32話 誰が悪魔を首にしたの? それはあの子と夢魔が笑った
「こんにちは、クラージュさん。トレーラントさん」
「フィリアさん? えっと、こんにちは」
山のようなアンデッドを魔法で霊廟に放り込んだ後、若干グロッキーになりながら扉を開いたトレーラントを待っていたのは見知った夢魔――フィリアだった。
普段まとめられている薄紫の髪は緩やかに波打ち、一部の隙もなく整えられた服装は白を基調とした清楚なワンピースに変わっている。
休日らしい恰好に似合う柔らかな笑みを浮かべて挨拶をするフィリアを見て、トレーラントはきょとんとした顔で瞬きを繰り返した。
「……先輩、ひょっとしてフィリアさんと約束してたっすか?」
「いや、してない」
小声で尋ねてきたトレーラントの腕の中、首を左右に緩く揺すった。
たまに美術館や劇場に誘われることはあるが、今日は約束してないはずだ。
そんなことを考えていると、フィリアが申し訳なさそうに眉を下げた。
「せっかくのおやすみ中にお邪魔してしまって、申し訳ありません」
「いや、それはいいんだが……何かあったのか?」
「ええ。実はクラージュさんたちに少々ご相談がありまして」
淡いルージュに彩られた唇が蠱惑的な弧を描き、俺の耳元に寄せられる。
数瞬の間の後、甘い声が静かに囁いた。
「これから、私とデートしませんか?」
「えっ」
フィリアの言葉に声を上げたのは俺ではなくトレーラントだった。
困ったように眉を下げて、俺とフィリアを交互に見つめる。
戸惑いを感じ取ったのか、フィリアがくすりと笑って言葉を続けた。
「もちろん、トレーラントさんも一緒に」
「えっ?!」
「魅力的な申し出だな。
出来れば、悪魔風の言い回しをしてくれるともっと嬉しいんだが」
「まあ」
このままだとトレーラントの誤解を解くだけで日が暮れそうだ。
俺の頼みにフィリアは楽しそうに微笑んで、再度口を開いた。
「私と一緒に、異世界から来た勇者様を狩りませんか?
おやすみは潰れますが、代わりに莫大な魔力が手に入りますよ」
「だ、そうだ。どうする? トレーラント」
くるりと首を反転させて尋ねると、真紅の目がぱちぱちと瞬いた。
「あ、本当にデートに誘われたわけじゃないんすね……」
「あら、私はそれでも構いませんよ。
今度のお休みにでも、一緒にいかがですか?」
「次の休みかあ……」
次の休みがいつになるかは分からないが、身体の再生よりは早く訪れるだろう。
デートをするとしたら、今のように抱えられて運ばれるしかない。
それはちょっと……かなり嫌だ。
俺にだって、片思いの相手にいいところを見せたいというプライドはある。
フィリアの言う「デート」が「お出かけ」を夢魔風に言い換えただけだと分かっていてもだ。
だが、せっかくの誘いを断るのは惜しい。
もしかしたら社交辞令かもしれないが、その時は素直に謝ろう。
そう決めて、曖昧に濁した言葉が空気に溶ける前にもう一言付け足した。
「身体が再生した後にでも、エスコートさせてくれ」
「ええ、楽しみにしていますね」
桃色の瞳を柔らかに細めてフィリアが頷く。
途端に明るくなった気分に我ながら単純だと思いつつ、思考を切り替えた。
ここまではほんの前置き。本題はこれからだ。
「それで、どうする? トレーラント。
フィリアの誘いに乗ってみるか? それとも今日はのんびり過ごすか?」
「俺は……やってみたいっす。
何をするのかよく分からないっすけど……」
「そうだな、もっともだ。
フィリア、狩りの内容を聞いてもいいか?」
尋ねると、フィリアはにっこりと微笑んで「ええ」と頷いた。
「お二方とも、異世界の勇者はご存じですよね?」
「えっと、正教会が異世界から召喚してる人間のことっすよね。
天使の加護を受けてるから、身体能力も魔力もこの世界の人間とは比べ物にならないほど高いって聞いたことがあるっす」
「大体合ってるが、一つ訂正だ。
加護を受けたから魔力や身体能力に優れているわけじゃない」
正確にはその逆だ。
天使の加護を受けるために魔力や身体能力を高く設定されている。
そうでないと、肉体が加護に耐え切れないからだ。
俺の説明にトレーラントが小さく首を傾げた。
「でも先輩。さっき、教皇が加護を受けたって言ってたっすよね?」
「ああ。だが、あの男が受けた加護は勇者のそれより遥かに劣る。
肉体の隅々にまで天使の魔力が行き渡っている勇者とは違う」
今の教皇には会ったことがあるし、その際に天使の魔力を感じたのも事実だ。
だが、その濃度は異世界の勇者よりずっと薄い。
魔法に至っては完全に人間の魔力のみで構成されていた。
仮に攻撃魔法を放たれたところで、その威力は加護を持たない人間が放ったものと同じ。
異世界の勇者が使う魔法のように、悪魔への脅威にはならないだろう。
……魔力量は多いから、下位の悪魔なら消滅するかもしれないけどな。
「つまり、勇者は準天使みたいなものっすか?」
「当の天使たちが聞いたら憤死するかもしれないが、まあ簡単に言うとそうだな」
「……そんなものと対峙して大丈夫なんすか?
だって俺たち、他種族相手には攻撃魔法使えないんすよね?」
トレーラントの疑問はもっともだった。
いくら魔力や身体能力が人間離れしていようと勇者は悪魔でも天使でもない。
正当な理由もなく勇者を害せば罰則が下る。こちらから手は出せない。
だから天使は勇者を使って悪魔を滅ぼそうとしてるんだけどな。
「ええ、問題ありません。
争いになるようなことはしませんから」
「じゃあ、どうやって狩るんすか?」
「弓矢で追い回すだけが狩りではありませんよ、トレーラントさん」
桃色の瞳に悪戯な光が浮かんだ。
なるほど、だから狩りか。と納得しながら口を開く。
「罠を仕掛けてあるのか」
「ええ。もっとも、罠を仕掛けたのは私ではなくサジェスさんですが。
私は罠に獲物を追い込む猟犬役ですね」
「なら、俺たちは獲物を誘い出す餌役か?」
もしそうならさすがに危険すぎる。フィリアには悪いが断ろう。
役とはいえ、勇者に狙われることに変わりはないからな。
後輩を危険に晒したくはない。
その想像とは裏腹に、フィリアは大きく首を横に振った。
「いえ、それはもう間に合っています。
クラージュさんにお願いしたいのは私のサポート役。
トレーラントさんにお願いしたいのは足止め役です」
そうして説明された作戦は絶対に安全……とは言い切れないが、異世界の勇者を相手にすると考えれば破格の安全性を備えたものだった。
普段の契約と同程度の危険性だと考えれば、あってないようなものだ。
協力する報酬は、俺が勇者の魔力でトレーラントが生命。
ちなみに魂はサジェスが、肉体はフィリアが予約済みらしい。
今回の作戦はフィリアたちが考えたそうだから、その分け方に文句はない。
むしろ、俺たちが務める役割を考えればもらいすぎているくらいだ。
「もちろん、評価にも相応の加算がされます。
休日出勤なわけですし、相手は異世界の勇者ですから。
いかがですか?」
「そうだな……二つ聞いていいか?」
「ええ。私に答えられることでしたらお答えいたします」
「そうか。なら……」
頭の中で言葉をまとめ、フィリアを見上げる。
桃色の瞳が優しげに俺を見返した。
「一つ目は、勇者を狩る理由だ。
サジェスが協力しているってことはあいつに危害を加えたか、あるいは悪魔全体の不利益になると判断されたんだろう? それが聞きたい」
確かに異世界の勇者は忌々しい存在だ。
だからといって好き勝手に排除していいわけじゃない。
必ず排除するだけの理由があるはずだが、それがわからなかった。
サジェスが危害を加えられたのなら、フィリアが協力するのはおかしい。
そもそもあいつが人間に傷を負わされるとは思わないが、サジェスだったら自分の力だけで容易に蹴りを付けられるはずだ。
こんな回りくどい罠を張って勇者を仕留めようとするのは妙だった。
なら、後者か?
確かに規則では、悪魔全体に害を及ぼす者は例外的に排除が認められている。
天界から天使が降りてきた場合なんかは最たるものだな。
今までそんなことがあった試しはないが。
ただし、その適用条件は非常に厳しい。
異世界の勇者が現れた程度じゃ種族全体の不利益とはみなされない。
じゃあ勇者が何かしでかしたか?
だが、俺の記憶ではそんな大事件が起きた覚えはない。
排除を認められるほどやらかしたなら、大きなニュースになっているはず。
それを忘れるほど耄碌はしてないと思うんだが……。
「次に、俺たちに協力を要請した理由。
今回の役割は別に、俺とトレーラントじゃなくても出来るだろう。
他の悪魔を選ばなかったのはどうしてだ?」
そもそも、サジェスがいるならフィリアが手伝う必要もない気がする。
あいつが異世界の勇者に後れを取るとは思えないしな。
今の勇者は歴代の中でも平均的な能力しか持っていなかったはずだ。
特に悪知恵が働くとか特別なスキルを持っているといった噂も聞かない。
サジェスなら、赤子の手をひねるより簡単に蹴りを付けられるだろう。
わざわざフィリアや俺たちを付き合わせて自分の取り分を減らす必要はない。
「あら……やっぱり、クラージュさんに隠し事は出来ませんね」
はにかむように微笑んだフィリアが告げた答えは、実に単純なものだった。
「どちらの疑問も応えは同じです。
クラージュさんを首にしたのが、異世界の勇者だから。
……これで、ご納得は頂けましたか?」
こちらを見つめる桃色の瞳が、僅かに冷たい色を帯びた気がした。