10話 銀鳩ちゃんは穏便に話がしたかったようです
「クラージュ。お前に話がある」
とうとう来たか。
廊下に凛と響いた声に先日ケニスから受けた助言を思い出し、ため息を吐いた。
仕事終わりに面倒事を持ち込むのは勘弁してくれ。
「聞いているのか、クラージュ!」
こちらが返事をするよりも先に、相手の痺れが切れたらしい。
怒鳴り声と共に肌を焼くような荒々しい魔力が立ち込め、俺を咥えていたトレーラントがぐるぐると喉の奥で唸りを上げながら一歩後ずさった。
この位置からだと見えないが、きっと尻尾の毛が逆立っているはずだ。
なにせ、相手は上位の悪魔だ。
トレーラントが本能的に恐れを抱くのも無理もない。
これ以上後輩を怯えさせるわけにはいかないので、同期に視線を向けた。
胸の半ばまで伸びた燃えるように赤い巻き毛に涼しげな切れ長の瞳。
女性体にしては高い背丈に、それに見合った長い手足。
折れそうなほど踵の細いハイヒールを履いていてなお姿勢のいい立ち姿には覚えがあった。
一応、千五百年の付き合いだからな。さすがに見間違えたりはしない。
「聞こえてるから、怒鳴るな」
「ならば何故、初めに名を呼ばれた時点で返事をしなかった!」
「悪かった。まさかお前に声を掛けられると思っていなかったんだ」
「人間に後れを取ったことと言い、腑抜けているのではないのか。
それとも、身体と一緒に知能まで失ったか」
謝罪を口にすれば、厳しい視線と共に刺々しい言葉が投げつけられた。
話ではなく喧嘩を吹っ掛けに来たのかと聞きたくなるような返答だが、こいつが俺に異様に厳しく当たってくるのはいつものことだ。
こみ上げてくるため息を堪えて、口を閉じた。
敵視される理由は知らないし、知るつもりもない。
たぶん、こいつが昔から尊敬しているサジェスに仕事を任されることの多いせいだろう。
目を掛けられている、とでも思っているのかもしれない。
実際はいいように使われているだけなんだけどな。
恨むなら、サジェスに憧れておきながらあいつが求める分野を伸ばさなかった自分を恨んでくれ。
まあ、こればかりは個々の才能によるからなんとも言えないが……。
そんなことを心の中で思いながら、言葉を続けた。
「それで、何の用だ――フィデリテ」
久しく呼んでいなかった名前を口にすると、紅で彩られた唇が引き結ばれた。
まさか、軽々しく名前を呼ぶなと言って怒ったりはしないよな?
もしそんなことを言われたらケニスの忠告は無視して適当にあしらおうと心に決めていると、やがて静かに唇が開かれた。
「その…………話がある」
「それはさっき聞いた。聞くから、早く言ってくれ」
「邪魔は入れたくない」
そう言って、フィデリテがトレーラントに視線を向けた。
後輩を邪魔だと言われたことは腹立たしいが、第三者に聞かせられない話なら確かにトレーラントは同席させられない。
だが、こちらに対して敵意を抱いている相手と差しで話すのも気が引ける。
確かに、同族に危害を加えてはならないという規則はある。
だが、それは抑止力にしかならない。
何かあった時、規則が攻撃を防いでくれるわけじゃないからな。
その上、フィデリテは頭に血が上ると後先考えずに行動しがちだ。
二名だけで話をした時、身の安全が保障されるとは言い難かった。
だが、ケニスから「フィデリテの話を最後まで聞いてあげて」と言われている。
いったい何を話すつもりかは分からないが、内容は気になるところだ。
少し迷った末、折衷案を取ることにした。
「分かった。ただし、話をする場所は資料室だ」
あそこなら魔法は使えないし、ノレッジの分身もいる。
何かあればすぐに課長やサジェスに連絡がいくだろう。
「……いいだろう」
フィデリテも文句はなかったようで、あっさりと了承された。
俺の提案が気に食わないという顔はしていたが、それはいつものことなので気にしない。
むしろ、笑顔で肯定された方が怖い。
「トレーラント。悪いが、資料室まで運んでくれるか?」
尋ねると、目の前の景色がゆっくりと上下に揺れた。
俺からは見えないが、たぶん頷いたんだろう。
礼を言ってトレーラントに身を任せた。
「それで、用件はなんだ?」
資料室に運ばれた後、赤い瞳を煌々と輝かせるノレッジの前でさっそく口を開いた。
ちなみにトレーラントは資料室の外で待機中だ。
疲れているだろうから先に帰らせたかったが、そうなると自室へ戻るのにフィデリテを頼らないといけなくなる。
話し合いの結果によっては置いてけぼりにされそうな相手を頼るのは嫌だったので、待っていてもらうことになった。
「…………お前が、首になったと聞いた」
「そうか。それで?」
誰から聞いたのか、とは尋ねなかった。
元より、首になったことを吹聴して回る気はないが隠すつもりもないからな。
サジェスか課長か、あるいは同期の誰かから聞いたんだろう。
話の続きを促すと、薄紅色の瞳が微かに揺れた。
「お前は他と比べて魔力で劣っている。
それ故、相手を言いくるめるような卑劣な契約を得意としているな」
「……わざわざ貶しに来たのか?」
「違う!」
いや、どう考えてもそうとしか聞こえないだろう。
あと、相手を言いくるめるのが得意なのはお前が尊敬しているサジェスも同じだぞ。むしろあいつの方が上手いんだが、それはいいのか?
心の中でそう呟きながら、ひとまずフィデリテの話に耳を傾けた。
「だ、だが、それでも身体がなくては苦労しているだろう」
「そうでもないな」
簡単な魔法なら使えるし、いざとなれば目は回るが自力で移動もできる。
なによりトレーラントがいるから、不便だと感じたことはあまりなかった。
後輩頼りなのは心苦しいが、それは成績や教育で返せているはずだ。
実際、トレーラントの成績は俺と組む前よりだいぶ上がったみたいだしな。
「そんなことはない!
事実、お前はあのような未熟者と組まねばならないほど衰弱しているではないか!」
だが、俺の返答はフィデリテの気に障ったらしい。
苛立ちが多分に入り混じった怒鳴り声が資料室内に反響した。
物理的に耳が痛くなる声を耐えながら、湧き出す苛立ちを押さえつける。
「トレーラントは確かに新しいし、その分経験不足な面はある。
だが、未熟と思ったことは一度もない」
「何を言う。トレーラントの名を冠するくせ、まだ中位にいるのだぞ。
これを未熟と呼ばずして、なんと呼ぶ」
それを聞いた時、頭の芯が冷えきったのが分かった。
助言してくれたケニスには申し訳ないが、もう無理だ。
まだ何か話している様子のフィデリテに構わず口を開く。
「――だから、私が代わりに組んでやる。
私はお前の同期だが、上位だ。後輩と組むよりよほど効率がいいだろう。
言っておくが、私はあの若手のようにお前に唯々諾々と従うつもりはない。
私とお前では立場が異なるのだから当然だが、そこは理解しておけ。
おとなしく、私に同行するというのなら……」
「いい加減にしろ」
艶やかに彩られた唇が止まった。
ノレッジの稼働音だけが響く室内で、再び口を開く。
「俺を見下すのも、罵倒するのも勝手にしろ。
だが、トレーラントへの事実無根の誹謗は撤回してもらう。
あいつは劣ってなんかいないし、俺は妥協してあいつと組んだわけじゃない」
「事実無根などでは――!」
「なあ、フィデリテ」
何か言いかけたフィデリテを遮って言葉を続けた。
「確かに「前」のトレーラントは飛びぬけて優秀だった。
あれほど才能のある悪魔は滅多に現れないだろう。
だからといって「今」のトレーラントが劣っているわけじゃない。
あいつは十分成果を挙げているし、そもそも別の個体。
比較するのは双方にとって失礼だ」
大体、前のトレーラントと今のトレーラントは得意な魔法も性格も違う。
一つの要素が共通しているからと言って同一視するのは筋が通らない。
百歩譲って、それがまかり通るとしよう。
なら、全ての悪魔が同程度の実力を持っていないのはおかしいじゃないか。
悪魔は皆、濃度や色合いは違えど「赤い瞳」という共通点があるんだから。
「それに、お前が上位になったのはほんの三百年前だろう。
千二百年も掛けてようやく上位になったお前が、たった二百年で中位に上がったトレーラントをとやかく言えるのか?」
そう言うと、白い頬にさっと朱が差した。
もっとも、別にフィデリテの昇進が遅いわけじゃない。むしろ標準か、少し早いくらいだ。
というか、それを言ったら俺なんてもっと遅いしな。
だが、前のトレーラントと比較すればフィデリテだって「劣って」いる。
それはフィデリテ自身理解していたんだろう。反論はなかった。
黙りこくったまま身じろぎひとつしないのを見やって、口を開く。
「わかったら、さっさと撤回しろ。
しないのなら、俺は帰る。お前の話は聞きたくない」
「っ、待て! クラージュ」
転がって部屋を出ようとした時、フィデリテに抱えられた。
こうなったらもう俺に抵抗の手段はない。
いきなり魔法で攻撃されるよりはマシかとため息を吐くと、フィデリテが早口で話し出した。
「確かに、前のトレーラントを引き合いに出したのは悪かった。
だが、それでもお前は私と組むべきだ!
私の方が魔力の量も質も優れているし、経験も豊富だ。
それだけ多くの契約をこなせる。分かるだろう」
「確かに、理論上はそうなるな」
その言葉に、薄紅色の目が輝いた。
だが、と言葉を続ける。
「お前とは組まない」
「何故だ!?」
お前が嫌いだからだよ。
……と言っても納得はされないだろう。
普段ならフィデリテが納得しようがしまいがどうでもいいが、今はダメだ。
せめて腕から解放してもらわないと、この部屋から出られない。
ノレッジが黙々と演算を続けているのを目の端で確認した後、ため息の代わりに言葉を吐き出した。