20話 花はいつでも悪魔を見守っている
その時、室内を満たしていた甘い香りが今までよりも濃くなった。
ルーカスを閉じ込めていたつぼみがふるりと震え、ゆっくりと開いていく。
脳裏を過ぎった嫌な予感に思わず息を詰めた。
予想と裏腹に、花の中は綺麗なものだった。
肉厚の花びらの内側は外と同様に純白で、中央には銀色のおしべ(めしべかもしれないが、俺は花に詳しくないから分からない)が揺れている。
美しいはずなのに妙にうすら寒さを感じる光景だ。
微笑みを浮かべたエスペランサが、擦り寄ってきた花をそっと撫でた。
「綺麗に食べられて、いい子だね。
報酬はちゃんとしまってある?」
その問いかけに花が大きく上下に揺れ、枝分かれした茎を振ってみせた。
茎の先についた一回りほど小さなつぼみが動きに合わせてゆらゆらと揺れる。
どうやら、あの中に今回の報酬が入っているらしい。
内側から微かに蠢いているところを見ると「報酬」は生きているんだろう。
ルーカスが奴隷商であること。
人間など容易く殺せるはずのエルフがわざわざ悪魔を召喚したこと。
そして、悪魔の魔法すら封じられる素材が存在していること。
これだけ材料が揃っていれば、エスペランサを召喚したエルフがどんな状況に置かれていて、何を報酬として支払ったのか大体想像がつく。
悪魔ほどじゃないが、エルフもまた奴隷として人気の種族だ。
だからといって同情する気も、助ける気もないが。
そんなことを考えていると、エスペランサがこちらを振り向いた。
透き通るような赤い瞳が微かに細められる。
「契約は完遂した。エルが寂しがるから、私はそろそろ帰る。
魔法はもう使えるはず。用が済んだら、クラージュたちも帰った方がいい。
サジェスが心配する」
言葉が終わると同時に、すらりとした立ち姿が色とりどりの花に変わった。
はらはらと零れ落ちる花が床に触れた傍から消えていく。
幻想的な光景に思わず息を呑んだ。
気がつけば、室内に満ちていた甘い香りも目にも鮮やかな色彩も失せていた。
報酬として渡された二輪の花が残っていなければ、夢でも見たのかと思っただろう。
短いながらも完成された劇を見終えたような満足感を感じながら、口を開く。
「トレーラント。俺たちもそろそろ帰るぞ」
「え? ――あ、はい!」
すっかり魅入ってらしいトレーラントがぱちぱちと瞬きをした。
いつまでも余韻に浸っていたいのは俺も同じだが、あいにくそんな暇はない。
課長とサジェスに早くこの件を報告しないと、次の被害者が出かねないからな。
魔法を封じる素材が全て剥がされて剥き出しになった壁と床を一瞥した後、下級の風魔法を発動させてみる。
エスペランサは大丈夫だと言っていたが、念のためな。
なにせ相手は第一位の悪魔だ。
エスペランサの言う「大丈夫」が俺たちにとっても同じとは限らない。
実際、俺たちが言うまで魔法が封じられたことに気付いていなかったしな。
規格外の魔力は羨ましいが、あれはあれで苦労しそうだ。
「……よさそうだな」
床の埃を僅かに舞い上げる小さな竜巻をしばらく観察してそう呟いた。
威力も発動速度も普段通り。発動した魔法に不純物が混ざっている気配もない。
俺やトレーラントが魔法を使っても問題なさそうだ。
「トレーラント――」
「ところで、先輩」
そのことを伝えようと口を開いたのと、トレーラントが俺を呼んだのはほぼ同時だった。
どちらの用を優先しようか一瞬迷って、後輩に譲ることにする。
話が長くなりそうならいったん止めればいい。
「どうした?」
「えっと……この場合、代償って誰に請求すればいいんすかね……」
トレーラントが気まずそうに口籠った。
本来請求すべきルーカスは既にエスペランサによって殺されている。
請求先がなくなってしまったから、諦めればいいのかエスペランサに請求すればいいのか迷っているようだ。
通常はこういうことが起こらないよう、事前に調整するものだ。
殺すのは俺たちが報酬を搾り取った後にしてもらう、とかな。
そうすれば両者共に損をしないで済む。
もっとも、今回に限っては仕方ない。
俺たちがエスペランサの契約について知らなかったのと同様に、エスペランサも俺たちがルーカスに召喚されたことを知らなかったはずだからな。
知っていたら、俺たちを見て「どうしてここにいるのか」とは聞かないだろう。
「……?」
その時、微かな違和感が脳裏をかすめた。
そういえば、あの時はどうして……。
違和感の正体を突き止めようと思考を沈めかけた瞬間、額をツン、と小突かれた。
見れば、細い蔦が視界の端をかすめる。頭に飾られた花の仕業らしい。
少しムッとしたが、質問に答えないまま考え込むのは確かに失礼だ。
早く社に戻らないといけないし、答える方を優先するか。
「代償の請求先がなくなった以上、今回は諦めろ。
エスペランサもそれが分かっていたから「お詫び」をくれたんだろ」
「あ、お詫びってそういう意味だったんすね……」
トレーラントの言葉に花が同意するように大きく揺れたのが伝わってきた。
こいつ、自分の価値が分かってるな。
実際、エスペランサがくれた花は単なるお使いの報酬にしては破格の品だ。
実用品としても鑑賞品としても価値が高い上、「あのエスペランサから報酬を貰った」という事実だけで一種のステータスになる。
第一の悪魔から頼み事をされるほど信頼されている、という証明になるからな。
想定外の事態に巻き込まれたことを含めても得をしたといえるだろう。
「確かに、綺麗な花っすよね……」
感嘆の声に反応したのか、髪に飾られていた花がどこか嬉しそうに葉を振った。
視界にちらちらと映る若葉色が少し鬱陶しいなと思いつつ、口を開く。
「この花はお前が持っておくか?」
「いいんすか?」
「髪に花を飾る趣味はないからな」
それに、いくら有用とはいえ自我を持つ存在を傍に置くのはちょっと嫌だ。
疚しいことをしているつもりはないが、なんとなく気が引ける。
俺とトレーラントが貰った報酬だ。どちらが持っていても関係ないだろう。
この花を材料とするほど高度な魔法薬を作る予定も、花を愛でる趣味も、エアトベーレに行く予定も俺にはないからな。
どちらが持っていても構わないなら、気に入った方が持てばいい。
「こいつも、自分を褒めてくれる相手の方がいいだろ」
俺の言葉に、花がはしゃぐ子供のように茎をくねらせた。
この状態でやられると俺まで揺れるからやめてくれ。
そわそわと落ち着かない花を見て、トレーラントが目を細めた。
「なんか、子供みたいで可愛いっすね」
「気に入ったなら早く取ってくれ。
こいつといると落ち着かなくて仕方ない」
「じゃあ、ありがたく頂くっす」
そう言って、トレーラントが俺の髪から花を抜き取って胸ポケットに差した。
きょろきょろと辺りを見回していた花が、ついで葉を揺らす。
どうやら、そこが気に入ったらしい。
まるでごく普通のコサージュのような顔をして寛ぎ始めた(花の表情なんてわからないが、そんな雰囲気だった)花に「調子のいい奴だ」と内心でため息を吐いた。
「こいつの処遇も決まったところで、そろそろ帰るぞ。
エスペランサの頼みを早く片付けないとな」
「そうっすね。うっかり忘れたら花に食べられるかもしれないっす」
「さすがにそこまではしないと思うぞ」
エスペランサが人間を花に食わせても糾弾されないのは、所有地を侵されたという大義名分があるためだ。
頼みを忘れたくらいで後輩を花に食わせることは(いくら消化しないとはいえ)、さすがに認められない。
せいぜい、渡した花を返せと言われるくらいだろうな。
だが、相手が誰であろうと信頼を損なう行いは避けるべきだ。
一度損なった信頼を取り戻すのには長い時間が掛かるからな。
「行こう、トレーラント」
話が早く済めばいいなと思いつつ、トレーラントを促した。




