2話 あなたの夢、叶えます
夢なら、どうかまだ目覚めないで。
頭上で輝く煌びやかなシャンデリア。
優雅に流れ続ける音楽。
それから、私に微笑む王子様。
物心ついた頃から抱き続けていた夢と同じ光景が今、私の前にあった。
幾度目かの祈りを心の中で捧げながら、慣れないステップを踏む。
慣れない靴の僅かな痛みが、これが現実でないことを示していた。
サンドル子爵家は貴族ではあったけれど、あまり裕福な家ではなかった。
代々受け継いできたお屋敷こそ立派だけれど使用人はほとんどいないし、ドレスや装飾品を新調する余裕もない。
三年前にお父様が亡くなってから家計はさらに悪化して、スープに肉を入れられない日が続くことさえあった。
それでもまだ、私は恵まれているのだということは分かっている。
世の中には生活のために娘を娼館に売ったり、毎日の食事に事欠く家もあるもの。
血が繋がらなくとも優しいお義母様やお義姉様がいて、雨風をしのげる家があって、質素だけれど食事も毎日食べられるのだから不満など抱いてはいけない。
……分かってはいても、幼い頃に抱いた舞踏会への夢は捨てられなかった。
美しいドレスに身を包んで、素敵な男性と踊るお姫様。
今は亡き母に読んでもらった絵本に描かれた幸福な光景。
叶う日は来ないと思っていた。
舞踏会は貴族の社交場。
他の家との付き合いがないサンドル子爵家が招待されることはないもの。
けれどある日、王家から舞踏会への招待状が届いた。
名目は第二王子アジール様の婚約者選び。
王子様の希望で、爵位を問わず未婚で適齢期の娘全てを招待したらしい。
初めは心が躍った。
これで私も舞踏会に出席できる。夢が叶うと思った。
その時に着ていた、灰色のドレスが目に入るまでは。
私には舞踏会に出るためのドレスも、靴も、装飾品もない。
あるのは何度も継ぎを当てた地味な色のドレスと、重い木靴だけ。
これで出席することがどれほど場違いか、私でも理解できた。
でも――諦められなかった。
私の手元には、これまでずっと焦がれてきた舞踏会への招待状がある。
一度抱いた期待を手放すのは思っていたよりもずっと辛かった。
『エラ。私が死んだら、お墓にハシバミの木を植えてちょうだい。
そして、もしどうしても叶えたい願いがあったらその木に祈りなさい。
きっと――願いは叶うから』
母の言葉を思い出したのはその時だった。
言いつけ通り、母のお墓にはハシバミの木を植えてある。
私はお墓に行って、何度も祈った。
どうか、私を王宮の舞踏会へ出席させてください。
それにふさわしいドレスを、靴を、装飾品をください……と。
『いいだろう。お前の願い、叶えてやる』
そう言って私の前に現れたのは、カラスのように黒い髪と葡萄酒によく似た色の瞳を持った、穏やかそうな男性だった。
ただし、彼には首から下がなかったけれど。
人間なら生きていられるはずもない、異様な姿。
悲鳴を上げて後ずさる私を一瞥して、彼は笑った。
『あなたは、誰……?』
『俺の名はクラージュ。お前の母と契約した悪魔だ』
彼が言うには、お母様は以前とある契約を交わしたらしい。
報酬を先払いする代わり、私の願いを一つ叶える……という契約を。
それならなぜ、お父様が亡くなった時に来てくれなかったの?
あの時も「どうかお父様を生き返らせてください」と何度も祈ったのに。
真っ先に浮かんだ問いを投げかけると、彼は悪びれる様子もなく答えた。
『悪魔と言えど、死者の蘇生と未来予知は叶えられない。
そういう規則なんだ』
けれど、今回の願いは叶えられる。
それで彼は私の下に来たらしい。
『望み通り、舞踏会に相応しい衣装や馬車を用意してやろう』
そう言って、彼は私に魔法を掛けてくれた。
青空を思わせる色合いの絹が幾重にも重ねられ、散りばめられた宝石がきらきらと輝く美しいドレスに、青と金を基調とした装飾品の数々。御者がいなくとも走る不思議な馬車。
それから、金細工の花をあしらわれたガラスの靴。
『夢みたい……』
『安心しろ。夢と違って、途中で醒めることはない。
夜が明けるまで、好きなだけ踊ってくるといい』
『ありがとう、悪魔さん』
送り出してくれた彼に礼を言って、私は馬車に乗り込んだ。
夜遅くまで働きに出かけているお義母様とお義姉様に対する僅かな罪悪感と、夢が叶った高揚を抱きながら。
初めて訪れた王宮は想像以上に素敵な場所だった。
星よりも明るく輝く煌びやかなシャンデリアに、名も知らない優雅な音楽。
憧れの場所へ来られた喜びに浸っていると、ふと目の前に影が差した。
『私と踊って頂けませんか』
目の前で跪き、こちらに手を差し伸べているのは見覚えのある男性だった。
太陽のように煌めく金の髪に、吸い込まれそうなほど青い瞳。
噂で聞いていた通り――いいえ、それよりもずっと美しい人。
今日の主役である、第二王子アジール様その人だった。
子爵家の娘である私に、どうしてアジール様が?
緊張と混乱のせいか、なんと返事をしたのか覚えていない。
気がつけば、私は大広間の中央でアジール様と踊っていた。
夢なら、どうかまだ目覚めないで。
心の中で祈りながら、アジール様のリードに合わせてステップを踏む。
こちらを見つめる青い瞳が優しげに細められた。
「素敵だよ、私だけのかわいい小鳥さん」
甘い囁きに顔が熱くなった。
それと同時に音楽が変わる。
本来なら離れなくてはいけないのに、私はまた別のステップを踏んでいた。
アジール様と共に踊り始めて、もう何度音楽が変わっただろう。
同じ人と踊っていいのは、一夜につき三回まで。
そのマナーは私も分かっていた。
でも、こんな夢のような時間を終わらせたくない。
一度きりの舞踏会なんだもの。少しくらいマナーに反していても、いいわよね。
その時、厳かな鐘の音が高らかに響き渡った。
十二時を知らせる音だと気がついて、はっと息を呑む。
お義母様たちは普段、十二時を少し回った頃に帰宅する。
舞踏会に出かけていることがばれないよう、その前に帰るつもりでいたのに踊るのに夢中になってすっかり忘れていた。
音楽が途切れた頃を見計らって、アジール様から離れる。
「申し訳ありません。もう、時間が……」
謝罪もそこそこに、私は慌てて会場を飛びだした。
本当は、十二時に家に着く予定だったのに。
これでは出かけていることがお義母様たちに知られてしまうかもしれない。
「待ってくれ! 名前を――」
アジール様の問いかけに答えるつもりはなかった。
私は子爵家の娘で、アジール様は第二王子。
たとえ私を気に入って下さったとしても婚約者にはなれないもの。
途中、靴が片方脱げてしまったけれど気にしている余裕はない。
急いで馬車に乗り込むと、白馬が静かに走り出した。
片方だけになってしまったガラスの靴を脱ぎながら、そっとため息を吐く。
本当は舞踏会が終わった後、ドレスも装飾品も靴も売ってしまうつもりだった。
けれど……このガラスの靴だけは取っておこう。
一夜限りの夢に浸れた思い出として。
これがあれば、私はこの先も幸福に生きていける。
「ありがとう、悪魔さん。お母様」
私は初めて、神様ではなくて悪魔に感謝の祈りを捧げた。
+++++
「ただいま戻りました」
「早かったな、クラージュ」
女の願いを叶え終えた後、社に戻った俺を出迎えたのは課長だった。
トレーラントの姿は見当たらない。まだ帰ってないようだ。
まあ、それもそうか。終業まで時間があるしな。
「怪我はないか」
「はい、特には」
ぽてぽてと歩み……もとい、這い寄ってきた課長のヒレが俺の顔に触る。
舞踏会の準備と送迎のどこに怪我をする要素があるのか疑問だが、それだけ気にかけてくれているんだろう。
おとなしく検査を受けていると、ややあって課長が満足げに頷いた。
「うむ、問題はなさそうだな。ご苦労だった。
今日はもう上がれ……と、言いたいところだがその前に一つ頼めるか」
「今の俺に出来ることと言ったら文鎮かおつかいくらいだと思いますが、それでよければ」
「構わん。今回頼みたいのは後者だ」
そう言って、課長が俺の前に何かを置いた。
課外秘であることを示す赤い封蝋で封印された、上等そうな封筒だ。
厚みはさほどないから、俺だけでも持ち運べるだろう。
「サジェスに届けてくれ。おそらく実験室にいるはずだ。
本来なら私が届けるべきだが、あいにく会議の時間が迫っている」
「わかりました」
トレーラントが帰ってくるまで暇だし、なによりも課長の頼みだ。
断る理由もないので了承の言葉を返し、封筒の端を咥えた。
転がっていくには少々距離があるので、意地を張らずに転移魔法を発動させる。
今日の契約はもう終わってるから、魔力の節約は気にしなくていい。
瞬き一つもしないうちに景色が歪み、空気が切り替わった。
実験室特有のひやりとした空気に包みこまれ、転移が成功したことを悟る。
もっとも、新入社員ならまだしもこの年で転移魔法に失敗するなんてまずないが……と思いながら辺りを見回した時、自分以外の気配を感じないことに気がついた。
「出かけてるのか?」
その問いに答える声はなかった。
サジェスはこちらをからかうことはあっても無視はしない。
部屋にいれば、返事の一つ二つはしてくれるはずだ。
不在かと思ったが魔力の痕跡は残っているし、部屋の奥から微かに聞こえるくつくつと煮える音からして、帰ったとは考えづらい。
おそらく、一時的に席を外したってところだろう。
「戻ってくるまで待つか……」
トレーラントが帰ってくるまでまだ時間があるし、他に用があるわけでもない。
すれ違いになっても面倒なので、時間を潰すことにした。
ここがサジェスの屋敷にある実験室なら気軽に見て回るなんてとても出来ない(なにせ、見ただけで発狂する剥製やら生命力を吸われる標本やらがごろごろ転がっている)が、ここは共用の実験室。
利用するのはサジェスばかりなのでほとんどあいつ専用になっているとはいえ、他の社員も使うかもしれない場所にそんな危険なものは持ち込まないだろうと判断して室内を見て回った。
棚に並べられた色とりどりの薬品。
海を思わせる澄んだ青色の魂を封じ込めた硝子瓶。
実験台の上に並べられた何かの臓器。
どれも、前回ここに来た時にはなかったものばかりだ。
「……ん?」
その時、部屋の奥からいい匂いが漂ってきた。
いくつかのスパイスが混ざり合った、この部屋にはあまり似つかわしくない匂い――簡潔に言うと腹の減る匂いだ。
「あいつ、ここで料理してるのか?」
部屋を貸してもらう対価として、サジェスが作った肉料理を毎日食べる。
そんな約束を交わしたことを思い出しながら匂いのする方へ向かったのは、単純な好奇心からだった。
といっても、大した好奇心じゃない。
単に、今日はどんな料理が出てくるんだろうと思っただけだ。
風を操って鍋の近くにあった実験台に上り、鍋を覗き込む。
中身は角切り肉と刻まれた内臓。それに野菜やキノコ。
鍋から立ち上る匂いと隣に用意されたパイ型から、今日の夕食は大体察せた。
「ミートパイか」
ホロホロと柔らかく煮込まれた肉がサクサクのパイ生地に包まれたそれは、サジェスが作ってくれる料理の中でもお気に入りの一つだ。
今日の夜も楽しみだなと思いながら、台を降りようと首の向きを変える。
うっかり鍋の中に転がり落ちたら俺が煮込み料理になるから慎重に……と思っていた矢先、視界に入ったものに思わず息を呑んだ。
必要な筋肉がバランスよくついた細身の肉体。
長すぎず短すぎず扱いやすい長さに調整された手足。
腹にぽっかりと開いた穴から見える空っぽの中身。
それから、割と気に入っていた白いクラバット。
鍋の隣。実験台の上に並べられていたのは首のない身体だった。
身体の主が誰かなんて考えなくともわかる。
なにせ千五百年もの付き合いだ。見間違えるはずもない。
「そういえば、切り離された身体の行方を聞いてなかったな」
目を覚ました時、トレーラントは「先輩の身体がボロボロで」と言っていた。
つまり発見された時点では俺の身体は目視できるくらいの形は保っていたということだ。
もっとも、身体があったところで首と繋ぎ合わせて元通りには出来ないし、記念に取っておくわけにもいかない。そんな記念はごめんだ。
処分するしかないと思っていたから気にしていなかったんだが……どうしてここに、それも鍋の隣なんて場所に置かれているんだ?
……まあ、答えはだいたい分かっているんだが。
無意識のうちに弾き出した答えからそっと目を逸らしたのと、実験室の扉が開く音がしたのはほとんど同時だった。