9話 聖女ベルティーアの妨害
「これで今日の契約は最後みたいっすね」
「けっこう早く終わったな」
「頑張った甲斐があったっす!」
契約者の資料を広げながら、トレーラントが嬉しそうに声を上げた。
今回は厄介な案件が少なかったから、たぶんそのせいだろう。
俺に回される契約はだいたい、時間のかかるものばかりなんだよな。
「最後の一件が面倒なものでなかったらいいんだけどな」
「うう、先輩が言うと本当になりそうだからこわいっす……」
「安心しろ。俺の予想はけっこう外れる。
そうでなきゃ、首にならずに済んだしな」
「それ、全然安心できないっすよ!」
「はいはい」
膨れるトレーラントを宥めながら、手元の資料を覗き込んだ。
これが今日最後の契約になるはずだ。
召喚者はアルフィオ・ビアンコ。
宗教国家ヴェンデミアの聖女、ベルティーア・レーア・ルビーノの従者。
主であるベルティーアの視力を回復させる方法を探している。
今回願われる内容は多分これだな。
聖女の関係者であることは気になるが、契約自体は楽に終わるはずだ。
視力を与えるくらい、悪魔にとっては造作もない。
契約者のアルフィオが何か企んでいる様子もないしな。
もしそうなら、資料に警告が記載されているはずだ。
これならトレーラントに任せても大丈夫だろう。
やっぱり、俺の予想は外れるな。
そんなことを考えていると、トレーラントの魔力が微かに揺らいだ。
転移魔法が発動する前触れだ。
波に揺られるような感覚と同時に、目の前の景色が切り替わる。
転移先は古い神殿だった。
ひび割れた壁や埃が積もった床はどう見ても廃墟だが、あちこちに飾られた欠けた天使の像や一部が割れたステンドグラスのおかげでかろうじて神殿だと分かる。
ある意味、悪魔を召喚するにはうってつけの場所だった。
ここならまず人は来ないだろうからな。
床の上に描かれた魔法陣の中には小柄な少年が立っていた。
赤茶色の髪と目に、聖女に仕える者の証である白と赤で統一された服装。
多分、あれが今回の契約者だろう。
資料に記載されていた特徴と一致しているしな。
「我が名はトレーラント。
アルフィオ・ビアンコ。汝の望みを述べよ」
「ひっ……」
いつものように、トレーラントが重々しい口調で言葉を投げかけた。
こちらを見て小さく悲鳴を上げたアルフィオが震えながら口を開く。
「……お、お願いします。ベルティーア様の目を、治してください!」
「報酬は」
「な、なんでも……なんでも払います!」
悪魔相手に「なんでも」なんて、ずいぶん豪胆だな。
それとも単に頭が回っていないだけか、自己評価が低いのか。
まあ、資料を読んだ限りではおそらく後者だろう。
身分や地位と魂の価値が連動すると思い込む人間はたまにいる。
人間の価値なんて、基本的には大して変わらないのにな。
もっとも、俺たちにとっては好都合だ。
トレーラントも同じように思ったのか、機嫌よく笑う気配がした。
「たとえ、それがお前の魂であったとしてもか」
「……はい。それでも、僕は構いません。
ベルティーア様が……僕を救ってくださったあの方の目が、治るのなら」
トレーラントの問いかけにアルフィオはあっさりと頷いた。
口では「なんでもする」と言っておきながらこちらが魂や命を要求すると渋る人間も多いんだが、覚悟が決まっているらしい。
いつもこれくらい簡単に交渉が済めばいいんだけどな。
「ならば、契約だ」
淡々とそう告げて、トレーラントが俺を抱えていない方の手を差し出す。
青白い顔のアルフィオがゆっくりと手を伸ばした。
震える指先が白い手に触れる。
その時、辺りの魔力が揺れた。
俺が声を掛けるよりも早く、トレーラントが身を引く。
数瞬後、俺たちがいた場所を炎が焼き尽くした。
「離れなさい!」
凛とした声が高い天井に反響し、その衝撃で埃がぱらぱらと落ちた。
「アルフィオを誘惑し、堕落させようとするとは許せません。
ここで滅びなさい!」
神殿の入り口に立ってそう叫んだのは、白いローブを纏った女だった。
トレーラントよりやや淡い赤色の瞳に怒りを宿してこちらを睨んでいる。
呆然と立ち尽くしていたアルフィオが、その声に息を呑んで振り返った。
「ベルティーア様……!」
アルフィオが口にしたのはこの国の聖女の名だった。
まあ、予想はしていたけどな。
黒い目ほどじゃないが、赤い目を持つ人間は珍しい。
この国で目が赤い人間は聖女だけだ。
それなら、次にすることは決まっていた。
「トレーラント。いったん引くぞ」
「えー、なんでっすか先輩。まとめて殺しちゃいましょうよ」
聖女を眺めていたトレーラントがこちらを向き、不服そうに唇を尖らせた。
人間二人程度にわざわざ引くのが嫌なんだろう。
魔法の使えない人間なんて、その気になれば一瞬で葬れるからな。
「駄目だ、いったん冷静になれ。
今度は始末書どころか減給されるぞ」
だがあいにく、今の状況でそれは出来ない。
契約や防衛とは無関係に他種族を傷つけることは規則で固く禁じられている。
これを破れば待っているのは罰則だ。つまり評価が下がる。
トレーラントの出世に響くから、それは避けたかった。
先日、他の契約をうっかり邪魔して始末書を書かされたばかりだしな。
さすがに続けて二回も処分を下されるのはまずい。
そのためにも、今は一度引くべきだ。
時間を置いて聖女がアルフィオから離れた頃、再度接触すればいい。
あいつは既にトレーラントの手に触れている。
仮の契約は成立しているんだから。
「うぅ……はーい」
「待ちなさい!」
渋々といった様子で頷いて、トレーラントが転移魔法を発動させる。
聖女が浄化の魔術を発動させた瞬間、景色が切り替わった。
頭上に広がる満天の星空と、眼下に広がる荒れた敷地。
トレーラントの背後には見覚えのあるステンドグラスがあった。
大して距離は置いていないが、人間相手ならこれで十分だ。
人間は基本的に探知能力が低いからな。
もちろん例外はいるが、あの二人は違う。
「楽して魂が手に入るチャンスだと思ったんすけど、上手くいかないっすねえ」
窓縁に腰掛けたトレーラントが、足をぷらぷらとさせながら呟いた。
欠けたステンドグラス越しに、悪魔との契約がいかに罪深いものかを説く凛とした声が聞こえてくる。
それに対して、反論する声はか細い。説得されるのも時間の問題だろう。
救いたい相手自身に拒まれれば折れるのも当然か。
トレーラントも同じように考えたのか、俺の髪を弄びながら口を開いた。
「ま、仮契約は結べたんでキャンセル料が手に入るだけマシっすけどね」
契約を破棄するには双方の同意か、キャンセル料が必要となる。
召喚に応えて願いを聞き、報酬を決める。
それだけの手間を掛けているんだから、一方的な契約破棄に相応の対価を支払ってもらうのは当然だろう。
そう告げるとだいたい「横暴だ」と言われるけどな。
あいつら、悪魔が慈善事業で契約してるとでも思ってるのか?
キャンセル料は契約前に決めた報酬の半分。今回ならアルフィオの魂半分だ。
掛けた時間と得られる報酬の割合的には悪いものじゃない。
ただ……。
「このままキャンセルさせるのはよくないな」
「なんでっすか?」
「示しが付かない」
アルフィオが途中で気を変えて契約をキャンセルするならいい。
問題は、聖女が悪魔の契約を邪魔出来たという事実が残ることだ。
それも無傷で。
悪魔は契約中、周囲への警戒が薄くなる傾向がある。
契約相手への対応に思考を割かれているし、若さと美貌を求める女王に果実を渡した時のように、目の前で相手の願いを叶えることも多いからだ。
魔法を使うと、どうしてもそっちに集中しがちだからな。
もちろん、ある程度経験を積んだ悪魔ならさっきのように対応できる。
だが、生まれたばかりの悪魔はそうじゃない。
怪我で済めばまだいいが、消滅したら最悪だ。
最悪の可能性を上げない為にも、契約を邪魔出来たという成功談は世に出回らせないに限る。
妖精ほどでなくとも人間は噂好きで、話を改竄しやすい種族だからな。
聖女の成功談が「契約中に襲えば悪魔を討伐出来る」なんて話にすり替わって、やがてそれが事実になる可能性は十分にある。
そうさせないためにも、対策が必要だった。
心配し過ぎかもしれないが、人事部は慢性的な悪魔不足だ。
貴重な社員が減る要素は少しでも無くしておきたい。
これ以上忙しくなるのはごめんだからな。
「うう、確かにそれはいやっす……。
後輩の育成も先輩の大事な業務、って奴っすね」
「ああ、そういうことだな」
「でも先輩。魂を半分取ったらまともに生きられないっすよ。
それじゃダメなんすか?」
「従者はそれでいいが、聖女も表舞台から退場させたい。
その言葉の信憑性が地に堕ちるようにな」
そうすれば、仮に今夜の話が漏れても誰も信用しない。
念には念をって奴だ。
それに、トレーラントにとっても悪い話じゃない。
「時間は掛けない。俺も残業はごめんだからな。
付き合ってくれるか?」
尋ねると、真紅の瞳が月明かりの下できらきらと輝いた。
「もちろんいいっすよ!
それで、どうするんすか?」
「簡単だ。まず……」
漏れ聞こえてくる聖女たちの会話を背に、考えた作戦を話す。
作戦と言っても即興で考えたものだから複雑なものじゃない。
むしろ単純だ。ただ二人と契約するだけだからな。
そうと決まれば、さっそくフィリアに連絡を取るか。
広報課の優秀な社員として、手伝ってもらうためにも。