第7話 俺の名前は!
翌朝、さっそく引っ越しがはじまった。
昨夜はかなり遅い時間までフェンリル父さんが人間に化けて洞窟を出入りしていた。
おそらく引っ越し先の下見をしてきたのだろう。
ああ、ああ……ついに、ついにこの洞窟を出るのだ。
いまの俺のこころの中を映したかのように、空はどんよりとしている。
昨日スキルを使ったり全力で泣いたりと頑張ったから疲れているのもある。しかし、それ以上に動揺していた。
だって仕方ないじゃん。
最強だと思っていたフェンリルとドラゴンがそれほどでもなくて、天国だと思っていた洞窟からいますぐ出ないといけなくて。
想定外の出来事が続いて、さすがの俺でもどんよりする。
ああ、いつか剣士になって洞窟を出る日がくるかもしれないなんて夢を見ていたが、さすがにいまじゃない。はやすぎる。
俺、まだ寝返りすら習得してないんだぞ!?
うう、うううう……! 悔しい、平和ボケしていた俺が悔しいっ。
あのふたりのハンターが近くでドラゴンを探していたことなんて、それこそ生まれた日から知っていたのに……!
なんとかそれをドラゴン兄さんに伝えられていればっ……!
うじうじしている俺を抱きかかえて、フェンリル母さんとドラゴン兄さんは、どんよりとした空の下、断崖絶壁を駆けのぼり、それから人間に化けて森の中をずんずん進んでいる。
そういえば母さんの人間バージョンははじめて見た。
人型の彼女は茶色くてまっすぐな髪に金の瞳、そして陽によく焼けた肌をしている。
目はきりっとつりあがり、頬にはそばかすが浮いていた。
彼女の声にはいかにもオカンといった印象があったが、人型の方は声よりずっと若く見える。
ふたりはシルヴァが俺を抱き、母さんがミイを入れた木箱を背中に背負っている。
話を聞いたかぎりだと、引っ越しのために大人(成獣?)たちは何度か往復することになるようだ。
1回目は母さんと兄さんが俺とミイを運ぶ。父さんは洞窟で留守番。2回目は父さんと母さんとドラゴン兄さんで、残りのロイ、ピイ、サイを運ぶ……らしい。
――もしかして、この計画だと、引っ越し先で俺とミイだけでお留守番する時間がある……?
……大丈夫だよな?
いやいや、なにを弱気になっているんだ! 俺! だめだぞ!
なんにも心配いらない。まかせてくれ。
途端にうじうじしていた気持ちが吹っ飛んだ。
だってだって、俺の出番!
ミイ、安心しろよ。俺、赤ん坊に見えるけど、実はけっこう大人なんだぜ?(17歳)
例のハンターが来たら、俺の必殺ギャン泣きで追い払ってやるよ!(0歳)
【天眼】で木箱の中に入れられたミイのようすをうかがうと、彼は呑気に爆睡していた。口からはしまいわすれた舌が飛び出している。
……大物になるぞ、この子は。
ほんとうはスキルは温存しておいて、なにかあったときに使えるようにしておいた方がいいのかもしれない。
でも! そんなことできない!
だってはじめての外出だぜ? 見たいよ、いっぱい! あの洞窟からは森しか見えなかったんだもん! 異世界ファンタジーをもっと見たい!
森を抜けると、遠くに城壁に囲まれた街が見えた。
おぉ、赤い屋根の家がいっぱいだぁ~。かわいい。
そういえば、こちらの世界ってどれくらいの発達度合いなんだろう。
文明とは距離を置いた生活をしていたから、そのへんがまだわからない。
ただ、ハンターが武器を持っていたことを考えると、なんていうか、ほら、それくらいの発達度合いってことだろう。
ええっと、銃だから……確か1543年に日本に鉄砲伝来だったよな?
覚え方は『以後予算(1543)が増える鉄砲伝来』だ。
関ケ原の戦いが1600年だから、まぁその前ってことか。
身分制度や法律なんかは整備されてて~って感じか?
日本の歴史が比較対象でいいのかわからないが。
ヨーロッパならもう少し発展している頃か? いや、魔女狩りしてた頃か?
わから~ん。俺は歴史より断然生物の方が好きだ。
なんて、ぼんやりと前世の知識を引っ張り出していたら……。
あれ??? ドラゴン兄さんと母さん、街に向かってないか????
え??? いいの???? 街に行くの??
俺の動揺をよそに、ふたりはどんどん街に近づいて、城門をくぐって街に入った。
――まじかで見る人間の街は、絵本みたいだった。
うぉー! かっわええ。
石畳に、煉瓦の家に、赤い屋根。煙突なんかあったりもして。
窓にガラスがはめられている家、窓辺に花を飾っている家。
うんうん、めっちゃめちゃかっわええ。
俺が思わず「だぁ……!」とつぶやくと、俺を抱いているドラゴン兄さんも「ああ、かわいい……!」と言った。
うんうん。ドラゴン兄さんもやっぱりそう思うよな?
かわいいよな、この街!
ふたりは迷うことなく道を進み、ひとつの建物に入っていく。
その建物は三階建てで、一階部分には看板を掲げている。
……うーん、予想していたけど、こっちの世界の文字、よっめねぇ……。
文字は勉強しないとダメそうか……。これは大変そうだぞ。
中に入ると、そこがなんというかギルドっぽい感じだった。
ゲームでよくあるような依頼書が貼り出されている掲示板に、荒れくれどもが酒を飲む用の武骨なテーブルセット、そしてかわいい看板娘――は愛らしい感じの老爺だった。多様化の時代。
彼はレースのスカーフを被って、湯飲み片手に受付っぽいところに座ってにこにこしている。
そんな小柄な受付爺の後ろから、長身の男がぬっとあらわれる。
彼は明るい青の目に、黒い髪、眉根を寄せて、どこか神経質そうな顔立ちをしている。
なんとなく、高校の生徒指導の先生に似た空気を感じて、俺は背筋が伸びた。
ドラゴン兄さんはその男に駆け寄った。
「シアン」
「シルヴァ。昨日ジェイから話を聞いた。大変だったな」
「ああ……しばらく置いてもらえるか」
「無論だ。好きなだけいればいい。もちろん、フェンリルたちも」
「助かる」
「人間は我々が人間に化けることを知らない。街は安全だ」
まじ???
人間に化けてること、人間は知らないの???
なら、街ってまじで安全じゃん。
それになにより、協力者もいるのか~。我々って言ってるな。この人もフェンリルかドラゴンなのかな。
しかし、ああ、よかったよかった。思ったよりずっといい隠遁生活の予感。
ふひーと息を吐くと、男――シアン、だっけ? が俺をのぞきこんできた。
「それで、この子が?」
「ああ」
「名は?」
「……」
はじめましてシアンさん! 俺、いまのところ名無しの権兵衛です!
俺はにぱあっと笑う。
いい人には笑顔を。これはプロの赤さんとしての大事な仕事だ。
しかしシアンは俺の悩殺スマイルに口元を緩めもしない。
なんてこった、この世に赤ん坊スマイルが効かない相手がいるとは……!
「名がないのは不便ではないか?」
「そうだが、私が決めていいものかどうか……」
「ああ、なら、スイが決めればいいのでは?」
母さんが首を振る。
「……悩んでいるんだよ。あたしは人間の名前なんて知らないんだから」
「人間らしい名がいいのか?」
「それがいいと思うんだよ。この子が大きくなったときに人間として生きる道も残しておいてやりたいのさ。……そうだ、シアン、あんたが決めてやってよ」
「よいのか?」
「もちろんさ。名づけ親ってやつさ。フェンリルでいうなら、名づけ親ってのは両親に何かあったときに引き取る義務があるからね」
「それは責任重大だ」
な~んか、俺の名前について話してる?
俺、ついに名前をもらえる感じ??
わくわく! ついに……!
「……少し考えよう」
「じっくり考えな。いい名をつけてやって」
うおお……。
肩透かしを食らった気分……!
かっちょいい名前を頼むぜ。
「行こう。通りの向こうに家を用意している」
そうしてシアンに案内されたのは、街にあるこじんまりとした二階建てテラスハウスだった。
その一番端の部屋が、俺たちの新しい家になるらしい。
中をみると、日本でいうところの4LDKというやつだった。
ダイニングキッチン、リビング、そして二階に部屋が4つ。
……なんていうか、めちゃめちゃいいな。
最高じゃん。
洞窟もよかったけど、こっちはこっちで天国か??
母さんはしみじみと言う。
「ほんと、悪いねぇ。こんないい家を用意してもらって」
「子育て中の眷属を助けるのはよろこびだ。しかし、不便は不便だ。カーテンはあけないように。不埒な輩に覗かれて子どもたちの姿を見られると面倒なことになる」
「わかってるよ。……育ち盛りの子どもたちのことを考えれば、山で育ててやりたいけどねぇ……」
しんみりとした空気になる。
あー……そっか。ごめんよ。俺、自分のことしか考えてなかったけど、そっか。
フェンリルキッズたちはまだ人間に化けられないから、しっかり隠遁生活になるのか。
くぅ~……やっぱりあのハンターたち、許せん。
あいつらには絶対に俺の赤ん坊スマイルは見せてやらん。キッズたちのぷにぷに肉球にも触らせてやらん。ぜぇえったいだ。
シアンは手を叩いてその空気を払しょくすると、ドラゴン兄さんに尋ねる。
「それで? 襲撃していたハンターはどこに?」
「断崖の近くにまで来ていた。探知魔法を使っているかもしれない。あと、捕獲魔法を使う。それに捕まって、もうだめかと……」
「眷属たちにもしばらく警戒するように知らせをだそう。……それにしてもシルヴァよ、よくその状況から逃れられたな」
「……この子に、呼ばれた気がして……」
ぷに。
ドラゴン兄さんが俺の頬をつつく。
ぷにぷにぷに。
おいおい兄さん。どさくさに紛れて俺のほっぺを堪能してないかい??
シアンはそれを見て眉根をぎゅっと寄せた。
ほら、真面目な話をしてるときにそんなことをするから、反応に困ってるじゃん!
シアンは気を取り直して尋ねる。
「ああ。そうか……何か見たか?」
「見た?」
「番に呼ばれたら、何かを見るものだ。私も呼ばれたときには毎回見る」
「……光の中にいるこの子を見た」
シアンは小首をかしげ、目を瞑った。
そして二拍。
彼はゆっくりと口を開いた。
「リゲルだな」
「リゲル?」
「星の名だ。お前の光になるように。――この子の名にどうだ」
――リゲル。
星の名前。
俺の前世の名前である「ヒカル」にも通じる。
うん、うん。いいじゃん、いいじゃん! なにより、かっちょいいじゃん!
俺、リゲル!
「だあ!」
「いいんじゃないかい、この子、よろこんでるよ。ねえ、シルヴァ?」
「……はい。リゲル……いい名です、ほんとうに」
名づけ親ってことは、まさにゴッドファーザ―だ。
よろしくな、ゴッドファーザー・シアン!
俺は赤ん坊として精いっぱいの感謝の意を伝えるために両手を伸ばして「きゃっきゃ」と笑ってやった。