる。やがて、その中から一人の男が降り始めた。ゆっくりと近づくと、地蔵の集団ように頭を並べてとどまっている尚子達一年の脱落組に合流する。それが、昌也だった。
「下まで一緒に降りよう。先輩たちはこのまま登山を続けるから、今日はもう解散でいいって」
昌也は山風のような大らかさでそう言うと、一人ひとりの状態を確かめ、先頭になって降り始めた。後ろを気遣いながら、上に登るよりも落ち着いたペースで下っていく。
尚子以外、共に下山した十数人の仲間は誰一人として彼の名前を知らなかったが、その時、尚子は昌也のことをもっと知りたいと、強烈に思ったのだった。
尚子から声を掛けた。昌也は当初の印象通り、朗らかで控えめで純朴で、とても山を愛していた。特徴が無いと思っていた顔も、よく見ると笑った時にできるえくぼや子供みたいに目を細めるところがとても愛らしく思えた。細身に見えるが実は引き締まった体格だったり、山登りが趣味な割には日焼けに弱かったりと、ひとつひとつの発見が興味深く、どんどん惹かれていった。
昌也には両親がいなかった。幼い時に亡くなったと聞いた。その後は親せきの家でお世話になっているが、よく聞くようないじめや虐待と言ったものはなく、裕福な家庭のようでとても良くしてもらっていると言っていた。
それでも昌也は常に気を使っていた。大学は奨学金で通っていたし、バイトもたくさんしていた。居酒屋から引っ越し屋の手伝いから単発のイベント設営やらまで。
山登りに必要な高価な道具などは全部バイト料から捻出していた。
だから、その道具ひとつひとつ、どれをとっても昌也にとっては努力と汗の結晶のかけがえのない宝物で、山登りの仲間で相棒だった。とても大切にしていた。次から次へと新しいものに目移りし乗り換えていくような世の中で、変わらない道具を大切にする、それはとても尊くて眩しいものに映った。
付き合うまでにそう時間も掛からなかった。昌也の好意も気持ちいいくらいストレートに伝わったし、尚子も隠さなかった。姑息な駆け引きなんてまったく不要と思えるくらい、昌也は善良で、尚子は無条件に信頼していた。
付き合って一年が経つくらいの頃には、たぶん昌也は山と同じくらい尚子を愛してくれていたと思う。昌也の山登りの趣味は相変わらずで、ひと月に二回ほどのペースで、時には泊りで出かけていった。尚子はすでにサークルからは足が遠のいていて、時折誘われることもあったが、もう山に対する情熱はすっかり失せていた。
現金なものだと笑われそうだが、昌也がいる事で、昌也が山を愛して山を登ることで、もう自分にはその必要はないと思えた。昌也から登った山の話や、その道中の出来事や失敗談や美しい山頂での景色や、それらを聞くだけですべて共有出来てすべて自分のことのように思えた。それに、ついて行って足手まといになるのも嫌だった。最初のサークルの登山の時のように、志半ばで下山なんてさせたくなかったし、気を遣わせたくも無かった。昌也には心ゆくまで全力で愉しんで山に挑んで欲しかった。
そのまま卒業するまで大きな諍いもなく、穏やかな付き合いは続いた。
昌也は電気機器メーカーへ総合職として就職し、尚子は大学の三年から始めた健康食品の電話受付のバイトから契約社員へ内定した。社会人になってからも順調な付き合いが続いていたし、このままいけば結婚となるのも自然な流れに思えた。事実、周りからもそのような目で見られていた。付き合ってから四年が経とうとしていた。
社会人になって、二年目の春ごろからだったと思う。昌也の様子が少しおかしくなった。
会っている間もどこか上の空だったり、食事も気乗りしない様子で手を付けなかったり、しばしば携帯を手にして席を外すようになった。落ち着きもなく、顔色も優れない。
そのうち週一回のデートが二週に一回になり、ついには昌也から誘いの連絡が来ることも無くなった。尚子からの連絡に返事をしないことはなかったが、距離を置いているのは明白だった。昌也に限って、と思ったが、大学から社会に出て、環境も人付き合いもがらりと変わった。ましてや昌也は総合職、営業だ。出会いも紹介の機会も多い。
一度疑い始めると、あとは砂城が崩れるように何も確固たるものは無いように思えた。どこを触っても不確かで脆く、あんなに固く信頼していると思えていた心なんてどこにもないように感じた。
それでも、取り乱して問いただしたりしてはいけないと自制した。それは賢い女がすることではない。四年の月日を自分の手で打ち崩すような愚かな行為はしてはいけない。何か確証があるわけでもない。ただ単に仕事が忙しくて他に気が回らないだけなのかもしれない。
虎穴に丸腰で踏み込みそうになる自分にそう言いくるめた。
尚子はつとめて物分かりがいい大人の女を演じることに決めた。やや芝居がかっているくらいの姿でいる方が、素のままの自分をさらけ出すよりよほど楽だった。
しかしその作戦は成功しなかった。その年の秋、尚子は昌也と別れた。
昌也は電話やメールではなく、本当に久しぶりにきっちりと会う約束を取り付けた。
だから、余計に解ってしまった。なにか、それはとても意味のあるデートだと。当然、悪い方の。
待ち合わせのカフェで相変わらず頼んだカフェオレには手も付けず、昌也は終始うな垂れていた。少し痩せたようだった。会話もなく、通夜のように背中を丸めて暗い影を落とした表情は、見ている方が苦しくなった。まるで昌也をいじめているような気分になった。
カフェを出ると、秋の高い空が、水色に透けた薄い雲を綺麗に浮かべていた。空気は乾燥して清潔な落ち葉の匂いがした。
街路樹は赤や黄色に葉先を染めて、僅かに残った緑と相まって今が最も美しく色鮮やかに通りを飾っている。
途端に無性に悲しくなった。こんな時に、こんなに罪もない美しい景色に囲まれているときに、なぜ一番つらい瞬間を迎えなければならないのだろう。
昌也は何も言わない。言いあぐねているのが分かった。昌也は優しいから、言えないのだ。
早く終わらせなければいけない。そうじゃないと、このかけがえのない景色を見逃してしまう。
せっかく昌也と見られる、最後の景色なのに。
「昌也」
尚子は少し前を歩く昌也に声を掛けた。あんなにぴんとまっすぐだった昌也の背中が、頼りない猫背に見えた。
昌也は緩慢な動作で振り返る。しかしその目は真剣で、悲しそうで、泣きたいくらい優しかった。
「私と、別れたい?」
別れよう、とは言えなかった。そこまで自分で引導を渡す勇気を持てなかった。
ここまで来てもなお、まだ一縷の望みを抱いてしまっていた。それくらい、昌也を愛していた。とてもとても愛していた。
「ごめん」
その一言を言うまでに、何枚の落ち葉が目の前を落ちていっただろう。どれだけの葉が色づいていっただろう。途方もない時間を見つめ合って聞いた言葉がその一言で、それが私と昌也の四年の月日をぷつりと断ち切った。
暦上ではすでに夏の終わりを指すが、うだる暑さは昼間の空気になんら秋の香りも孕まず、夜を迎えても蒸された大気はむしろ湿度を増して、執拗に体に纏わりついた。
シャツの背中が肌に吸い付く感触がする。不快感が、一層落ち着く場所を求めて足取りを加速させた。
濃い墨色の低空に、水分を含んで滲んだような丸く黄色い月が浮かんでいる。
夏の終わりの月は、秋のそれよりもとっぷりと潤って大きく見える。
ネオンがちっとも近づかない。どんなに歩いても見えているはずの色とりどりの電飾が目の前に現れない。なんだか狐にでも化かされている気分だった。もしくはあるはずのない蜃気楼でも見ているような。
尚子は辺りを見渡した。そういえば、景色も全く変わっていないように思えた。この電柱も、看板も、ポストも、ついさっきも見た気がしてくる。
尚子は焦りと戸惑いで立ち止った。落ち着いて息をつき、もう一度周囲を見回してみる。
いつもの帰り道ではないが、見知った通りだ。間違えるはずがない。
しかしどうしても前に進めない。というより、見えない壁で閉じ込められているように同じ場所から出られない。
不安が恐怖へ変わり始めた頃、前方に灯りが見えた。ふわりと柔らかな灯りだ。
どこか懐かしいような、親しみのある温かな色に、絡まりかけていた心がすっとほどけた。吸い込まれるようにその灯りに近づく。細く暗い路地の奥。
飴色の樫の扉だった。青銅色の把手がついている。看板はない。
何かの店だろうか。佇まいから見たら、バーとかスナックかもしれない。
どのみち馴染みの店なんてないのだから、どこに入ったって同じようなものだ。
ただ、真っ直ぐ家に帰るのではなく、今日は寄り道して、できるなら一杯飲みたかった。
尚子は一つ息をつき、把手に手を伸ばした。
コトリ。と扉が鳴る。扉が開く音というよりは、何かがぴったりと型にはまったような心地いい音だと思った。
恐る恐る顔だけ差し込んで中を覗いてみる。全体的にアンティークな木目調の店内で、あたたかな間接照明が控えめに降り注いている。しかし、天井にも壁にも照明らしきものは見当たらない。一体どこから光が落ちているのか、尚子は首をひねった。壁にでも埋め込まれているのだろうか。
右手に琥珀色の、艶やかに磨かれたバーカウンターが伸び、七席ほどのスツールが並ぶ小さなバーだった。手前の湾曲した部分に一席。そこにはなぜか四・五歳くらいの男の子が座ってブラブラ足を揺らしていた。入ってきた尚子を見ると、カウンターの中にいる人物に声を掛ける。
「ハル、お客さん」
ハルと呼ばれた、白いシャツに黒いスラックス、腰からロングの黒いサロンエプロンを巻いたバーテンダーらしき男性が振り返った。
しかしその顔を見た瞬間、尚子は目を丸くする。色素の薄いさらさらの髪に嘘みたいに透き通った碧い瞳、細面で色白の優しい顔。どう見ても、それは十五・六の中学生か高校生にしか見えない少年だった。
なにか怪しい店だろうか、と一瞬身構えた尚子を見て、少年が穏やかに微笑む。
「いらっしゃいませ」
そのあまりにも自然で柔らかな声に、波立ち始めていた心が凪いでいく。すぐに出ていこうと思ったのに、代わりになぜだかそうすることが惜しいような気持ちが湧き、尚子は戸惑った。
立ち尽くしている尚子に、入り口近くのスツールに座っていた子供が声を掛ける。
「座りなよ、お姉さん。飲みに来たんでしょ」
およそ子供らしくない口調が逆に気持ちを落ち着かせた。
尚子は黙ってカウンターのスツールへ腰を下ろした。もしもなにかおかしなことが起こりそうだったらすぐに出ようと、バッグは手放さない。
「こんばんは。月灯りの綺麗な夜ですね」
柔和な笑顔と落ち着いた物腰に、尚子はバッグを握り締めている自分が途端に滑稽に思えて、そろそろとそれを隣の席に下ろした。この店の中で緊張して手負いの獣みたいに毛をそばだてているのは自分だけだ。しかも相手は二人とも子供。
しかしカウンターの奥や、今入ってきた扉から良からぬ強面の輩が押し入ってくるかもしれない、その僅かな危惧がまだ安心して腰を落ち着けさせないでいた。
「あなた、子供よね?こんなところで働いていていいの?」
思わず厳しい口調になる。すると、少年、ハルは少し困ったような表情を浮かべたが、邪気の無い声で答えた。
「お客様にとっては、僕は子供でも大人でもありません。ただのバーテンダーです」
真っ直ぐな言葉に面食らうと同時に、急に胸が苦しくなった。なぜだろう、なぜか昌也を思い出した。強く色濃く匂い立つほどに思い出していた。目の前の少年は、顔も声も背格好もまったく昌也とは似ていないのに。それでもその真摯で誠実な態度が昌也と二重にぼやけて見えた。まだこんなにも、昌也は濃厚に心に住まわっている。
尚子は狼狽えて視線を泳がせた。
「ご気分がすぐれませんか?」
ハルの透んだ声が胸に差し込む。尚子は思わず滲みそうになった瞳を瞬きで散らし、首を振った。
「なんでもないの。・・・そうね、一杯いただこうかしら」
尚子は改めてハルと向かい合った。見るほどに若い。ハーフだろうか。またと見ないとんでもない美少年だ。
尚子は急にどぎまぎして俯いた。尚子だってまだ二十五歳だが、この少年からしたら十分おばさんだろう。
「なにを召し上がりますか?」
丁寧な口調が浮いていた腰と気持ちをすっかり落ち着かせていた。たしかに、彼はいっぱしのバーテンダーのような気がしてきた。
しかし飲みたいものを聞かれて思わず口籠った。私は一体何が飲みたいのだろう。一杯飲んで帰りたい、このまま家には帰りたくない、そればかり考えていたが、実際あまりアルコールを好む方でもない。飲みたい酒など思い浮かばないし、だからといってビールと答えるのも違う気がした。
尚子がいつまでも逡巡していると、その様子を見守っていたハルが静かに口を開いた。
「このバーに来るお客様は、飲みたいものが何かわからないまま扉を開けます。それを知るために、いらっしゃるのです」
尚子は顔を上げた。ハルの透き通った瞳が神秘的に輝いて見えた。
「当店のカクテルには、一つだけ魔法をまぜることが出来ます。あなたには、必要な魔法があるとお見受けしました」
尚子は唖然としてハルの顔を見た。やはりおかしな店に入ってしまったのか、と一瞬後悔が脳裏を掠める。しかし、その気持ちを押しのけて蹴散らすほどに、その言葉に魅了された。
ハルの瞳が、すでに魔法の威力をもって尚子の心をとらえていた。
魔法でも、夢でも、幻でもいい。ひとつ、願いたいことがある。それを見透かされ、言い当てられた気持ちだった。今まで自分ですら言葉に出来ず持て余していた願い。
「あなたの望む魔法を教えていただけますか」
湧き水のように清廉な声が心の奥に触れる。その瞬間、震える唇が、感情の出口を求めていた。
話していいのかもしれない、そんな気持ちになったのは、目の前にいる少年が、したり顔で講釈したり、わかった風に大仰に寄り添う態度を見せるような物分かりのいい大人ではなかったせいかもしれないし、単に、彼に聞いてもらいたいと思っただけなのかもしれない。
言葉が、自分とは別の意思を持って滑り落ちた。
「彼の嘘を、信じるふりをしたの」
尚子はゆっくりと記憶の階段を下っていく。
昌也から別れを告げられて、それでも毎日は何事も無かったかのように当たり前に過ぎていった。何も変わらないし乱されない、損なわれないし止まりもしない。
そう、本当に四年の月日が二人を繋いでいたか、その証となるものはなにもなかった。
あったのは、気持ちだけだった。形のない、記憶だけだった。
昌也はプレゼントが苦手だった。選ぶことが押し付けにならないか、自分の好みや趣味が合わないのではないか、与えることで重荷になるのではないか、そんな風に考えていた。
尚子は昌也が自分の為に考えて贈ってくれるものならどんなものでも心底大切にする自信があったが、それこそ昌也の負担になりたくなかった。
だから、誕生日やクリスマスなどのイベント時や、付き合った記念日なんていう日は大抵一緒に食事をするか出掛けるか、そういった二人で楽しむことで埋めていた。昌也と一日中一緒にいられることが、すでに最大のプレゼントで特別なことだった。友達には変だと言われた。プレゼントをしあわない(・・・・・)なんて恋人同士なのに変だと。それでも構わなかった。相手の時間を好きに独り占め出来て、自分の時間を思うまま与えられる。こんなにも自由に無欲で、純粋に貪欲な恋を、はじめて知った。
昌也は社会人になってからしばらくすると山登りをしなくなった。仕事が忙しいとも、慣れるのに大変で余裕がないとも言っていた。就職して一年くらいたつ頃から、そういえば顔色も悪くなった。疲れやすくもなった。出かけていても、すぐに休憩するようになった。
ため息が増え、食欲がなくなった。尚子は何度も仕事を休むように進めた。有給はあるはずなのに、昌也はなかなかそれを使わない。いわゆるブラック企業ではないし、休みは取れるはずなのに、体調が悪くても職場に迷惑を掛けたくない一心で出社した。
そして、次第に尚子への連絡も遠のいていった。
あの日、別れを切り出した日、二十四歳の秋。丁度今から一年前、あれから昌也には会っていない。もう二度と会えなくなってしまった。
それを聞いたのは突然だった。就職してから縁遠くなっていた、サークルで仲の良かった紗江から突然連絡がきた。紗江は形式的な近況報告の後、電話口で躊躇いがちに聞いた。
「最近、有村君とは会ってる?」
誰にも昌也と別れたことは話していなかった。むしろ、その話題に触れなければならなくなるのが嫌で、誰とも連絡を取らなかったというのもある。
「・・・別れたの」
しかし今更嘘をつくことも出来ず、尚子は初めてその言葉を口にした。
別れた、なんて陳腐で当たり前でありふれた言葉だろう。こんなに簡単な数文字で永遠と思っていた四年の愛が終わったのだ。
「そう」
電話を通してでも沈痛な表情が伺える答え方だった。紗江とは仲が良かったし、昌也とも共通の友人でもあったのに、今まで言えなかったことに少し後ろめたい気持ちが湧いた。
「もう気にしてないの。社会人になって、環境も変わったし、仕方なかったのよ」
自分でも空々しいくらい明るい声が聞こえた。私は、こんな風に心を欺いて喋ることが出来たのだとはじめて知った。詐欺師になれるかもしれない。
それっきり沈黙が落ちた。てっきり軽い口調で返事が返ってくると思っていたので、当てが外れてどうしていいか間が持たない。先ほどの言葉が宙に浮いた状態になって気まずく感じはじめたとき、紗江が重たく口を開いた。
「別れたのって、いつ頃?」
「半年位前よ」
紗江は再び黙った。いつもは明るく軽快なおしゃべりで場を盛り上げる彼女らしくもない。話題が話題だけに、とも思うが、もう少し気の利いた返しもできそうなものだ。
「あのね、言うか迷ったんだけど、やっぱり知らせた方がいいと思って」
紗江の話し方には、慎重に言葉を選んで、私の反応を一ミリも見逃さないようにしようという気概がうかがえた。思わず尚子の心にも緊張が走る。なんだろう、浮気現場でもみたのだろうか、そんなありきたりで浅はかな想像まで過ぎった。
「先週、有村君を見たの。おばあちゃんのお見舞いに行った、病院で」
すぐに言葉は出てこなかった。確かに昌也は体調が悪そうだったし、そうでなくとも病院に行くくらい珍しいことでもない。健康診断だってある。
尚子がなんと返すか言い淀んでいると、決心したように紗江が告げた。
「有村君がいたのは、ターミナルケア病棟なの」
しんと頭の中が冷たい真空の闇に埋もれた。それきり何の音も、紗江の声も、携帯を握る手の感覚も、すべて失った。
終末医療、それがどんな意味を持つか、尚子だって知っていた。
一度だけ、病院へ行った。紗江の見舞いに付き添って、ほんとはどちらが付き添われているかもかわらなかったが、病棟へ足を踏み入れた。
病院内は白く清潔で明るくて、一つ一つの音がぴんと張り詰めていた。
そこに、昌也が、いた。遠目からだった。でもそれは昌也だった。四人部屋の、左の窓際。痩せて、蒼白い顔で、頭にはニットキャップを被っていた。見たことのない帽子だった。見たことのない人に見えた。
窓の外を見つめる横顔は、とても澄んでいて穏やかだった。クリーム色のカーテンが揺れていて、見つめる先には、遠く山の稜線が見えていた。山を、見ているのだ。昌也はあんなになっても、それでも山を見ている。
なぜそんなに山登りが好きなのか聞いたことがあった。昌也は少し照れながら、でもとても正直だと思える声音で笑顔を見せた。
「山はね、一つ一つ全く違うんだよ。人間と一緒で、色も形も匂いも、まるで違う。土の感触も、風の強さも、木々の表情も、まるで新しい誰かに出会っていくみたいなんだ。一歩一歩登っていくのは、知り合っていく過程で、頂上に辿り着いたとき、もちろんその景色も素晴らしいけど、なにより心を通わせられたような気がするんだよ。心からの友情を得たような。それがたまらないんだ」
それを聞いたとき、昌也らしいな、と思う一方で、すこし嫉妬した。山に対して。ここまで昌也を骨抜きにしてしまう山が、うらやましく思った。その意地もあってか、山登りを断っていたのかもしれない。
昌也のベッドの脇にあるサイドテーブルが見えた。写真建てが置いてあった。大人数で映った写真が飾られている。尚子は目を瞠った。サークルで撮った一枚だった。
昌也は写真も好きではなくて、二人で出かけても一緒に撮ることは少なかった。だから、それは唯一くらい現像された、二人が映っている写真だった。大勢の中で、こっそり肩を寄せ合い示し合わせて隣に並んだ。付き合いたてくらいの頃にとられた写真。まだ幾分若くて、屈託なくて、健康な二人がいる。
突然むせかえるような濃厚な思い出に包囲され、思わず後ずさった。写真の中の自分と昌也、そして今の自分と昌也。まだ手を伸ばせば届くくらいの時間なのに、どうしてももう届かない。その場所に不意に引き戻されそうになって、息が詰まり眩暈がした。当時の記憶を感じるほどに、二度と戻れない時間を余計に激しく痛感されられる。
もう戻らないのだ。昌也はあの時のようにはもう戻らない。このまま、ここでゆっくりと人生を終えていくのだ。山にも登れず、誰とも会わず。
昌也は私に病気のことを言わなかった。
ずっと具合が悪そうだった。顔色も暗く食欲もなく、虚ろに瞳は泳いでいた。頻繁に電話に立つことがあった。でもそれは、気分がすぐれなくてトイレに立つのを、誰かに電話を掛けるふりをしてごまかす為。
私は目の前にいたのに、昌也は蝕まれていく体と一人で向き合い戦っていた。どんなに心細くて恐ろしかっただろう。
あの日、「ごめん」」と言った時、昌也は振り向かなかった。嘘なんて付けない昌也は、私の顔を見て言えなかったのだ。しかしそれすら不貞の証だと疑わず、ただ絶望と侮蔑に塗れて去った私のことを、いったいどんな思いで見送ったのだろう。
昌也は気を使っていた。生きていること全てに。親戚家族が良くしてくれる、そんなこと、本当の家族には言わない。家族が良くしてくれるなんて言わない。その良くしてくれる家族は、在宅介護ではなく病棟を選んだ。高額なはずだ。昌也が自分で言い出したわけがない。昌也は孤独だったのだ。家族の中で、人の中で。何不自由ない暮らしを与えられていたとしても、どうしようもなく孤独だった。だから山に居場所を求め、救いを求めた。一心に山に憧憬した。
昌也は付き合っているときもずっと私に気を使っていた。両親がいない事に対しても負い目を感じていた。私は気づかないふりをした。そんなこと、何とも思っていなかったし、どうでも良かった。でも、昌也が気遣ってくれていることに気づかないふりをした。それが、美徳だとでも言うように。なんて傲慢だったんだろう。気づかないふりをして全てを享受し、返すことの責任からは逃げた。
尚子は両手で顔を覆ってかぶりを振った。
あれは昌也じゃない。そう思おうとした。
昌也の匂い、それは温められた乾いた土の匂い、大地の匂い、太陽の匂い。あの病院の、病的に清潔な消毒や、白いリノリウムの床の匂いじゃない。
昌也の愛した音、ヤマガラやオオルリの美しい鳴き声、力強い山風が揺らす大樹の葉音。あんな風に無機質な、規則正しい機械の音や、銀のシャーレに金属が触れる音じゃない。
私は昌也に声もかけず、そのまま逃げるように病院を後にした。紗江にもなにも告げず、後から追ってくるものが何も追いつけないように、けして捕まらないように、すべてを振り払うように急いで走った。
紗江からは何度も着信があったが、数回掛け直さないでいると、次第に連絡は遠のいた。
病院にはそれ以来行かなかった。昌也には会わなかった。
私は何も知らなくて、だから昌也は入院もしていない、病気にもなっていない。ただ心変わりして別れただけ。そんな昌也の優しい嘘を完成させなければと思った。私がそうすれば、昌也はきっと安心できる。
尚子はそう思おうとした。そう思い込むことに必死だった。
それから三か月後、紗江から連絡がきた。短く一文だけのメール。それを開ける指が、冷たくかじかんで震えた。長い間携帯を握り締めたまま動けなかった。部屋の時計の秒針が刻む音が聞こえていた。じりじりと、まるでゆっくり追い詰めるように迫ってくる。
尚子は目を瞑ったままメールを開けた。その文章を見たとき、はじめてすべてが現実になった。
昌也が、死んだ。
明け方、まだ暗い内に意識を失った。誰にも気づかれず、誰にも気づかせないで、眠るように一人で死んだ。死ぬ時まで、人に気をつかっていた。
昌也の持ち物は、着替えとほんの少しの現金、そしてサイドテーブルの写真だけだった。
たったそれだけ。つつましく控えめな、昌也そのものみたいに。誰にも迷惑を掛けないみたいに。あれほど孤独を恐れたのに、最後まで孤独であることを選んだ。
昌也は写真一枚に見守られ、一人で逝った。サークルの仲間と共に、私と昌也が並んで笑っている写真。昌也は最期にあの写真を見ただろうか。私を思い出しただろうか。
突然胸が締め付けられた。発作のように息が出来なくなり、体が揺れてその場に膝を付いた。寒くもないのに、全身が震えて止まらなかった。そして、足元にぼたぼたと落ちるものがあった。気が付いたら、大粒の涙が留まることなく流れていた。
まるで熟れたホウセンカの種のように、意志とは関係なくそれは勢いよく溢れ続ける。
上手く息が出来ず、嗚咽で喉が詰まって苦しさに床に突っ伏した。床が濡れて、水溜まりのように涙が広がっていく。どんどんどんどん広がっていく。
昌也が死んだ。死んでしまった。
たった一人で、孤独に逝った。たった一人で逝かせてしまった。
あんなに愛していたのに。知っていたのに。
尚子はぐしゃぐしゃになった顔を覆った。
もっと一緒にいたかった。
嗚咽が呼吸に追いつかず喘ぎ声に変わる。
昌也に生きていてほしかった。
昌也と生きていたかった。
昌也、心から愛していた。
どうして傍にいてあげなかったのだろう。
昌也の笑顔が見えた。はにかんだような表情、控えめないたわりの言葉。昌也の優しさ。
どうして手を握って、ちゃんと伝えてあげなかったのだろう。
あんなに孤独だった昌也を、あんなに愛しかった昌也を。
ほんとうはわかっていた。
辛い役目は全部押し付けて、自分だけ被害者になったふりをした。楽になろうとした。
私が昌也を一人にしてしまった。
ごめんなさい昌也、一人で逃げてしまって。
ごめんなさい、一緒にいてあげられなくて。
昌也、昌也
ごめんなさい
いつの間にか、泣いていた。名前も知らないバーのカウンターで、初めて会った少年のバーテンダーの前で。
尚子は最後の理性を絞り出して涙を拭った。
「ごめんなさい、急に泣いたりして」
ハルはカウンターの奥で優しく瞳を緩ませた。とても深く、碧い瞳にすべてを抱擁され、頽れそうになる。
「魔法を、承りました」
柔らかな声が室内の空気を包んだ。
ハルはカウンターに背を向け、その後ろの棚を見上げた。
尚子はぼんやりと涙の奥でその動作を追う。そういえば、棚には美しく磨き上げられたグラスがたくさん並んでいるが、酒瓶らしきものは一本もない。
ハルは何もない棚の中に手を伸ばした。すると、いつの間にかその手には一本のボトルが握られていた。そのボトルをカウンター内の台に降ろすと、同じようにもう一度棚に手を入れた。そしてまた別のボトルを取り出す。
尚子は呆気に取られて半分口を開けたままその様子を見つめた。
ハルはなめらかな動作でメジャーカップを取り出すとシェイカーへ二種類の瓶の液体を注ぎ、氷を入れた。そしてシェイカーを振る。それはとても優しく、快い音をたて、尚子の心のひだをふんわりと埋めていく。まるでハクセキレイの鳴き声のように、瑞々しく愛らしく、あたたかに室内の空気を震わせる。
ハルは足の細い美しいカクテルグラスを取り出すと、シェイカーを傾けた。光を帯びたような、銀色の液体がグラスを満たしていく。尚子はその光景に魅入った。
スローモーションのように、その流れの筋が輝き落ちていく様がはっきりと見て取れる。ハルは最後に軽く優雅に雫を切り、コースターに乗せたグラスを尚子の前に差し出した。
暗褐色のコースターに、金色の筆記体で流麗な文字が描かれていた。「tierra」ティエラ、ようやく店名を知った。
尚子は引き寄せられるようにグラスの中に視線を落とす。
「どうぞ一夜の魔法の夢を。”ギムレット”です」
心に沁み渡るような優しい声が響いた。
「このカクテルはあなたの為の特別調合です。安心してお召し上がりください」
ハルが微笑んだ。アルコールに強くない尚子が、度数の高いショートカクテルに気後れしたことをすっかり見破られていた。ほんとうに不思議な子だと感心する。
尚子はグラスに手を伸ばした。そして、ゆっくりと一口啜る。
喉を伝う清冽な刺激。しかしそれは、とても透明で濁りなく真っすぐで、鼻を抜けると森林のような香りの余韻が残った。
尚子は目を閉じる。なにか、なにかを思い出そうとしていた。
しまいこんでいたもの、その形が、ゆるやかに浮かび始める。
大学に入って、はじめてのサークルの登山で道具が無くて、昌也にいくつか貸してもらった。まだサークルにもほとんど顔を出していなくて、そればかりか知り合ったばかりで、だけど昌也は驚くほど親切に、大切にしている道具を使わせてくれた。
結局登りきることが出来ず、昌也が下山を指導して一緒に降りた。そのあとで借りていた道具は返したが、一つ返しそびれていたものがあった。どこにしまったか、それ以来ついに登山はしなくて、すっかり忘れていた。返す前に洗濯しようとして、ただ洗い方が分からなくて、なんとなくのばしのばしになって忘れていたもの。
帽子だった。つばの広い、顎ひもの付いたカーキ色の帽子。尚子の持っていたバケットハットでは頼りなくて、昌也が貸してくれたのだ。
尚子は心の奥でその記憶を辿っていく。返そうと思っていたけど、結局付き合うことになって、それなら急いで返さなくてもいいかと思い直して、それでまた忘れてしまっていた。
しかし昌也が忘れている筈はなかった。あんなにも持ち物を、道具を大事に使っていたのだ。帽子一つにしたって大切だったに違いない。でも昌也は返してほしいとは一言も言わなかった。もしかしたら、また一緒に山に登るときが来るかもしれない、そう思っていたのかもしれない。
尚子はいつのまにか自分の部屋の中にいた。そして導かれるように寝室に移動し、クローゼットを開けると上段の棚に手を伸ばした。目線は届かないが、つま先立ちして奥まで探ってみると、指先がなにかに触れた。
そろそろと引っ張り出す。カーキ色の、サファリハット。昌也の帽子だ。
尚子は両手で帽子を持つとじっと見つめた。それからゆっくりと胸に抱きしめた。
昌也の匂いがした。鼻先に、胸の奥に、むせ返るほど濃密に、昌也を感じた。
太陽の香りを吸い、温かく乾いた大地の匂い。風にそよぐ深緑の木々の匂い。昌也の匂い。
昌也。昌也がいる。昌也はこんなにも近くにいる。
尚子は深く息を吸った。帽子を抱きしめたまま、微笑んで泣いた。
山に登ろう。
尚子は濡れた瞳を天井に向けた。
昌也と登ろう。今度はちゃんと頂上まで、一緒に行こう。
そして昌也と、もう一度向き合おう。
昌也の愛した山で、昌也と二人で。
あったかくて優しくて、孤独を恐れた昌也。
一人きりで逝ってしまった昌也。
ずっと忘れない。ずっと傍にいるよ。
たとえこの先誰と恋をしても、子供が生まれても、おばあちゃんになっても。
いつかまた、一緒に登った山の上で会おう。
昌也はきっと、そこにいる。
バーの灯りが落ち、扉は影となって消えた。
今宵も魔法が溶けるとともに、閉店の時間を迎える。
「ギムレット、綴じられた言葉は、″遠い人を想う″」
ハルは空になったグラスを取り、誰もいなくなったスツールを、静かに見つめた。




