34話 お可哀そうな勇者様
どうやらフィリアは、俺を胸パッド代わりに下着の中へ詰め込んだらしい。
確かに、俺の隠し場所としてそこは最適だ。
どんな人間も、まさか下着の中に悪魔が隠されているとは思わないだろう。
魔法で姿を変えられているから、今の俺はどこから見ても胸パッドだしな。
ただ感情的にはちょっと――いや、かなり複雑だ。
とりあえず、常に触れている柔らかいものについては考えないようにしよう。
……この作戦が終わった後、フィリアの顔を何事もなく見られる気がしない。
「トレーラントさんには、クラージュさんとは別の役割を用意しました。
サジェスさんから説明があると思うので、そちらへ行ってください」
「それはいいっすけど……先輩、大丈夫なんすよね?」
こちら(フィリア視点だと胸)を見て不安そうに尋ねるトレーラントに、フィリアが「ええ」と頷いた。
「勇者は既に虜にしてあります。
クラージュさんに危険が及ぶことは決してありませんから、安心してください」
「……わかりました」
先ほどより不安の色が薄くなった瞳が俺とフィリアを交互に見つめる。
納得しきれてはいないが、状況は受け入れたらしい。
「じゃあ先輩、フィリアさん。また後で」
「ええ、また」
別れの挨拶を交わした直後、目の前の景色がふっと霞んだ。
ややあって、密集した木々が視界に映る。場所を移動したらしい。
目に映る景色と肌に感じる魔力からして、下級精霊が多く暮らす森のようだ。
『クラージュさん、聞こえますか?』
周囲を観察していると、頭の中にフィリアの声が流れ込んできた。
思念の伝達か。これなら確かに盗み聞きの心配はないが、ずいぶん慎重だな。
そんなことを思いながら魔力の波長を合わせ、同じ方法で返事をする。
『ああ、聞こえる』
『安心しました。それにしても、クラージュさんは器用ですね。
分かってはいましたけれど、他種族の魔力にも合わせられるなんて』
『魔力の操作は得意だからな』
『ふふ、クラージュさんを選んでよかったです』
思念の伝達は一方通行ならさして難しい魔法じゃない。
だが、やり取りするにはどちらかが魔力の波長を合わせる必要がある。
こうして思念のみで会話をするには、少々技術が必要だった。
相手が他種族だと波長が大きく異なるから余計だ。
波長をずらすのに失敗すると身体に不調が出たり、最悪狂うからな。
だが幸い、魔力操作は俺の得意分野。これくらいは造作もない。
フィリアに褒められて浮かれているのを表に出さないよう、平静を装って話を続ける。
『それはともかく、ここは森か?』
『ええ。ここから少し歩いたところに、勇者様とそのお仲間の方がいます。
彼らと合流する前に、軽く説明しておきますね。
もしかしたらクラージュさんの知恵をお借りするかもしれませんから』
サジェスとフィリアが立てた作戦中に俺の知恵が必要になる場面はないと思うが、情報を共有してくれるのはありがたい。
礼を言って、フィリアの話にどこにあるのかも分からない耳を傾けた。
それによると、異世界から召喚された勇者の名はユウト・サイキ。
年は十六歳。勇者としては平均的な年齢だ。
魔力や身体能力も同様で、歴代勇者より劣ってはいないが秀でてもいない。
もちろん人間としてはずば抜けた能力だが、勇者としては平凡な人間だった。
そんな勇者の強みは所持しているスキルにある。
勇者が持つスキルは「転移」。
その名の通り、望んだ場所ならどこにでも転移できるスキルだ。
それだけ聞くと転移魔法と大差ないように思えるが、もちろん違う。
転移魔法は転移先の座標を知らないと発動できない。
つまり「前の馬車を追ってくれ!」みたいな真似はできないってことだ。
探知魔法と組み合わせれば似たようなことは可能だけどな。
だが、勇者のスキルではそれが出来る。
つまり、悪魔がどこにいるか調べなくとも「悪魔がいる場所」と望むだけで目当ての相手に辿り着けるってわけだ。
悪魔を殲滅するのが目的の勇者にとっては最高のスキルだな。
転移できるのは勇者のみという制限はあるらしいが、それにしても脅威であることに変わりはない。
一度転移してしまえば座標が分かる。
座標が分かれば、スキルではなく魔法で転移出来るからな。
そもそも、強大な力を持つ勇者が仲間を必要とする場面はそうないと思うが。
『なかなか手ごわそうな相手だな』
『ええ。普通なら、私達では手も足も出ないでしょうね』
確かにな。俺は中位の悪魔(しかも首)だし、フィリアは戦闘向きでない夢魔だ。
本来はサジェスに一任して、俺たちは引っ込んでいるのが正しい。
『だけど、考えはあるんだろう?』
フィリアは決して冷徹ではないが、情に流されて判断を誤ることもない。
同情し、共感し、それでいて冷静に対処法を考えるタイプだ。
そんなフィリアが勇者の前に姿を現すのなら、何か策を考えているはず。
問いかけると、鈴を転がすような笑い声が辺りに響いた。
『ええ、もちろん。
今回の勇者様は正義感が強くて弱者を見捨てられない、優しい人ですから』
フィリアが言うには、勇者はこれまで魔物や悪魔に苦しめられてきた(と、される)多くの人々を救って来たらしい。
浄化の旅の最中であろうと関係なく、時に遠回りしてさえも。
おかげで旅はかなり遅れ――最終的に、全ての国を巡り終える前に終了したそうだ。
『それは愚かの間違いじゃないか?』
『あら、手厳しい』
そう言いつつも否定せずにくすくすと笑う辺り、フィリアも同意見なんだろう。
浄化の旅は勇者に課せられた使命の一つだ。
各国を巡って勇者の存在を示し、民の心に安らぎと希望を与えること。
魔物との戦闘を経て実践経験を積むこと。
そして、旅を通じて書物からは得られないこの世界の知識や常識を学ぶこと。
これらが浄化の旅の主な目的だった。
旅の日程は綿密な計算の下で組まれている。
各国の権力者との顔合わせも兼ねているんだから当然だな。
悪天候の影響なども加味してある程度余裕は持たせてあるが、勇者が満足な人助けをするにはその余裕を全て食いつぶしてもなお足りなかったらしい。
旅が途中で終わったということは、勇者が行かなかった国もあるということ。
枢機卿達は事態の収拾に追われたことだろう。
教会は確かに権力を持っているが、その財政を支えているのはヴェンディミアの民と「善意」の寄付者だ。
各国の王族は毎年、大口の寄付をしているからな。
出来ることなら機嫌を損ねたくないはずだ。
そもそも、勇者の役割は悪魔を消滅させること。
悪魔に苦しめられている人々はともかく――実際には、その全てが魔物の仕業だったらしいが――、魔物の被害者を救うのは勇者じゃなくて教会の役割だ。
課せられた役割を放り出して他者の役割を奪うのは優しさじゃない。
『勇者様の優しさが愚かさだったとしても、私達には何の影響もありません。
私達はただ、心優しい女の子として彼を導くだけですから』
『導く、ね。ところで、俺の役割は?』
確かに俺は心優しい女の子の一部だが、まさか胸の嵩増しのために連れて来られたわけじゃないだろう。
……ないよな?
若干戦々恐々としながら尋ねると、フィリアがくすりと微笑んだ。
『私の魔力が溢れそうになったら、吸収して下さい』
なんだそれは?
聞き返そうとした時、フィリアとは別の魔力がこちらに近づいてきた。
種類は人間だが、その量は膨大だ。それに、この魔力には覚えがある。
「フィーネ!」
現れたのは、この世界でまずありえない黒髪黒目の組み合わせ――異世界の勇者だった。
この世界では黒い髪と目を併せ持つ者が生まれることは決してない。
そういう仕組みらしい。黒猫に赤い目を持つ個体が生まれないのと同じだ。
つまり、黒髪黒目はこの世界以外で生まれた者……異世界の勇者の証だった。
「ユウトさん」
勇者を観察していると、鈴を転がすような声がその名を呼んだ。
フィリアの全身をさっと眺めた勇者の目に安堵の色が浮かぶ。
「よかった、無事で。
水浴びに行ったきり帰ってこないから、心配で……」
「ありがとうございます、ユウトさん。
小鳥が怪我をしていたので、手当てをしていたんです。
心配させてしまってすみません」
「そうだったのか。フィーネは優しいな」
さらりと嘘を吐いたフィリアを疑う様子もなく勇者が微笑んだ。
ちなみにフィーネは人間の娘を演じる時にフィリアがよく使う偽名だ。
本名と似ているからとっさの時にも反応しやすいという理由で選んだらしい。
「オリビアが話があるみたいなんだ。早く帰ろう」
そう言って、勇者がフィリアの手を取った。
先ほど聞いた話によると、オリビアは勇者に同行している巫女のはずだ。
元聖女候補で治癒魔術に長けているらしい。
そんな女が一体、何の話なんだろうな。