36話 バイバイ勇者様
「サジェス先輩。本当にこれで、勇者は大人しくなるんすか?」
黒い髪、青白い肌、痩せ細った身体。
そして、美しいとも醜いとも言えない全体的に平たい顔立ち。
俺だったら絶対に選ばない見た目だと思いながら鏡に映る青年を眺めていると、サジェス先輩が「ああ」と上機嫌に頷いた。
「勇者にとっては、その男が何よりも効果的だ。
かけがえのない家族だからな」
俺が化けているのは、クラージュ先輩を首にした勇者の兄……らしい。
生まれたときから病弱で外に出たことはほとんどない。
健康な弟を羨むことはあっても妬むことはなく、むしろ気遣える人格者。
それがサジェス先輩から聞いた勇者の兄像だった。
正確には勇者から見た兄だって言ってたけど、俺に与えられた役割はこの姿で勇者の前に現れて動揺を誘うこと。
勇者さえ兄だと思ってくれればいいから、第三者目線での勇者の兄像は必要ない。
「それから、このイヤリングは絶対に身につけておけよ」
「言われなくとも外さないっすよ」
「落とすかもしれないだろう?」
「新入社員じゃないんすから、そんなへましないっす!」
髪に隠された耳で揺れる真紅の魔石。
魔力を隠蔽してくれる効果が付与されたそれに触れながら、鏡越しにサジェス先輩を睨んだ。
確かに俺はクラージュ先輩を落とすけどイヤリングは落とさな……あれ、でもイヤリングより先輩の方が大きいから、その先輩を落とすってことはえーと……。
「……たぶん」
ちょっと自信がなくなってそう付け加えると、サジェス先輩が吹き出したのが見えた。
思わず頬を膨らませそうになって、代わりに困ったように目を伏せる。
それを見て、サジェス先輩が片眉を上げた。
「お前にしては珍しい表情だな」
「勇者の兄は大人びた青年なんでしょう。
普段の俺みたいに子供っぽい振る舞いはしないっすよ」
「ずいぶん演技熱心だな?
勇者の前に長時間立つわけでもないのに」
「そりゃそうですけど、いつもの俺なら絶対演じない役っすからね。
せっかくならものにしたいんすよ。
何事も考えて行動することが大切って、クラージュ先輩から教わったんで」
先輩とコンビを組んでから教わることは多かった。
報酬の提示の仕方、願いの誘導方法とその叶え方。魔力の制御……。
その全てで、俺は自分のやり方が最善だと思っていた。
俺にはこの契約方法が一番合ってるし、慣れてる。
昔みたいに考えこまなくとも提案できるようになったのは成長の証だ。
今のやり方を続けていれば、じきに上位の悪魔になれる……って。
クラージュ先輩に教わったやり方は考えることが多くて頭が痛くなる。
慣れたやり方じゃないから疲れるし、時間もかかる。
最初は正直、ちょっと面倒だなあって思うこともあった。
先輩と一緒に行動するのは好きだったから、嫌じゃなかったけど。
でもおかげで一件ごとの報酬額は増えたし、課長に叱られる回数も減った。
最近は考えすぎて疲れることもないし、成績も給与もかなり上がったと思う。
クラージュ先輩に言われた通り、きちんと考え続けたおかげだ。
契約でこれなら、他にも改善すべき点はあるんじゃないのか。
そう思い始めたのは、先輩とコンビを組んで少し経った頃。
教わった契約方法にも慣れて、余裕が出てきた時だった。
俺なりに自分のやり方を見直して、改善してみよう。
うまくいけば契約の効率を今よりもっとあげられるかもしれない。
別に今すぐ欲しいものがあるわけでも、上位になりたい事情があるわけでもないけど、成績が上がれば悪魔として嬉しいし、契約数が増えて魔力が溜まれば先輩の身体も早く再生出来る。
そこで目を付けたのが変化の魔法。
正確には、それをより生かすための演技力だった。
俺は今までクラージュ先輩のような落ち着いた物腰の人間を演じたことがない。
そういう印象を感じさせる姿になることは出来る。
おっとりとした垂れ気味の目に、何もしなくとも微笑みを浮かべているように見える唇。弓なりで形のいい眉。
先輩を構成するそれらの要素を真似すれば、ぱっと見は騙せるはずだ。
でも、仕草や言動が伴わないから長時間接すれば違和感を抱かれる。
だから俺は今まで、特定の人間ばかり演じてきた。
明るくて、華やかで、人目を惹く。少し頭が軽そうで親しみやすい。
悪魔を召喚することの多い貴族たちや金持ちが一番好む人間像だ。
自分から大きく逸脱しない性格だから、演じるのも負担にはならない。
でもこれから先、きっとこの人間像だけではうまくいかない時が来る。
だからその前に演技の幅を広げることにした。
それが昨日演じた「落ち着きのある柔らかな物腰の青年」だ。
仕草や言動は先輩を参考にしたから結構自信があったんだけど、これが思いのほか難しかった。
声や仕草は普段より控えめに。笑みは柔らかく。感情表現も抑え気味に。
たったそれだけなのに少し加減を間違えると「落ち着きがある」じゃなくて「暗い」「目立たない」人間になってしまう。
実際、先輩は俺が「物静かで控えめな」青年を演じたと思ったらしい。
観察力に長けた先輩がそう感じたなら、周囲の人間たちも同じように感じただろう。
俺がどんなつもりで演じようと、相手に伝わらなかったらその時点で失敗だ。
「だから、この役は成功させたいんすよ。
それに、俺が正体を見破られたら作戦失敗ですからね。
……そんなことないっすか?」
サジェス先輩から説明された作戦は簡単だった。
俺が勇者の気を引いて、クラージュ先輩とフィリアさんが勇者を動けなくして、サジェス先輩が捕らえる。俺でも理解できる単純な作戦。
だからこそ作戦の起点になる俺の責任は重大だと思ってたけど、よく考えたら俺たちがいなくてもサジェス先輩だけでなんとかなるんじゃ……?
そう思ってサジェス先輩を見たら、肩をすくめられた。
「確かに俺だけでもなんとかなるから、過度に気負う必要はない。
だが、気を抜かれても困る。お前達を誘ったのには相応の理由があるからな」
「理由? ……クラージュ先輩がよく言う、経験を積ませるって奴っすか?」
「それもあるが、さほど重要な理由じゃない。
勇者と渡り合うなんて経験、中位の悪魔にさせるものでもないしな」
じゃあ、他にどんな理由があるんだろう。
考えようとした時、サジェス先輩が「ユウリ」と勇者の兄の名前を呼んだ。
「そろそろ勇者が来る。準備しておけ」
「――はい、サジェス先輩」
か細いけど暗くはない、静かな声を意識して返事をする。
声質自体は勇者の記憶を読み取ったサジェス先輩から教わったから問題ない。
あとは勇者が思う兄の姿と声、仕草を再現すればきっと騙せる。
上手くいったら、まずは先輩にうんと褒めてもらおう。
それから勇者をどんな目に遭わせるか相談して……。
病弱な人間らしい儚げな笑みを練習しながら、俺はずっとそんなことを考えていた。
+++++
俺は、みんなを救わないといけない。
だって、俺は勇者だから。
だって、俺は強いから。
だって、俺は――健康で手術をしなくていいしあわせな子だから。
心臓の悪い兄貴とは違って。
物心ついた時から、俺はいつも「兄貴の次」だった。
兄貴の手術があるから、兄貴が体調を崩したから、兄貴の体調がいいから。
両親はいつもそればかりで、俺に関心を向けてくれたことは一度もない。
でも、兄貴が嫌いなわけじゃなかった。
生まれつき心臓が悪いのも、愛情を一心に注がれているのも兄貴のせいじゃない。
いつも俺の話を聞いてくれる兄貴のことは――兄貴自身は大好きだった。
それでも嫉妬はあって、最期は後味の悪い別れ方をしちゃったけど。
兄貴と死に別れた後、俺はこの世界に召喚されて勇者になった。
みんなが俺を見てくれる。頼ってくれる。褒めてくれる。
嬉しくて、もっと喜んでもらいたくて、俺はたくさんの人を助けた。
それなのに、いつからだろう。この世界の人も俺を見てくれなくなったのは。
枢機卿達は俺が人助けするのをよく思っていなかった。
ベルは浄化の旅を中断して悪魔を殲滅する旅に出たいと言ったら反対した。
オリビアは俺の言うことやることみんな反対するようになった。
分かってる。全部、俺が悪いんだ。
俺がもっと強くならないから。
俺がもっとたくさんの悪魔を殺さないから。
俺がもっと多くの人を助けないから。
もっと強くなれば、悪魔を殺せば、人を助ければみんな愛してくれる。
それが俺の役割だ。俺に与えられた使命だ。俺の生きがいだ。
だけど――最近は、少し疲れていた。
ベルもエアトベーレも、俺は悪魔から護れなかった。
これを挽回するにはあとどれくらい頑張ればいいんだろう。
どれくらい頑張れば、褒めてもらえるんだろう。
『大丈夫ですよ、ユウトさん。
私は決してあなたを裏切ったり、否定したりしませんから』
そんな時に現れたフィーネは俺の救いだった。
フィーネは俺を褒めてくれる。認めてくれる。愛してくれる。
彼女がいなかったら、俺は今頃心が折れていたと思う。
だから、フィーネの為にも今日の作戦は絶対に成功させると決めていた。
悪魔の本拠地に乗り込んで、皆殺しにするんだ。
まずはベルを殺した悪魔とエアトベーレを滅ぼした悪魔。
それから、前に取り逃がした黒髪の悪魔を――。
「――ユウト」
悪魔の魔力を辿って転移した先で、俺は信じられないものを見た。
日に焼けていない青白い肌、少し長めの黒い髪、長い闘病生活で痩せ細った身体。
俺や両親がお見舞いに行くといつも静かに微笑んでいた兄貴がそこにいた。
優しい声も静かな笑みも記憶のままだ。
「あ、兄貴……」
違う、兄貴じゃない。兄貴のはずがない。
だって、兄貴は向こうの世界にいる。こっちの世界にいるわけがない。
頭では分かっているのに身体はちっとも動かなかった。
嬉しさと驚きと怒りと悲しみと。
いろんな感情がぐちゃぐちゃに入り混じって、自分でも何を感じているのか分からない。
混乱している俺の前で、兄貴が再び口を開いた。
「元気そうでよかった。心配していたんだよ」
「う、ん……」
悠長に会話してる場合じゃないことは自分でもわかっていた。
きっと何か……悪魔が化けてるんだ。
でも、目の前の兄貴から悪魔の魔力は感じられなかった。
見た目も声も仕草も表情も俺の知っている兄貴のままだ。
攻撃するなんて出来ない。したくない。
だから、もしかしてって思った。
俺は交通事故で死んでこの世界に転移した。
それなら、兄貴もひょっとして――。
その時、腰にするりと細い腕が巻きついた。
甘い香り。フィーネの匂いだ。
でも、なんで? 森でオリビアと留守番してるはずじゃ……。
「お疲れさまでした、ユウトさん」
鈴を転がすような可愛らしい声が聞こえた途端、世界が霧に包まれた。
次いで音が遠くなり、甘い香りがなくなり、フィーネの腕の感触が消える。
まるで雲の中を漂っているような気分だった。
きっと、ここが天国だ。だってほら、ここなら何も悩まなくていい。
……あれ、俺はなにに悩んでたんだっけ?
思い出そうとしたけどおもいだせない。
ああそうか、きっとなやみなんてさいしょからなかったんだ。
だっておれは、しあわせな子だから。