プロローグ「来世に託す願いと、お稲荷さんの導き」
十円玉がひとつ、畳の上を転がる。
止まった先には、ひび割れた茶碗と、干からびた昆布が一切れ。
「……おにぎり……たべたいねぇ……」
寝たきりの老母が、うわ言のように繰り返す。
彼女の目はもう、息子が誰なのかもわからない。
葉山義久、40歳。就職氷河期世代の下級国民。
新卒で正社員の道を断たれ、派遣、アルバイト、短期契約を渡り歩くように生きてきた。
やっとのことで契約社員になった矢先――
大型地震が父を奪った。
インフラ整備の現場で作業中だった父は、土砂崩れに巻き込まれて帰らなかった。
「お前がそばにいてくれて、助かるよ……父さんが逝ってから、もう、わたしにはあんただけなんだよ」
それが、母の口から聞いた最後の“まともな言葉”だった。
その日から義久は、正社員になる道を完全に閉ざし、母の十円玉がひとつ、畳の上を転がる。
止まった先には、ひび割れた茶碗と、干からびた昆布が一切れ。
「……おにぎり……たべたいねぇ……」
寝たきりの老母が、うわ言のように繰り返す。
彼女の目はもう、息子が誰なのかもわからない。
葉山義久、40歳。就職氷河期世代の下級国民。
新卒で正社員の道を断たれ、派遣、アルバイト、短期契約を渡り歩くように生きてきた。
やっとのことで契約社員になった矢先――
大型地震が父を奪った。
インフラ整備の現場で作業中だった父は、土砂崩れに巻き込まれて帰らなかった。
「お前がそばにいてくれて、助かるよ……父さんが逝ってから、もう、わたしにはあんただけなんだよ」
それが、母の口から聞いた最後の“まともな言葉”だった。
その日から義久は、正社員になる道を完全に閉ざし、母の介護にすべてを捧げた。
助けを求めても届かない社会。
手を差し伸べる者など、どこにもいなかった。
唯一残ったのは90歳の母と、電気もガスも止まった小さな一室。
冷たい床。
濡れタオルを巻いてしのぐ体臭。
財布には、今、十円玉が一枚。
おにぎりひとつ、買えなかった。
それでも、生きていた。
ただ、それが「生きている」と言えるのかは、わからなかった。
⸻
ある晩、母が目を開いた。
「お願い……殺して……わたしを……あんたが終わらせて……」
その瞬間、彼女の瞳は、奇跡のように澄んでいた。
息子の顔を見ていた。確かに、息子としての“自分”を認識していた。
義久は、泣きながら包丁を手に取った。
母の胸元に、ゆっくりと差し込む。
「ごめんな、母ちゃん……」
その手は震えていた。だが、それは彼の愛と祈りでもあった。
⸻
風呂場で、古びたロープを握りしめる。
これで終わりだ――そう思った、その時だった。
どこからか、鈴の音が聞こえた。
ふわり、と柔らかな風が室内を舞う。
そして現れたのは、いくつもの青白い光。
その光の中央に、ひときわ強く輝くひとつがあった。
「……義久。ようよう、ここまでがんばったなぁ」
懐かしい声。
それは、義久が毎週通っていた、近所のお稲荷さんの社で、心の中に感じていたあの声だった。
⸻
そのお稲荷様の社は、誰も訪れない、小さな祠だった。
賽銭も投げられず、ただ、手を合わせるだけの祈り。
義久は、何度もそこで独り言のように呟いていた。
「母ちゃん、まだ生きてます。おにぎりは食べられんけど、なんとか、なんとかやってます……」
そんな言葉に、風のように返ってくる“気配”。
それが義久にとって、最後の支えだった。
「わしは見とったぞ。十円も投げられんおぬしの、心ばかりの祈りをな」
「ひとつ、贈り物じゃ。来世では少しばかり、良き運命を授けてやろう」
「じゃが、忘れるな――力も血も富も、正しく使う者だけが価値を持つ」
「おぬしの“真の生き様”、わしはまた見守っておるからの」
光が義久の胸に吸い込まれる。
涙が流れる。悲しみではない――温もりのような、光のようなもの。
「……今度は……この国を、ちゃんと……まともにしてみたい……」
最期に、義久は微笑んだ。
⸻
そして――まばゆい光と共に、義久は目を覚ました。
「おめでとうございます、葉山総理! 元気な男の子です!」
総理?
葉山?
また葉山か――。けれど、今回は血筋からして違うらしい。
美しい女性が、汗まみれの顔で微笑んでいる。
どこか、あの母に似ていた。
「悠真って名前、どうかしら? “真っすぐに、悠々と生きてほしい”……そんな願いを込めて」
その名を聞いた瞬間、義久の胸にかすかに、お稲荷さんの鈴の音が響いた気がした。
⸻
こうして、葉山悠真としての人生が始まった。
災害で父を失い、介護で人生を諦めた40歳の男が、
今度は最上級の世界で目覚め、
「誰かの“生きたい”を守る総理大臣」になるための物語が、いま幕を開ける。