第1章「檻の中の優等生」 – 1. 目覚めと違和感
朝陽が、天井のアーチ窓から差し込んでくる。
カーテンは自動で開き、室温は常に最適に保たれている。空気は澄みきり、ほんのりバニラとラベンダーが混ざった香りが漂っていた。
「悠真様、お目覚めでございますか」
重厚なノックと共に、ドアが開く。入ってきたのは、葉山家の筆頭執事――早川恭一。
端正な白髪、姿勢は常に直立。国家資格の上級執事資格に加え、家庭教育指導士や礼儀作法師範の免許も持っている、まさに“プロ中のプロ”だ。
その背後には、同じく高度な資格を持つ世話係たちが並ぶ。
栄養学と食育の専門資格を持つ食事管理係、初等教育課程を修めた補助スタッフ、心理ケアの資格を持つ表情穏やかな若い女性――
どの顔も、どの所作も、完璧で美しい。
「本日は気圧も安定しており、日差しも柔らかでございます。健康状態も良好と記録されておりますので、午前中は中庭での読書とフランス語レッスンをご提案いたします」
悠真は、小さく頷いた。
「……ありがとう。任せるよ」
口調は穏やかだが、内心は複雑だった。
(ここは……やっぱり、おかしい)
悠真――葉山悠真は、前世で40歳まで生きた男だった。
就職氷河期の煽りを真正面から食らい、非正規雇用を渡り歩くような人生。
父は災害で亡くなり、母はアルツハイマー。人生は崩れ、すべてを終わらせるしかなかった。
だが、命を絶ったその瞬間、近所の朽ちたお稲荷さんが囁いた。
「ひとつ、来世をやろう。ちぃとばかり、ええ環境でな」
その言葉通り、彼は転生した。
今度は、代々総理大臣を輩出する超名門――葉山家の長男として。
金も、教育も、未来も約束された立場。
だが、それは“檻の中の理想”にすぎなかった。
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朝食は、低温調理の和牛フィレ肉のサラダ仕立て。
フォークを持つ前から、体温、脈拍、ストレス値が測定され、
食材は一口ごとに管理された記録と照らし合わせて摂取される。
「今朝のエネルギー摂取目安は1,050キロカロリーです。脂質調整済みですのでご安心くださいませ」
食事係の女性が、完璧な笑顔で説明する。
だが、悠真の手は、一瞬止まった。
(こんなに“何もかも整ってる”世界が、ほんまに正常なんだろうか)
その問いは、誰に向けたものでもなかった。
ただ、ずっと胸の奥に残り続ける違和感――
それは、かつて財布に十円玉しか残っていなかった日の“空腹の重み”が、今も心に貼りついているからだ。
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「悠真様。お食事のあとには、お気に入りの読書の時間がございますね。昨日の続き、『リーダー論:三歳からの統治美学』を読み進めましょうか」
「……うん。ありがとう」
何ひとつ不足のない日々。
誰もが丁寧で、笑顔で、完璧に接してくる。
だけど――それが、“完璧な嘘”のように感じる瞬間がある。
この世界の誰もが、正しい。
この世界の誰もが、間違えない。
だから、誰も本当のことを言わない。
悠真は、そんな檻の中で、今日も穏やかに微笑むしかなかった。