1.2 壁の向こうの少年
屋敷の裏庭。
その先には、“表”には決して存在しない光景が広がっていた。
鉄製の搬入ゲート、ざらついたコンクリートの壁。
そこは、清掃業者や下請け作業員たちの動線――
上級国民の目に触れることはない、“屋敷の裏側”だった。
「悠真様、裏には行ってはいけません」
「汚れるだけです」
「身分の違う人々とは接点を持たぬように――」
これまで、使用人たちは誰もがそう言っていた。
でも、悠真は気づいてしまった。
壁の向こうにも、ちゃんと人が生きていることを。
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少年がいた。
身なりは作業服、肩にはタオル。
ヘルメットを外した髪は汗で張りつき、素手でダンボールを運んでいた。
年齢は……たぶん10歳前後。
それでも、どこか大人びた雰囲気をまとっている。
「……あの、ちょっといいかな」
そっと声をかけると、少年はビクリと肩を震わせた。
そしてこちらを振り返ると――なぜか、全力で走って逃げ出した。
「えっ、逃げた!? まだ何もしてないけど!? 通報案件!?」
咄嗟に追いかけようとした悠真だが、そこは5歳児の体。足がもつれて見事に転んだ。
「うおっ、危なっ……って、あ゛っ!!」
着地と同時に転がり、真っ白なスーツに見事な泥染め加工が施された。
しかも手をついた先には、ぬるりとした何か。
(これ……土じゃない、肥料だ。牛糞混じりのやつ……)
静かな絶望。
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「悠真様ああああああ!?!?!?!?!?」
気づいた使用人たちが悲鳴をあげるように駆け寄ってきた。
「泥を……泥を触られてしまわれた……!!」
「着替えと除菌、今すぐ! 専属医も手配を!」
もはや軽いバイオハザード扱い。
騒然とする使用人たちを横目に、悠真は小声で呟いた。
「……なんか、懐かしいな。あの匂い」
前世で、ボランティア先の畑で肥料をまいたときのことを思い出していた。
(あの時も、誰かが「臭いねぇ」って笑ってたっけ……)
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結局その日は、お稲荷さんの神棚にまで「消臭用アロマパウダー」が焚かれる始末だった。
「……ごめん。お稲荷さん。巻き込んじゃって」
祠の狐の置物は、何も言わない。
けれどどこか、笑っているように見えた。
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翌日。
悠真は、こっそり裏門の前に**“メモ”を置いた。**
誰にも見られないように、小さな紙切れと、小さなお菓子の袋を添えて。
《昨日、びっくりさせてごめんね。また会えたら、名前を教えてください。
それと、落としたお弁当の代わり。たいしたものじゃないけど、よかったら。》
その字は震えていたけれど、
確かに人と人をつなごうとする、最初の“行動”だった。
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その夜。
子供向け学習用端末画面に打ち込んだキーワードは――
「格差社会 子ども支援 教育格差 匿名プロジェクト」
「やるなら、ちゃんとやらなきゃ意味がない」
眠る前、神棚の前で手を合わせる。
「今度こそ、ちゃんと“届く”仕組みを作る。僕だけが、知ってるから」
その祈りに、狐の目が静かに光った――気がした。
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笑って、泣いて、泥にまみれて。
檻の中の少年は、確かに外の世界と、つながりはじめていた。