22話 人殺し
牢に入れられた当初、私はまだそれほど強く危機感を抱いていなかった。
だって、私は化粧品に毒を混ぜたりなんかしてないもの。
存在すら知らないものを故意に混入出来るわけがないし、私は化粧品作りに誇りを持ってる。それを疑うなんて失礼な話だ。
きっと、侯爵夫人が倒れたのは偶然なんだと思う。
本当に毒が盛られていたなら、私にも被害が出ているはずでしょう。
試作した化粧品は、商品化する前に必ず自分や屋敷の者で試している。
侯爵夫人にお渡ししたものと同じ品を侍女やお母さま、私が使った時は倒れるどころか体調不良にさえならなかった。
毒が盛られていない証拠だ。
たぶん、お母様と同じで疲労が溜まっていたんじゃないかしら。
侯爵夫人は社交で忙しい方だし、若く見えて実は相当お年を召しているもの。
気付かないうちに溜まっていた疲れの症状が、運悪く試供品を試した時に出たとしてもおかしくない。
お渡しした化粧品から魔力毒性を含む物質が検出された理由は分からないけど……この世界の技術レベルだと捜査の質もかなり怪しい。
実は誤検出だったって可能性も低くないと思うのよね。
問題は、それを訴える相手がいないことだった。
牢に捕らわれて一週間。私が会ったのは食事を運んでくる看守だけだ。
侯爵が来る気配はないし、お父様やお母さまが面会に来たという話も聞かない。
せめて、弁護士が来てくれたら誤解も解けるかもしれないのに……。
「お店、大丈夫かしら……」
今頃きっと、お店の評判は大きく落ちているだろう。
商品の開発者である私があんな捕らえられ方をしたのだから当然だ。
誤解の解けていない侯爵から嫌がらせを受けていないかしら。
積もりゆく不安に押しつぶされそうになって、慌てて首を横に振った。
「……きっと、大丈夫よ。
もし駄目でも、またやり直せばいいんだから」
若いうちはいくら失敗してもいい。やり直す機会は必ずある。
それが昔、私が恩師から教わった言葉だった。
誤解とはいえ、侯爵家の怒りに触れたのだ。
店の客足は落ちるでしょうし、社交界での立場も悪くなったかもしれない。
身に覚えのないものだとしても、一度流された悪評はなかなか払拭されないことは前の経験でよく分かっている。
でも私はまだ十四歳だし、実家は国内でも有数の資産家だ。
それに両親は私を愛してくれている。
普通より恵まれているんだから、いくらでも――。
「いくらでもやり直せる、か。
残念ながら、この世には「取り返しがつかないこと」も存在するものだ。
そして、それは年齢問わず訪れる」
淡々とした、まるで川のせせらぎのように静かで抑揚のない声。
聞き覚えのある声に慌てて鉄格子に近づき、目を凝らした。
この世界でも珍しい、雪のように白い髪が暗闇にぼんやりと浮かぶ。
「……グリム先生……?」
服装こそ普段の白衣ではなく真っ黒なローブだったけど、私の前にいたのは間違いなく主治医のグリム先生だった。
お母様はもうよくなったのかしら。
それにしても、どうしてグリム先生が……?
「……もしかして、迎えに来てくれたんですか?」
「その通りだ」
いつも通り愛想の欠片もない端正な顔が私を見下ろした。
そっけないけれど求めていた言葉にほっと胸を撫で下ろす。
「よかった。やっと解放されるんですね!」
「そうだな。三日後には、君はこの世界から解放される」
「……グリム、先生?」
不穏な物言いに、高揚しかけていた気分がすっと醒めた。
だって、そのいい方じゃまるで……私が死ぬみたいじゃない。
ううん、違う。そんなはずない! だって、私は何もしてないもの。
何もしてないのだから、罪に問われるはずがない。
浮かんだ想像を振り払おうとする私を一瞥して、グリム先生が目を細めた。
「昨晩、侯爵夫人が亡くなった。
魔力毒に侵されたことによる衰弱死だ。
加えて、君がこれまで販売した化粧品から魔力毒性を含む物質が検出された。
微量だが、この国が定める基準量は超えている。
――処刑されるには十分な罪だろう」
喉の奥でひゅっと奇妙な音が鳴った。
寒さは感じていないはずなのに、身体が小刻みに震えて止まらない。
「ちが……違うんです。私、毒なんて盛ってません!
侯爵夫人も、きっと過労で……冤罪なんです」
「残念ながら、この世界は君が思っている以上に文明が発達している。
むしろ、魔力に関する研究は君の世界より進んでいると言っていい。
冤罪が一切ないとは言えないが……少なくとも、君の処刑に関しては妥当な判断だ」
紫水晶のような瞳が冷ややかに私を見下ろした。
「君は人を殺したのだから」
私が、人を殺した。
その言葉がぐわんと頭を揺らした。
記憶にある限り二度目の衝撃……あれ?
そういえば、私は前世でどうやって死んだんだっけ。
「世界は変わっても、君は同じ過ちを犯すのだな」
グリム先生の呆れた声が耳に届いた瞬間、封じられていた記憶が蘇った。
私には前世の記憶がある。
それも、この世界とは異なる世界の記憶が。
かつての私は日本という国に生まれたごく普通の女性だった。
取り立てて美人でもないけれど、醜くもない。
中小企業の事務員をしていて、残業は多いけれど土日祝日は休み。
貯金はそこそこ。彼氏はいないけれど、猫がいる。そんな生活。
名前は忘れてしまったけれど、目立たない名前だったことだけは覚えている。
そんな私の趣味は手作りの化粧品作りだった。
化粧水に乳液、ファンデーションやアイシャドウ。
自分好みの素材を調合した世界に一つだけの化粧品を使うと、不思議とその日一日頑張れるような気がした。
実際、化粧品を分けてあげた友人たちもこぞってそう言っていたから、私の化粧品作りの腕前はなかなかのものだったんじゃないかなと思っている。
だから、ネットで販売した。
可愛い容器に詰めた素敵な化粧水や乳液。
自然由来の成分で作った肌に優しいファンデーション。
アレルギーの人でも使える色とりどりのアイシャドウ。
本当に悪気はなかった。
ただ、知識がなかっただけで。
だって、化粧品の販売に許可が必要だなんて学校で教えてくれなかった。
自然由来の成分でも身体に害を及ぼすことがあるなんてテレビで言っていなかった。
アレルギーには種類があるんだって、友人は言わなかった。
褒めてくれた友人も、愛してくれた両親も、ファンすらも、私を責めた。
誰も教えてくれなかったから知らなかっただけなのに。
教えてくれていれば私だって気を付けたのに。
悪気はなかったんだって言っても、誰も許してくれなかった。
勤めていた会社は首になった。貯金はすっかりなくなった。
猫は「世話を見る余裕もないでしょう」と言って両親が引き取っていった。
平凡で目立たないはずの私は今やネットの有名人だ。
それでも私が生きていたのは、恩師の言葉があったからだった。
若いうちはいくら失敗してもいい。やり直す機会は必ずある……と。
やり直すために毎日を生きた。
未経験の工場で朝から晩まで働いて、泥のように眠って、また働く。
趣味も化粧も出来ないまま慰謝料を払い続けて、十五年が経った。
ようやく既定の慰謝料を払い終えたのは四十五歳の誕生日。
このころには私の名前もネットの海に埋もれて目立たなくなっていた。
これでやっと元の暮らしに戻れるんだ。
解放感に浮かれながら、化粧品の材料を買いこんだ。
といっても、手元にあるお金じゃお気に入りの素材には手が届かない。
前の私からしたらかなり妥協したものになってしまったけど、それでもまた趣味を始められることが嬉しくて仕方なかった。
出来上がったファンデーションを塗ろうと鏡を覗き込む。
その時になってようやく気がついた。
私はもう、やり直せないんだって。
鏡の中の私はすっかり若さを失っていた。
生活に余裕がなくて手入れをさぼっていた肌はカサカサで皺だらけ。
目元にはたるみがあるし、口角も不満げに下がっている。
おそるおそる頬に塗ったファンデーションはまるで粉を吹いたようだった。
私は何のために生きてきたんだろう。
これからは何のために生きればいいんだろう。
元の暮らしに戻るために一生懸命努力してきたのに、こんなのあんまりだ。
絶望しかない未来のことなんか考えたくなくて、解放されたお祝いにと買ってきた発泡酒を手あたり次第に空けた。
そうしたらだんだん気が大きくなってきて、どうして私がこんな思いをしなくちゃいけないんだって怒りが湧いてきて、私を見捨てた友だちも猫を取り上げた両親も憎くなってきて……。
それで、包丁を持って家を飛び出したんだ。
当時暮らしていたアパートは実家から徒歩で十分も離れていなかったから、目的の場所にはすぐに着いた。
それから、出てきたお父さんと揉み合いになって……。
それからのことはよく覚えてない。
気がついたら小さいころから見慣れた天井を眺めていた。
意識を失うまでの間、とても頭が痛かったことだけはよく覚えている。
「あ、あぁ……あ」
前世の記憶を思い出すにつれてずきずきと頭が痛みだした。
まるで最期の瞬間をやり直しさせられているように。
そんなの、もう体験したくないのに。
その時、床にうずくまる私の傍で大きな物音が響いた。
俯く視界に、よく磨かれた革靴のつま先が映り込む。
……え?
「だが、安心していい。クラリッサ・セリサイト。
言っただろう。私は君を迎えに来たと」
いつの間にかすぐ前に立っていたグリム先生が、そう言いながら私の前に膝をついた。
癖のない髪がさらりと肩から滑り落ちる。
普段は几帳面にまとめられている髪が下ろされていることに気がついたのはこの時だった。
「ほん、とうに……?」
「ああ、君は処刑されない。
君の両親が多額の金を積んだおかげだ」
処刑されない。つまり、死なずに済む。
その言葉は救いだった。
どうしてそれを伝えに来たのが父や母ではなくグリム先生なのか。
どうしてただの医師である彼が私の前世を知っているのか。
疑問は尽きないけれど、今は分からないままでいい。
だって、私はまだ裕福な子爵家の若くて可愛い一人娘のままなのだから。
事業はダメになったけれど、社交界での立場は地に堕ちたかもしれないけれど、それでも幸せを掴む道はまだ残っている。
これからはちゃんと、この世界のことも学ぼう。
それからしばらくは外国で暮らして……今度は料理を広めるのもいいかもしれない。
料理なら衛生面に気を付ければ人が死ぬことはないし。
そうと決まれば、まずは……。
「ただ、残念ながらこの世界は君を受け入れられない。
君は人間の法では裁かれないが、死神の――私の掟で裁かれる」
淡々とそう告げたグリム先生の手にはいつの間にか、背丈よりも長い大鎌が握られていた。
鋭い刃の輝きは本物だ。作り物なんかじゃない。
からからに乾いた喉の奥から微かな悲鳴が漏れたけれど、身体は動かない。
藻掻く私の前で、先生が大鎌を薙ぐように振るった。
最期に見たのは、この数日間で見慣れてしまった天井だった。