24話 おかしなおかしなお菓子の国
「……甘いっす。先輩」
「ああ、甘いな……」
手についた雨を舐めたトレーラントが、顔をしかめて呟いた。
これは水じゃない。飴だ。それも相当濃縮されている。
久々に訪れたエアトベーレは、その全域を甘い雨に覆われていた。
飴のむせ返るほど濃厚な甘ったるい匂いが鼻を突く。
正直、ここに居るのはかなりつらい。
液状の飴なのに熱さを感じない点だけはまだ救いか。
「うう、こんなの考えたエルフ部は何考えてるんすか?
もっと俺たちのことも考えて欲しいっす」
「いや、向こうは別に俺たちの為にやってるわけじゃないからな」
しかし、エルフ部もよく考えたものだな。
人間の生命維持にもっとも必要なものは水と食料だ。
この雨なら、大して手間を掛けずにその両方を全滅させられる。
固まった飴のせいで馬車も船も動かないから、他国へ助けを求めることも出来ない。
あとは人間達が餓死していくのをゆっくりと待てばいい。
面倒を嫌うエルフ部らしいやり方だった。
ちなみにエルフ部はその名の通り、エルフを契約相手としている部署だ。
所属する悪魔は二名と数こそ少ないが、どちらの社員も圧倒的な力を持っている。
なにせ片方は第一位、もう片方は第八位の位階持ちだからな。
人事部でもっとも魔力の高いサジェスは第五位だと言えば、その魔力の高さが伝わるだろう。
「にしても、こんな滅び方させられるってエアトベーレは何やったんすか?」
「戦争でエルフの女王を殺した。
それも、殺したのはラファエル・フォン・ミルヒエル。
魔力を持たない騎士だ」
エルフは全ての価値を魔力で決める。
魔力の高い者は敬われ、低い者は虐げられるのが基本だ。
それ故、生まれに関係なく一族でもっとも魔力の高いエルフが女王となる。
そんなエルフにとって、ラファエルに女王を殺されるのは何よりの屈辱だったはずだ。
これがせめて魔力を持つ王や貴族、あるいはもとから魔力を持たない平民ならまだマシだっただろうが、ラファエルは違う。
本来魔力があるはずなのにそれを持たない生き物、というのはエルフからしてみればとんだ欠陥品だからな。
「それでわざわざ悪魔と契約して、こんなに苦しむやり方で滅ぼそうとしたんだろう。
エルフのプライドの高さは相当だからな」
「確か、エルフ部って一度の契約でかなりの報酬を請求するんすよね?
それで二回も契約するって……俺には理解できないっすね」
「俺も理解はしてない。ただ知ってるだけだ。
エルフと関わることはないだろうが、念のために知っておいた方がいい」
何が身を守るか分からないからな。
そう言うと、トレーラントは素直に頷いた。
「えっと、それで俺たちは何をすればいいんすか?」
「契約だ。すぐに……ああ、ほら。来たぞ」
空中から舞い落ちた調査書を示すと、トレーラントが慌てて手を伸ばした。
危なげなく掴んだ調査書を一緒に覗き込む。
「お、最初から面倒なのが来たな。
しかもこれは……」
ヴィネア・フォン・ミルヒエル。ミルヒエル伯爵家の女当主。
望みはこの国の救済。想定通りだな。
確か、ミルヒエル伯爵家はさっきまで話していたラファエルの生家だ。
もしかしたら月の目を持つ人間がもう何人か手に入るかもしれない。
トレーラントもそう思ったのか、目を期待に輝かせていた。
「でも、国の救済なんて俺たちに出来ますかね?」
「調査書に書かれた願い通りに契約する必要はない。
ラファエルと契約した時に見せただろ?
自分の手に余ると思ったら、上手く誘導すればいい」
それに、今回は特に指名を受けたわけじゃない。
にも関わらず振り分けられたということはつまり、俺たちの実力でこなせると判断されたってことだ。
そう言うと、トレーラントはぱっと顔を輝かせた。
「それもそうっすね!
先輩が契約した時のことを思い出して、やってみるっす!」
「ああ、その意気だ」
さて、後輩の成長ぶりを特等席で見守るとするか。
+++++
ついにこの時が来た。
ミルヒエル伯爵家の当主として、この国を救う時が。
「母上、本当に実行するのですか。
その……悪魔の召喚は、禁忌では」
「ベリト。伯爵家の次期当主ならば覚えておきなさい。
人間の力では解決出来ない有事の際、悪魔を利用して国を守ること。
これが我が伯爵家の役割なのです」
王侯貴族のみが感染する薔薇の病が蔓延した時から、準備はしていた。
全身に透明な薔薇を咲かせ、徐々に死に至らしめる恐ろしい病。
こんな病気が自然と現れることはあり得ない。
降り止むことのない砂糖水の雨も同じこと。
流行病も異常気象も、人外が関わっていることは確かなはず。
ならばミルヒエル伯爵家の当主たる私が行うことはただ一つ。
悪魔を召喚し、この国の救済を望むだけだ。
代々の伯爵家当主がそうしてきたように。
無論、その報酬が莫大なものになることは分かっている。
伯爵家の財産に領土。私や家族、領民の魂。
私が持つ全てを捧げても、本来ならば叶わぬ願いでしょう。
けれど、問題はない。
欲深い悪魔を利用する策は連綿と受け継がれているのだから。
何日もかけて描いた召喚陣の中に入り、決められた言葉を紡いだ。
「神の命に背きし者 神の意に従いし者
我が呼びかけに答えよ 我が望みを叶えよ
我は汝に望みし者なり」
言葉を紡ぎ終えると同時に、陣の外が明るく光った。
隣で様子を見守っていたベリトが身を固くする。
緊張のせいか、息を詰める気配がした。
伯爵家が悪魔を召喚するのは数百年ぶりだ。
私とて、緊張がないわけではない。
知識はあれど、実際にそれを実行するのは初めてなのだから。
けれど、恐れはなかった。
悪魔は確かに圧倒的な力を持っているけれど、契約に縛られた哀れな種族でもある。
言葉に気を付けて契約をすれば何も恐れることはない。
一度結んだ契約を一方的に破棄することは、悪魔とて出来ないのだから。
「我が名はトレーラント。
ヴィネア・フォン・ミルヒエル。汝の望みを述べよ」
光が収まった頃、目の前に立っていたのは華やかな金の髪と真紅の目を持つ青年だった。
ベリトと同い年か、少し年下にも見える。
もちろんそれは見た目だけ。
実際には私より年上なのでしょうけど、不思議と老獪な気配は感じなかった。
むしろ、少々幼い雰囲気さえ感じられる。
きっとこの彼は、悪魔としては若い部類なのだろう。
老練な者よりも未熟な者の方が利用しやすい。
幸運に緩みそうになる唇を引き結んで、青年を見つめた。
「私の望みはエアトベーレ王国の救済です」
悪魔に主導権を渡してはいけない。
悪魔に多くを望んではいけない。
悪魔に付け入る隙を与えてはならない。
契約の基本通り、私はすぐにこちらの望みを告げた。
続いて「救済」という言葉が曲解されないようその意味を伝える。
「そして、私が求める救済は三つ。
エアトベーレの全域に降る砂糖水の雨を止めること。
薔薇の病の感染を止めること。
そして、我がミルヒエル伯爵家の存続。
それ以上でも、それ以下でもありません」
悪魔とはいえ、死者を蘇らせることは不可能。
契約を断られれば再度召喚する手間が掛かる。
だから、すでに死んでしまった者を蘇らせることは願わなかった。
エアトベーレが荒廃している原因はこの雨と流行り病。
雨が止み、病の感染が終われば被害の拡大は避けられる。
あとは水と食料を輸入し、マクシミリアン陛下や私たち貴族の魔法で荒廃した土地や壊れた建物を元に戻せばよいだけのこと。
「報酬として、私の血族を捧げましょう」
私の言葉に、ベリトが小さく息を呑む気配がした。
報酬の内容は教えていなかったから当然の反応でしょう。
この場で私を問い詰めるような愚かな真似をしなかっただけ及第点かしら。
話を終えると、それまで静かに耳を傾けていた悪魔が真紅の目を細めた。
途端に幼げな印象が薄らぎ、酷薄な表情が浮かぶ。
声変わりを終えた青年にしてはやや甘い声が室内に響いた。
「お前が報酬として捧げられる血族は二人だけ。
叶える願いに不釣り合いだ」
「報酬は後払いも可能なのでしょう?
私の娘シトリーの子孫も含めれば、決して不釣り合いではありませんわ。
あの子は王家に嫁がせる予定ですもの。
……この意味がお判りかしら」
わざと挑発するように尋ねれば、真紅の瞳に僅かな苛立ちが過ぎった。
その割にこちらに手を出す様子がないことに内心、胸を撫で下ろす。
悪魔は報酬を回収する時以外、決して契約者に危害を加えない。
これもまたミルヒエル伯爵家に代々伝えられてきた事実だった。
それなら出来る限り苛立たせて、冷静さを失わせた方がいい。
感情面で相手より優位に立つのも交渉術の一つなのだから。
「伯爵家如きが、王家に嫁げるとでも?」
「ええ」
王太子であるフリードリヒ殿下の婚約者は病に侵され、既に亡くなっている。
その他の公爵家、並びに侯爵家の娘も同様。
このような荒廃した国に他国から姫が嫁いでくることもない。
当然、伯爵家から王太子妃を迎えることになる。
そして、現国王であるマクシミリアン陛下は私に借りがある。
ラファエルを私から取り上げた、という借りが。
伯爵家の次男であるにもかかわらず魔力を持たずに生まれてきたあの子に、私は役割を与えてあげた。
悪魔への供物、という役割を。
もっとも、本当に悪魔に捧げることになるとは思っていなかった。
この数百年間、ミルヒエル伯爵家が悪魔を召喚したことはないのだから。
確かに私はあの子に悪魔との交渉する術を与えた。
あの子は悪魔が好む月の目を持っていたから。
けれど本来、あの子は我が家のかわいいペットとして一生を終えるはずだったのだ。
魔力を持たない貴族は人として生きることすら認められない。
生まれた瞬間に殺されるのが定め。
それなら最初から己が哀れだと理解できるほどの知識も教養を与えず、ただかわいい犬として飼うことの何がいけないのかしら。
それを知ったマクシミリアン陛下は激怒し、私からラファエルを取り上げた。
教養を与え、知識を詰め込み、人にしてしまった。
可哀想なラファエルは、決して報われない努力といつ失われるかもわからない身分に一生苦しんで生きることになった。
何も知らなければ今でもあの子は笑っていたはずなのに。
ラファエルを渡すことを拒んだ私に、当時の陛下は一つ約束された。
一度だけ、国に悪影響を及ぼさない範囲で私の望みを叶えると。
今までは使ってこなかったそれを、今こそ使えばいい。
伯爵家の娘であるシトリーとの婚約は王家にとっても悪い話ではないはず。
断られることはないでしょう。
そう説明すれば、悪魔は考えるそぶりを見せた。
「つまり……王族の子孫を手に入れられるということか」
独り言のような呟きに私は何も答えず、ただ余裕のある笑みを浮かべた。
それをどう捉えたのか、悪魔はさらに言葉を続ける。
「それならば確かに悪くない。
……だが、雨を止めることは難しい。
代わりに雨を浄化する装置をお前に渡す、というのではどうだ」
「ええ、構いませんわ」
悪魔の提案はミルヒエル伯爵家にとっても悪くないものだった。
装置を王家に献上すれば我が家の功績となる。
陞爵して侯爵家になればこの家はさらに栄えるでしょう。
「いいだろう。契約成立だ。
ヴィネア・フォン・ミルヒエル。汝の望み、叶えよう」
悪魔が差し出した手をそっと取る。
躊躇いはなかった。
あるのはただ、エアトベーレを救済出来た喜びと悪魔を騙せた安堵だけ。
契約が成立するとすぐに悪魔は姿を消した。
よほど報酬を早く受け取りたいのでしょう。
愚かな悪魔。貴方の想像するものは一つも手に入らないというのに。
「母上、これは一体どういうことですか!?
ラファエルだけでなく、シトリーとその子まで……!」
悪魔の気配が消えた途端、ベリトが詰め寄ってきた。
この子はまだ私が仕掛けた罠に気がついていないらしい。
仕方のないことだけれど、まだまだ未熟者ね。
当主の位を譲れるまであと何年かかるかしら。
ため息を吐いて、扇を広げる。
「落ち着きなさい」
「これで落ち着けというのですか?!」
「ベリト」
静かに名前を呼ぶと、ベリトはようやく口を閉じた。
「心配せずとも、なにも問題ありません。
確かにシトリーは王家に嫁がせますが、子は産ませません。
直前に毒を飲ませるつもりですから」
「……毒?」
「生殖機能を失う毒です。
そうすればあの子は子を産めないでしょう。
王家に悪魔を関わらせるわけにはいきませんからね」
一度結んだ契約は互いの合意がなければ破棄できない。
そして、結んだ契約は必ず遂行しなければならない。
もちろん、そこに虚偽があれば話は別だ。
けれど、私は「血族を渡す」とは言っても「シトリーの産んだ子を渡す」とは言っていない。
悪魔が勝手に妄想し、勘違いしただけ。
「契約にはミルヒエル伯爵家の存続も盛り込んであります。
ですから跡継ぎである貴方が回収されることはありません。
安心なさい」
「で……ですが、それだとシトリーはどうなるのですか?」
「ああ、ベリト」
少し考えれば理解できるはずのことを尋ねてくる子にため息を吐いた。
全く、この子は相変わらずね。
優しいのはいいけれど、冷静に物事を考える能力が欠如している。
かつて、ラファエルに知識と教養を教えるべきだと言い出した時のまま。
今は亡き夫に似てしまったのかしら。
「よいですか、ベリト。
貴族たるもの、時には家族さえ切り捨てる勇気が必要なのです」
それに、シトリーは生まれつき病弱で十六にもなってまだ婚約者がいない。
月の目を持たず、政略結婚の駒としても役にも立たないあの子一人の命で国と家を救えるのだからあの子もきっと誇りに思うでしょう。
あの悪魔が真実を知ってどんな顔をするか。
それを思って、ふと笑みがこぼれた。