8話 サジェスの実験教室 ―サジェスに聞いてみよう!編―
「悪い、もう一度いいか?」
「エアトベーレと引き換えに貰った」
「……そうか」
聞き間違いかと思ったが、さすがに二度も同じことを聞けば違うと理解できる。
理解は出来る。納得は出来ない。
「エアトベーレって、国だよな?」
「小国だがな」
「……一応聞いておくが、双方合意の上での取引だよな?」
サジェスが脅されたとは思えないが、向こうには第一位の悪魔がいる。
あまりに不公平な取引に戦々恐々としながら尋ねると大きく頷かれた。
「当たり前だろう。
いくら位階が上の相手とはいえ、俺がおとなしく言うこと聞くと思うか?」
「いや、まったく」
まだ俺が下位の悪魔だった頃、名前が気に食わないと言われて幻獣部の部長に絡まれた時のことを思い出して首を横に振った。
絡まれたと言っても暴力や魔法で脅されたわけじゃない。
空き部屋に連れ込まれて魔力で圧を掛けられながら「何故その名を持っているのか」と詰問されただけだ。
今にして思えば、その時点で俺の身の安全は保障されていた。
相手に規則を守る気があったからだ。
当たり前だ。いくら気に入らないからといって、たかが新入社員一名をいたぶるためにこれまで積み上げてきたものを棒に振る悪魔はそうそういない。
もちろん、感情につられて魔法を暴走させてしまう悪魔がいないわけじゃない。
だが、相手は役職者にして第三位の悪魔。
さすがにそんな馬鹿げた事故は起こさないはずだ。
今ではそう判断して冷静に受け流せるが、当時の俺はまだ未熟だった。
頭で理解していても恐怖が抑えきれない。
目や耳は機能しているはずなのに、周囲の音も風景も頭に入ってこない。
結果、その時の俺は相手の言葉も聞かずただ頷くだけの人形と化していた。
場当たり的なその対応が余計に相手の怒りを煽ったんだろう。
ふと言葉が止んだかと思えば圧が強くなって、怒らせたのだと悟った。
気が遠くなるのを感じた時、助けに来てくれたのがサジェスだった。
実のところ、サジェス達が何を話していたのかは記憶にあまり残ってない。
助けが来たことに安堵して、細かいところに気を向ける余裕はなかったからな。
ただ、サジェスが普段の落ち着いた振る舞いからは想像もできない厳しい声で相手を糾弾していたことは覚えている。
位階持ち、と一括りにしてはいるが実のところその実力差は大きい。
サジェスは第五位で、あの時俺を詰問していた悪魔は第三位。
位階はたった二つしか違わないが、魔力の差は倍以上あった。
それほど実力差のある相手に一歩も引かずやり合ったことを思えば、位階が上の相手だからといって不平等な取引に応じるとは思えない。
……今になって思うが、なんで幻獣部の部長は俺を詰問したんだろうな。
名前は社長が与えてくれるんだから、気に食わないなら社長に言ってくれ。
新入社員に文句を言ってどうにかなるものじゃないだろうに。
「強いて言えば、惚れた弱みはあるかもしれないが……」
「えっ?! サジェス先輩、好きな相手いるんすか?!」
唐突な告白にそれまで考えていた疑問が吹っ飛んだ。
トレーラントも同じ気持ちだったようで、声が少し裏返っている。
驚く俺たちを見て、サジェスが「ああ」と頷いた。
「片思いだけどな。惚れてから、もう五千年ほどになる」
「五千年って、サジェス先輩が生きてる年数とほぼ変わらないじゃないっすか」
「ああ。おかげですっかり想うことに慣れた」
なるほど、惚れているのは課長の方か。
焦がれる色を瞳に宿したサジェスと驚くトレーラントのやり取りを聞いて、片思いの相手に目星をつけた。
エルフ部に所属する二名のうち、部長を務める悪魔はうちの課長と同期だ。
課長から時折愚痴を聞かされるからよく覚えている。
そしてサジェスと課長は倍以上年が違う。もちろん、課長が年下だ。
これらを踏まえると、相手はエルフ部の課長で間違いないだろう。
名前は確か、エスペランサだったか。
会ったことがないから性格は知らないが、美しい悪魔だとは聞いている。
契約でさえめったに結びたがらない、怠惰な悪魔だとも。
これだけだとサジェスとは真逆の性格に思えるが、そこがいいんだろうか。
「エルフ部の課長が、どうしてエアトベーレを欲しがるんだ?」
「なんでも、あいつが飼っているペットの故郷らしい。
別荘としてプレゼントしたいからと頼まれた」
「豪華な別荘だな……」
悪魔でさえ、国をプレゼントされたことのある奴はいないんじゃないか?
少なくとも俺は聞いたことがない。
そういうと、サジェスは同意するように笑った。
「昔から、気に入った相手にはとことん尽くすタイプなんだ。エスペランサは」
「そうなのか? かなり怠惰だと聞いたんだが」
「興味がなければな。興味があることには労を惜しまない」
ああ、なるほど。いわゆる研究者タイプか。
それなら確かに、サジェスと気が合いそうだな。サジェスは何事も器用にこなすが、一度のめり込むと満足するまで続けるところがあるから。
納得した俺を見て、サジェスが言葉を続けた。
「エスペランサが興味を持つのは植物とそれを使った研究くらいだったんだが、最近はペットにも嵌ったらしい。
それで、俺に交渉を持ち掛けてきた。
千年前に手に入れたエルフの王女と、エアトベーレの交換をな」
「あれ、王女だったのか」
順調に育てばじきに女王になっていたであろう少女に目を向ける。
途端、エルフが気丈な目で睨んできた。
こちらの言葉は分からないはずだが、そこは王族。雰囲気で察したのか。
もう少し頭が良ければ、それに意味がないことにも気がつけただろうに。
「所属している集落がエルフ間の争いで負けて、捕虜にされたらしい。
通常、報酬に使われるエルフは魔力の低い爪弾き者ばかりだ。
この王女様のように優秀な個体は珍しいから、昔から欲しかったんだ。
自分の息が掛かった国はこれ以上必要ないしな」
サジェスは既に国を一つ所有している。
表向きはその国の一貴族ということになっているが、実際に支配しているのはサジェスだ。
ただでさえ忙しいサジェスがこれ以上国を持っても統治しきれないだろう。
それなら珍しい生体素材と交換したがるのも納得がいく。
「それでも少しばかり俺が損をするが、エスペランサは律儀だ。
俺に借りがある限り、誘いを無下に断られることはないからな。
……いや、普段も誘えば付き合ってくれるんだ。五千年来の親友だからな。
ただ最近はペットに夢中だから傾向的に今後数百年ほどは誘いを後回しにされる可能性が高いと思ったから先に手を打っただけで――」
「そこまでは誰も聞いてないぞ」
言い訳じみた台詞を並べるサジェスに思わず口を挟むと、わざとらしい咳払いが返ってきた。
雪のように白い肌は珍しく赤く染まっている。
図らずも知ってしまった弱みから物理的に目を逸らしながら「それで」と話題を変換した。
「このエルフは教材なんだよな?」
「あ、ああ。そうだ。
人事部に所属するほとんどの社員は実物のエルフを見たことがないだろう?
契約で関わることはないと思うが、絶対とは言い切れない。
実際、エアトベーレが滅びたのはエルフがエスペランサと契約したせいだった」
ああ、やっぱりエスペランサが滅亡の発端か。
エアトベーレが滅びたのは人に寄生する花とキャンディの雨が降ったせいだ。
どちらもエルフが悪魔を契約して引き起こした現象で、時期的にエルフと契約したのは同一の悪魔であろうことは分かっていた。
そして、エスペランサは「花の悪魔」と呼ばれるほど植物を操る術に長けた悪魔だ。
キャンディの雨はともかく、人に寄生する花はエスペランサの仕業としか思えない。
もちろん俺はエルフ部の内部事情なんて知らないからあくまで予想だ。
そもそも契約した悪魔を特定しても何の意味もないのでこの考えは記憶の底に仕舞っていたんだが、どうやら当たっていたらしい。
答え合わせをする気がなかったとはいえ予想が当たったことに浮き足立つ気持ちを抑えながら、サジェスの話に耳を傾ける。
「エルフと関わらなくてはならなくなった時、実物を知っているのと知らないのとでは対応に大きな差が出る。
そこで用意したのがこのエルフというわけだ。
平均的なエルフより魔力の高い個体だが、侮られるよりはいいだろう」
「まあ、確かにそうだな」
「それに、教材として使い終わったら良質な実験台にもなる」
「むしろそれがメインなんじゃないか?」
「ばれたか」
そう指摘されるのは分かっていたんだろう。
悪戯な笑みを浮かべたサジェスが、わざとらしく肩をすくめた。
「ま、そういうことだ。
実験の片づけと研修会の準備をする間、よければそいつと遊んでてくれ。
ついでに、感想も聞かせてくれると助かる」
「分かった」
「クラージュ先輩……」
二つ返事で引き受けると、身をかがめたトレーラントが小さな声で尋ねてきた。
「サジェス先輩のこと、手伝わないでいいんすか?」
「ああ、問題ない」
トレーラントの気遣いを否定するわけじゃないが、サジェスはこだわりが強い。
下手に手を出すと余計な手間を掛けるので、ここは何もしないのが正解だ。
せっかく貴重な時間を割いてくれた今、更に時間を取らせたくはない。
余裕のある時ならサジェスのやり方を覚えるのもいいが、その時は向こうから誘ってくれる。
エルフと遊ぶように言われたってことは、今はその時じゃないってことだ。
「そういうことっすね。
じゃあ、遠慮なく遊びましょ。先輩!」
そう言って、トレーラントは白豹に姿を変えて俺を咥えた。
警戒を露わにするエルフの前に座り込み、前足を檻の隙間に突っ込んで小突いたり引っ掻いたりと楽しそうだ。
エルフにとってはたまったものじゃないだろうが、俺たちには関係ない。
「魔法は封じられているから反撃を喰らう心配はないと思うが、油断はするなよ」
「はーい」
傍から見ると遊んでいるように見えるが、何を隠そう本当に遊んでいるトレーラントを一瞥して、動き回るサジェスに視線を移す。
「禁忌、か」
あの時、サジェスは一体何を言いかけたのだろう。
それが妙に気に掛かった。