2話 美しき女王の醜き望み
「神の命に背きし者 神に従いし者
我が呼びかけに応えよ 我が望みを叶えよ――」
三日掛けて描いた陣の中に入り、教えられた言葉を慎重に紡ぐ。
失敗は出来ない。ここで間違えたら一からやり直すことになるもの。
私にはもう、時間がなかった。
「――我は汝に望みし者なり」
最後の言葉を紡ぎ終えると、途端に周囲に空気が重くなった。
窓のない地下室に風が吹き、陣のあちこちに置いた蝋燭の灯が揺らめく。
人ならざる者の魔力が辺りに満ちていくのを肌に感じて、冷や汗が背を伝った。
今から私は、禁忌を犯す。
悪魔の召喚という、どの国でも許されていない禁忌を。
王妃である私とて、見つかれば処刑されるでしょうね。
もう後戻りは出来ないのだし、出来たとしても止めるつもりはないけれど。
もしあの人が、陣を完成させるまでに一度でも昔のように私を見てくれたら――。
そんな感傷が胸を過ぎった時、陣の外が眩いばかりの光に包まれた。
思わず目を瞑った瞬間、空気の流れが変わる。
目を開くと、誰もいなかったはずの部屋に一人の青年が立っていた。
蜂蜜のような濃い金色の髪と、鮮血のように赤い瞳。
赤を基調とした華美な服装は、彼の華やかで整った顔立ちによく似合っていた。
派手だけれど品は失われていない。上位貴族の子息と言われても納得できるわ。
けれど、纏う空気が違う。にじみ出る魔力が違う。私を見下ろす目が違う。
なにより、その腕に抱かれた生首が彼が人でないことを明白に示していた。
みっともなく悲鳴を上げそうになるのを堪えて、悪魔の目を見つめ返す。
少しして、形の良い唇が静かに動いた。
「我が名はトレーラント。
アンネマリー・マルティナ・カテリーナ・クリスティン・ギフティル。汝の望みを述べよ」
「あの子を――娘を殺してちょうだい」
世界で最も美しい娘を殺すこと。
それが、私が悪魔を呼び出した理由だった。
「愚かな願いだということは分かっているわ。
けれど、私は誰よりも美しくありたい。
私より美しい者は許せないの――たとえ、それが娘であっても」
生まれた時から、私は誰よりも美しかった。
肌は大理石のように白く、髪は黒炭のように黒く、唇は薔薇のように赤い。
誰もが私の美しさを褒め称えたわ。私より美しい者などいなかった。
それが変わったのは第一王子である婚約者と結ばれた後。
娘が生まれてからだった。
初めは幸せだったわ。
肌は雪のように白く、髪は黒檀のように黒く、唇は血のように赤い。
私によく似たとても美しい娘を持って満足していた。
さすが私の血を引いた子だと誇りにさえ思っていたわ。
けれど、あの子が七歳の時に気がついてしまった。
あの子の美しさに。そして、私の醜さに。
鏡を見れば、日に日に美しさを失っていく自分の顔が目に入る。
外を見れば、日に日に美しさを増していく娘の顔が目に入る。
あなたこそ、世界で一番美しい。
かつては私が言われていた言葉をあの子が受け取るようになった時は気が狂いそうだった。
それは私に向けられるべき言葉でしょう。
世界で最も美しいのは私でしょう。
どうしてあの子が。私はもう美しくないというの。
『世界で最も美しい君を愛しているよ』
それでも私が正気でいられたのは、夫が常にそう言ってくれたから。
けれど、私は知ってしまった。
『君は世界で最も美しい』
夫があの子にそう言って微笑んでいる姿を。
彼は「世界で最も美しい私」を愛しているといった。
では、世界で最も美しくなくなったら?
――あの日から彼が私に「愛している」と言わなくなったことが、答えだった。
これが正しい選択でないことは分かっているわ。
母親なら、娘に嫉妬などしてはならないのでしょう。
母親なら、娘が美しくなったことを喜ぶべきなのでしょう。
母親なら、娘の生と幸福を願うべきなのでしょう。
けれど私は、母である前に女でありたかった。
夫にもう一度、愛していると言って欲しかった。
「報酬は」
「贄を捧げるわ」
悪魔の問いかけに曖昧な返事をしてはいけない。
付け入る隙を与えては魂さえも代償としてむしり取られてしまう。
召喚の儀式を行う前に読んだ本の記述に従って言葉を紡ぐ。
「報酬はお前が所有するものでしか払えない」
「贄は私の養子よ。問題ないでしょう」
悪魔と取引をする際、自分の所有物以外で取引をすることは認められていない。
その対策として、身寄りのない孤児を何人か私の養子にしてあった。
顔も知らない「養子」でも、正式な手続きを踏んだ以上は私のものだもの。
問題はないはずよ。
「それならば……」
そう言いかけた悪魔がふと腕の中の生首に視線を落とした。
聞き覚えのない言語でぽつぽつと独り言らしきものを漏らしている。
なにをしているのかしら。まるで生首と会話しているように見えるけれど……。
心の中で首を傾げた時、悪魔が顔を上げた。
「お前は娘の殺害を望んだが、本当にそれがお前の願いか」
「ええ、そうよ。さっきも言ったでしょう。
私は、自分より美しい者は許せないの」
眉をひそめる私をあざ笑うように、悪魔が口角を上げた。
「仮に娘を殺害しても、お前の老いは止まらない。
じきにお前よりも美しい者が現れるだろう」
それを聞いた途端、頭の芯がすっと冷えていった。
ああ、そうよ。どうして気がつかなかったのかしら。
あの子が死ねば、しばらくは私が世界で最も美しくなるでしょう。
でも、私が日に日に美しさを失っていくことに変わりはない。
いずれ今と同じ状況になることは明白だった。
「ああ……どうしたら、どうしたらいいの」
「永遠の若さと美貌を望むなら、叶えよう」
悪魔の誘いは私にとって魅力的だった。
そもそもあの子が私より美しくなったのは、私が老いたせいだもの。
最盛期の若さと美貌を保ち続けていれば、私より美しい女など現れるはずがない。
あの人も永久に私を愛してくれる。
娘を殺すよりずっといい案だった。
「何を渡せばいいの?」
「お前の子どもだ」
悪魔の言葉に一瞬、返事を躊躇った。
私が世界で最も美しいままならあの子への憎しみはないもの。
お腹を痛めて生んだ子を差し出すのは気が引けるわ。
……でも、永遠の美と若さへの誘惑には抗えない。
子供ならまた産めばいいわ。
私が美しさを取り戻せば、夫もきっと昔のように愛してくれるはずだもの。
「――私の子供と引き替えに、永遠の若さと美貌を望みましょう」
「アンネマリー・マルティナ・カテリーナ・クリスティン・ギフティル。汝の望み、叶えよう」
そう言って悪魔が差し出したのは、血のように赤く丸い果実だった。
あの子が好んで食べるアマルティアに見た目も匂いもよく似ている。
恐る恐る受け取ると、悪魔が口を開いた。
「それを食せばお前の願いは叶うだろう」
その言葉を最後に悪魔が姿を消した。
重苦しかった空気が消え、思わず息を吐く。
静まり返った部屋の中、手の中の果実に視線を落とした。
これを食せば私は永遠の若さと美貌を得られる。
そう考えると皮を剥くことすらもどかしくて、丸のままの果実に口をつけた。
さくりとした食感の後、甘酸っぱい香りが胸に広がる。
娘を悪魔に渡した罪悪感は既に失われていた。