1.1 会わない生活
「悠真様、明日の交友予定ですが、赤坂財閥のお孫様と、その後は元外務大臣家系のご子息とのご面会がございます」
「……うん。わかりました」
スケジュールを読み上げるのは、情報管理も担当する教育係・近衛先生。
彼は幼稚園教諭から高等学校主要5科目の教員資格に加え、旧宮内庁の礼法を継承する教養資格まで持っている。
要するに、五歳児相手に外交官レベルのスケジュールを管理してくる“エリート教師”だ。
(そもそも、五歳ってこんなにスケジュール詰まってるもんだったっけ……?)
悠真は心の中で小さくツッコミを入れながらも、無表情を崩さずに頷いた。
この世界では、「同級生」という言葉はほとんど存在しない。
出会うのはすべて、政財界の血筋、医師一族、歴史ある士族の末裔など、徹底的に選ばれた子どもたちだけ。
つまり、“下級国民”と出会う機会は、この生活の中には存在しない。
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例:
公園 → 上級国民専用(要家族コード)
学校 → 特権教育施設(一般立入禁止)
病院 → 家庭医が常駐、外来は使わない
買い物 → そもそも外出しない。専属バイヤーが代行
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(まるでサファリパークのホワイトライオン。そりゃ下界に降りることもないよね)
悠真は、内心でそう皮肉を呟いた。
言葉にしなければ誰にも伝わらないし、誰も疑問に思わない。
朝の読書を終えた頃、何気なく交わされた使用人同士の会話が耳に入った。
「今朝、納品に来た清掃業者の子が、軽トラの荷台でお弁当を落として泣いてたそうで……」
その一言に、悠真の箸が止まった。
(……子どもが? この家に?)
その後、話題はすぐに上級用の栄養スープの話に切り替わったが、悠真の耳には残り続けていた。
それは、“絶対に存在しない”とされていた現実が、偶然に顔を出した瞬間だった。
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夜。悠真は、部屋の隅にある小さな神棚の前に座った。
白木の棚には、手のひらサイズの狐の置物と、稲荷神社の小さな模型が置かれている。
これを作ったのは、物心つくかどうかの頃――「なぜか懐かしい」と感じて、両親にねだったのがきっかけだった。
いまでは、彼にとって一日を締めくくる“習慣”となっていた。
「お稲荷さん……その子、泣いてたんだって。僕、何もしてあげられなかった」
誰にも届かないつぶやき。
ただ、静かに風がカーテンを揺らすような気がした。
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翌日。
使用人の出入り口がある裏手の通路――普段なら絶対に近づかないエリア。
悠真はこっそり、その隙間から中を覗いた。
そこにいたのは、泥だらけの作業着を着た少年。
ツナギに汗と土。手には道具、背中には「外注清掃」のマーク。
年は少し上。小学校中学年くらいだろうか。
彼は荷物を運びながら、時折手の甲で鼻をこすっていた。
(本当に、いたんだ)
心臓が跳ねた。
それはまるで、前世で母が「おにぎり、食べたいねぇ」と呟いたときのような、胸の奥が痛む感覚だった。
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「ねぇ、君……名前は?」
思わず声をかけた。
少年はこちらに気づくと、驚いたように目を見開き、何も言わずに走り去った。
「……え、逃げられた。僕、怪しかった……?」
内心ツッコミを入れる間もなく、すぐに執事の早川が現れた。
「悠真様、あの区域は立ち入り禁止でございます。ああいった者たちは、あなた様の世界とは無関係です。ご理解くださいませ」
「……“無関係”って、どういうこと?」
悠真の問いに、早川は一瞬だけ無表情になった。
だがすぐに、整った笑顔に戻り、静かに頭を下げた。
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この日、悠真の中で何かが、静かに動き出していた。
完璧で、整いすぎていて、誰も疑問を持たない世界。
だけど、その世界の外で、泣いている子どもが確かにいた。
それが、何よりも重かった。