4話 先輩の心、後輩知らず
「おかえり、クラージュ。トレーラント」
「サジェス?」
今日の契約を全てこなした後、会社に戻った俺たちを出迎えたのはサジェスだった。
血潮のように黒みがかった赤色の瞳が書類から逸れ、俺たちの方を向く。
窓から差し込む月明かりに照らされて淡く輝く銀の髪が微かに揺れた。
「ただいま帰りましたっす、サジェス先輩。
なんでいるんすか?」
「なんだ、居たら悪いみたいだな」
トレーラントの直球な問いかけにサジェスが苦笑した。
もちろん悪いわけじゃないが、珍しいのは確かだ。
課長代理であるサジェスは普段、あちこち飛び回っている。
抱える契約が多いのもあるが、ほかにも仕事が山積みらしい。
仕事先で顔を合わせることはあっても、社内にいる姿を見るのは久々だった。
それを自覚しているのか、さっきまで向き合っていた書類をペンでつつきながらサジェスが肩をすくめた。
「もちろん、仕事の為さ。始末書を書くのを忘れててな」
「お前が始末書なんて、何やったんだ?」
「まあ色々とな。それより、契約はこなせたのか?
確か、今回からコンビを組んで仕事をするんだったよな」
「全然問題ないっすよ!」
サジェスの問いにトレーラントが大きく頷いた。
「今日はクラージュ先輩のおかげでたくさん稼げたんすよ。
これならきっと、クラージュ先輩の身体もすぐ戻るっす」
「それはよかった。
……身体といえば、調子はどうだ?
朝は最低限の検査で済ませたから、気になってたんだが」
微笑みを浮かべてトレーラントに相槌を打っていたサジェスの目が、ふとこちらを向いた。
そういえば今朝「サジェス先輩は「命に別状はない」って言ってた」と、トレーラントが話してたな。
「トレーラントが治療してくれたおかげで、身体機能に問題はない。
魔法は使えないけどな」
「身体を失った以上、それは仕方ない。
お前なら分かっているとは思うが、まずは魔力回路と魔力袋の再生を優先するようにな」
「ああ、そうするつもりだ」
食物や外気から取りこんだ魔素を魔力に変換し、貯蔵する魔力袋。
必要に応じて魔力を引き出す魔力回路。
悪魔にとって、この二つの器官は必要不可欠だった。
これがないと魔法が使えないからな。
魔法の使えない悪魔なんて他種族からすれば格好の獲物だ。
言われずとも、最優先で再生させる予定だった。
そうしないと、トレーラントにいつまでも負担を強いることになる。
俺の返答に満足したのか、サジェスが探るようにこちらを眺めた。
「それから、お前が記憶を失ったと課長から聞いたんだが」
「今朝から首になるまでの記憶が飛んでるだけだ。
契約に支障はない」
「確かに、受け答えもしっかりしているしな。
だが、万が一の可能性もある。
ちょっと本格的に調べるから、じっとしていろよ」
そう言って、サジェスが俺の頬に触れた。
魔力が流れ込み、頭全体が仄かに暖かくなる。
懐かしいな。こうしていると、新入社員だった頃を思い出す。
確かこの後、全身ばらばらにされてくまなく調べられたんだったか。
痛みはなかったけど、身体が動かせなくて不安だった記憶がある。
まあ、そのうち慣れたけどな。
サジェス曰く「身体に不調がないかの確認」だったらしいが、たぶん半分くらいは好奇心だと思う。
そんなことを考えていると、循環していた魔力が止まった。
手が離れると同時に、頭に残っていたサジェスの魔力が霧散する。
温もりが消えて思わず息を吐くと、冷たい指が髪を撫でた。
「くまなく調べたが、問題はなさそうだ。
記憶を失ったのも一時的なものだろう。じきに戻るはずだ」
「よかったすね、先輩!」
サジェスの診断を聞いて真っ先に喜んだのはトレーラントだった。
まるで自分のことのように喜びながら、俺を抱き上げて跳ねまわっている。
おかげでさっきから視界が揺れて仕方ない。
三半規管を丈夫に作っておいて本当によかった。
そうでなかったら、今頃酔って倒れてただろう。
まあ、あとは寝るだけだから倒れても問題は――。
「ところでクラージュ。
お前、今夜の宿は決まってるのか?」
「……いや、決まってないな」
ないと思っていた問題に気が付いたのと、サジェスが問いかけてきたのは同時だった。
今後について考えるのに必死で、そういえばすっかり忘れてたな。
俺たちのやりとりを耳にしたトレーラントが不思議そうに首を傾げる。
「宿って、家には帰れないんすか?
あ、送り迎えなら俺がするっすよ! 世話が必要ならそれもするっす」
「気持ちはありがたいんだが、後輩にそこまでさせるのはな……。
それに、この状態だと家に帰る方が危険だ」
「危険?」
なにせ、飼っているペットが凶暴だからな。
魔法が使えないと対抗手段がないから、最悪食われかねない。
家に帰るのは魔力袋と魔力回路を再生してからにしたかった。
「先輩、何飼ってるんすか……?」
「躾が上手くいってなくてな」
「先輩にも苦手なことってあるんすねえ」
「むしろ苦手なことの方が多いぞ、俺は」
「全然知らなかったっす……」
俺の返答に、トレーラントが驚いたように声を上げた。
まあ、不得手なものを見せる機会なんてそうそうないからな。
昔は俺も「サジェスなら何でも出来る」と思ってたから、気持ちはわかる。
「でも、それじゃどうしましょう。
俺は寮住みなんで、誰かを泊めるには申請が必要なんすよね。
今の先輩なら、こっそり連れ込んでもばれない気もするんすけど……」
「ほう、寮の警備担当者たる俺の目の前で不正の相談か。
いい度胸だな、トレーラント?」
「えっ、サジェス先輩そんなこともやってるんすか?!」
目を細めたサジェスの言葉に、トレーラントが目を丸くした。
会社の設立に関わるほど長生きしているせいか、サジェスは本当にいろんな役割を兼任している。寮の警備担当もその一つだ。
早く誰かに役目を譲りたいとよく愚痴られたから覚えている。
「未申請で部外者を宿泊させた場合、一月の減給と始末書十枚だ。
青春の一幕として、体験してみるか?」
意地悪く問いかけるサジェスに、トレーラントが勢い良く首を横に振った。
「うう、冗談すよ……。
でも、このままじゃクラージュ先輩泊まるところないっすよ。
どうするんすか?」
「まあ、自席で休むさ」
さいわい、今の俺はすこぶるコンパクトだ。ついでに寝返りも打てない。
執務机の上でも安心して寝られるだろう。
周囲の雑音で眠れなくなるほど繊細な神経もしてないしな。
「おいおい。むかし面倒を見た後輩を見捨てるほど、俺は薄情じゃないぞ」
「別に薄情とは――」
思ってない、と言うより先にサジェスが指を鳴らした。
周囲の空間がゆらりと捻じ曲がり、黒い影が広がっていく。
瞬きを一つする頃には、景色が一変していた。
落ち着いた色の壁紙と柔らかな絨毯。
小さな暖炉には赤々とした炎が燃えている。
中央には大きなベッドと、水差しの置かれたサイドテーブルがあった。
簡素だが、眠るには丁度いい部屋だ。
「身体が戻るまで、ここで暮らすといい。
あまり広くないが、今のお前には丁度いいはずだ」
「それは助かるが、いいのか?」
「もちろん、ただとは言わないさ」
俺の顔を覗き込んで、サジェスがにんまりと笑った。
何か企んでいる時の顔だ。嫌な予感がするな。
「ちょっと実験に付き合ってくれ」
「………………具体的には?」
「簡単だ。毎日俺の料理を食べて、診察させてくれればいい」
そう言ってサジェスが差し出したのは一切れのパイだった。
焦げ茶色のソースを纏った角切り肉が断面からとろりと溢れ、パイの香ばしくて甘い香りが鼻をくすぐる。
今は無い腹が音を立てそうなほど、おいしそうな料理だった。
ふと浮かんだ疑問さえ解消されれば、毎日でも食べたいくらいだ。
「先輩、料理食べられるんすか?」
「こうして話せて呼吸出来てるんだから、大丈夫だろ」
少なくとも、咀嚼して飲み込むことは出来るはずだ。
その後、食べたものがどこへいくかは知らないけどな。
サジェスの要求は「料理を食べて診察させる」ことなんだから、仮に食べたものが全て無駄になったところで困るのは俺じゃない。
問題は……。
「それ、何の肉なんだ?」
肉からは微かに魔力を感じた。
豚や牛のような獣の肉じゃないことは確かだ。
それなら「実験」とは言わないだろうしな。
尋ねると、サジェスがにっこりと微笑んだ。
「クラージュ、先入観の力は恐ろしいんだ。
焼けた鉄だと思って氷に触れれば、火傷を負うこともある。
だから大抵の場合、被験者は投与されるものの詳細を知らされない。
それで実験の結果が変わったら困るからな」
「つまり?」
「実験が終わってからのお楽しみだ」
「だと思った」
そう言うと、サジェスが声を上げて笑った。
形のいい指が俺の頬をむにむにと摘む。
「そう拗ねるなよ、クラージュ。
それに、お前にとって悪い条件じゃない」
「まあ、そうだな」
理由もなく同族を害することは規則で固く禁じられている。
実験と言っても危険なものじゃないはずだ。
もっとも「危険」の範疇が俺とサジェスとで異なる可能性は大いにあるが、それでも契約に支障が出るほど無体な仕打ちはされないだろう。
「料理は日に何度食べればいいんだ?」
「朝と晩の二回だな。だが、そこまで気にする必要はない。
総合摂取量が目標に届けば事足りる。
具合が悪い時には無理して食べなくていい」
「そうか……なら、引き受けるよ」
「交渉成立だな」
緩い条件に内心驚きながら答えると、サジェスが笑って俺の頭の上に何かを乗せた。
硬くて重い。石か?
「魔石だ。この空間への鍵になってる。
俺が許可した者以外は入れないようになってるから、失くさないよう気を付けろよ」
「分かった。今日の分はそれか?」
さっき差し出されたパイに視線をやって尋ねると、サジェスが曖昧に笑って皿をサイドテーブルに置いた。
途端、パイが揺らめくように消えてなくなる。
サジェスがよく使う魔法だ。
「今日でもいいし、明日の朝でもいい。
どのみち、検査は明日以降不定期に行う予定だからな。
食べたくなったら皿を手に取ってくれ」
「ああ、分かった」
「じゃあ、あとは任せた」
そう言いながら右手をひらりと振って、サジェスが再度指を鳴らした。
すらりとした姿が影のように黒くなり、揺らいで消える。
途端に静かになった空間についため息を吐くと、ふと視界が高くなった。
「先輩。話も終わったんだし、そろそろ寝ましょうよ。
俺、もうクタクタっす。寝坊したら起こしてくださいね」
「今日は俺も自信が――って、泊まる気か?」
「そうっすよ」
俺と違って、トレーラントには帰れる家がある。
わざわざここに泊まる必要はないから今日はもう帰るのかと思っていたんだが、どうやら違ったらしい。
白豹に姿を変えたトレーラントが、俺を連れてベッドに上がった。
ベッドの真ん中を慣らすように前足で踏みながら言葉を続ける。
「それに俺、外泊って一回してみたかったんすよ」
「うーん……」
友達と泊まるなら確かに楽しいだろうが、先輩と泊まって楽しいんだろうか。
考えていると、こちらを眺めていたトレーラントが小さく首を傾げた。
「いやっすか?」
「俺は嫌じゃないが……気を遣ってるわけじゃないんだよな?」
「あたりまえっすよ。いやならはっきり言うっす」
「まあ、それならいいか。
よろしく頼む、トレーラント」
「任せて下さいっす!」
あまり遠慮してもトレーラントに悪いし、時間の無駄だ。
そう思って返事をすると、俺を包み込むようにして丸くなったトレーラントが大きく頷いた。
ふかふかの毛皮に包まれて思わず欠伸が出る。
「おやすみなさい、先輩」
「ああ、おやすみ。トレーラント」
明日もいい一日にしような。