第十一話 大聖堂からの帰路
凍てつくケルンにて「ティームワーク」による勝利を飾ったレーとリンは、意識不明・重体のオダストロをパトリックへと引き渡すため、その場を離れようとしていた。
二人とも『灰』まみれで、レーは負傷、リンは『滅びの旋律』の後遺症で、未だ走るのがやっと程度の体力しかなかったが、彼らの心は達成感で満ちていた。
その時のレーの心情は、どんなものだったろうか。
突然目覚めた『能力』———『冷寒』の力。氷に包まれたケルン。白い大地を照りつける正午の太陽。やっと手に入れた平穏。ボロボロで、ロングの赤髪も半分くらい『灰』となってしまったが、こうして共に生き抜くことのできた仲間、リン……全てが先程の戦闘の凄惨さを想起させるものだが、今はそれよりも、血と灰の後に芽生えた希望としての美しさが強調されていた。
———空気を切り裂き、何者かがケルンに降り立った。
「おぉ。レー先生じゃねえか。よお、久しぶりだなぁ。オイ。」
レーは背後から声がかけられる。その声は低く、しかし妙に滑らかな声だった。
リンも、レーもその声に心当たりはなかったが、ただならぬ雰囲気を感じさせるその声に冷や汗を流した。
レーたちが反応できずに固まっていると、男は再び声をかけてくる。
「聞いてんのか?オイ。」
レーの肩が掴まれる。そのまま、その男はぐいっとレーの肩を引き寄せ、レーと目を合わせてくる。
その見た目は明らかに異質だった。
目付きの悪い細い切れ目にシュッとした鼻筋、刈り上げた髪の色は黄褐色。レーの肩を掴んでいるその左腕の手の甲にはドクロのタトゥーが刻まれており、その目の部分がレーを睨みつけているようで不気味だった。
全身に目をやると、平均的な身長のレーより一回り大きい体格。体型は標準だが、纏う雰囲気には弱さなど微塵もなく、むしろ圧倒的なまでの力が左腕からもレーに伝わる。加えて、レーやリンを見下ろす獣のような真紅の瞳からは明らかに狂気が見え隠れていた。
その見た目を形容する言葉は、悪鬼。
その二文字が異様にしっくりとくる風貌の男は、レーに向けて鋭い眼光を向けながら言った。
「やっぱり、レー先生じゃねえか。会えて嬉しいよぉ、俺はなぁ。」
レーのことを明らかに認識している口ぶり。
レーもリンも必死に男のことを思い出そうと、記憶を探っていくが、思い当たるフシはない。
そして、先程よりも強い異次元の威圧を感じる。さっきまで戦っていたオダストロなど比にならない程に。
ただただレーが感じていたのは『死』。この男こそが、『死』の中心にいる。
「なァ、そろそろ喋らねぇか?うんともすんとも言わねぇのは面白くねぇんだわ。」
恐怖。レーが感じていたのは根源的な恐怖だった。答えなければ殺されてしまう、そういう強迫観念がレーを襲う。しかし、レーの口は言葉を紡ぐことはできない。あまりの焦りと緊張から紡ぐべき言葉も考えられない。レーはそういう状況に陥った。
「ふーん、まァ、喋らねーならいいわ。そのまま食うから」
そう言って男はレーの髪を掴み、持ちあげる。
そのままレーの首筋へ大きく口を開けかぶりつく。
レーは思考する。このままでは殺される。死ぬ。レーの脳が人生史上最大の危機を知らせる。
レーの首にはついに、男の歯が食い込む。
しかし、すんでのところで男はレーに食らうのを止めた。そして、男は嗤いながら軽々しい態度を崩さずに言った。
「おっとぉ。生きたまま食うのは可哀想か。オイ、殺してからにしてやろうじゃねえか。」
「ちょっと……まって……よ。あんたは誰……なの?いきなり人を……襲って……」
口を挟んだのはリン。彼女はひどく怯えながらも果敢に声を出し、それが男との最初の会話だった。
「俺が誰かァなんて、そこのレー先生に聞くんだな。覚えてねぇはずがねぇからな。」
レーはこの場で何と言えばいいか分からず、困惑していた。しかし、リンと男が問答を始めたことで、レーも口を開く勇気が湧き上がった。
「私も……お前が誰かは……知らない。」
「あぁ!?俺のことを本当に覚えてないだと?」
自身のことを覚えられていなかたのが、気に食わなかったのか男は声を荒らげ、憤りを見せる。
「なぁ、ロケット・レーさんよぉ、あんたオツムが弱くなっちまったのかぁ?そっちの女の方は知らねぇが、レー先生が忘れるはずぇだろぉ?あんなに殺りあった仲なのによぉ。」
「んー、殺りあう……?一体どういうことなんですか?」
男は最初、呆然としていたが、みるみるうちに顔が赤くなり、ついに激昂した。
「俺をコケにするのもいい加減にしろ!! 俺はぁ、エノキウス・カウセイ様だぁ。」
その叫びを聞いたリンは、はっと顔を上げる。
「聞いたことがある……至聖神学校の生徒会で語り継がれる、至聖神学校史上最悪の問題児がその名前だったはず。」
「ふぅ、そうか。そうか。俺の栄光はまだ、失われていないようだなぁ。まぁ、もうレー先生の記憶なんざどうでもいい、いい機会だぁ、あのときのお礼参り果たさせてもらうぜぇ。」
男はそう言い終わらないうちに動き、足の筋肉が一瞬隆起したかに思われた。
神速。レーが防御をしようと氷の盾を発動する前にレーを吹き飛ばす。
「まさか、レー先生ともあろう方が、俺の不意打ちを食らうなんてなぁ。先生、あんた鈍ったかぁ?
やめてくれよぉ、すっげぇ白けるからよぉ。」
レーは困惑していた。突然、名も知らぬ相手に話しかけられ、今では攻撃を受けている。この状況を打開しようと、どうにか足掻くが、エノキウスはあまりにも強い。レーへ反撃の隙を与えずに次々と、攻撃を仕掛けてくる。
殴られ蹴られ、吹っ飛ばされて地面に叩きつけられたレーは、既に大量の傷を負い、血を流している。しかし、彼は『冷寒』の力で傷口を強引に塞いでエノキウスの前に立ちふさがった。
(ここでリンを逃さなければ……エノキウス、こいつの強さは異常だ……)
彼はリンの横を通り過ぎ、エノキウスへと飛びかかる。その際、一言「逃げろ」と彼女の耳元で囁いた。
リンはその言葉を咀嚼するのに時間がかかった。しかし、レーの緊迫した顔、深手を負っていたオダストロを見て、自分はこの戦いに参加する資格はないのだろうと感じていた。
(レー……先生!ごめんなさい……絶対、助けに行くから……)
「死なないで、レー先生……」
リンはそう小さく呟いて、その場を離れようと動き始めた。
「そうだな、逃げるのが正解だと思うぞ、女ァ。コイツのよぉ……レー先生の短い時間稼ぎを、無駄にしねぇためにもなぁ!」
レーを置いて逃げる罪悪感に心を押しつぶされそうになり、リンは思わず青の瞳に涙を浮かべる。しかし、彼女はオダストロを抱えてパトリックのもとへと向かい、なんとしてでもレーを救いに行く覚悟を決めた。
逃げることしかできなかったリン。
パトリックのもとへ向かいます。