17話 うまい話には裏がある
「私が愚かだったんだ。だから頼む……もう殺してくれ。
この願いが叶うなら、私の持つ全てを捧げる。
だから、早く! 早く殺してくれ!」
髪を振り乱し、緑の目を血走らせて男が叫んだ。
取り立てて目立つところのない壮年の男だが、その表情には鬼気迫るものがあった。
異様な光景にトレーラントが戸惑っているのを感じて、つい頬が緩む。
まあ、当然か。
悪魔に生を望む奴は多いが、死を望む奴はまずいないからな。
人間は脆い。契約なんてしなくとも死にたければ勝手に死ねばいい。
もちろん、この男にはそう出来ない事情がある。
あとでトレーラントに話してやろうと決めて、まずは口を開いた。
「いいだろう。お前に掛けた魔法を解く報酬として、お前の全てを貰う。
認めるなら、契約を」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男が手を伸ばした。
契約は成立だ。それもとびきりの好条件で。
五年前の予想よりもいい未来が訪れたことに頬が緩むのを感じながら、男に掛けた魔法を解いた。
「ああ……やっと、解放される」
涙ながらに呟いて、男が静かに床へ倒れ込んだ。
見る間に年老いていく男を見てトレーラントが小さく声を上げる。
「うわ、なんすかこれ?」
「不老不死を願った人間の末路だ」
「……つまり、不老不死を願っておいて殺してくれって言ってたんすか?
人間って、よく分かんないっすね……」
「仕方ないさ。人間は欲深いわりに脆いからな」
不老不死は人が悪魔と契約する理由の中で最も多いものの一つだ。
そして、悪魔にとって人を不老不死にするのはそれほど大変なことじゃない。
契約した瞬間の姿を固定すればいいだけだからな。
だが、これを求めた人間の大半は二十年もしないうちに魔法の解除を願う。
理由は様々だ。友人や家族に置いて行かれる孤独に耐えられなくなる者。不老不死がばれたことで受けた迫害や非人道的な実験からの解放を望む者。精神が老いすぎて生きる意味が分からなくなった者……。
今回の契約者が不老不死からの解放を望んだのは経済難が原因だった。
かつて「失った臓器や四肢を再生させる薬を安価に普及させたいから」という理由で俺と契約して永遠の生を手に入れた男はしかし、パトロンが死んだことで研究資金を失ったらしい。
それでも借金をして夢を追い続けたが成果は実らず、首が回らなくなってようやく現実を見るも返済のあてはなし。
自殺しようにも死ねないことに気付いて、俺に縋ったようだ。
まあ、仮に夢が実ったとしても結局不老不死は手放していたと思うけどな。
臓器や四肢を再生させる薬の普及なんて、王族や教会が認めるはずがない。
人間にとって治癒魔法は王族の、治癒魔術は教会の聖域なんだから。
そんなものを公表しようとしたが最後、捕らえられて死ぬよりひどい目に遭わされていたんじゃないか?
「人間って、なんていうか本当に愚かっすね……」
俺の説明を聞き終えたトレーラントが、ぽつりと零した。
それは常々俺も感じているが、今回に限っては擁護の余地がある。
「不老不死に耐えられる種族はそう多くない。悪魔ですら耐えられないからな。
もっとも、わざわざそれを望むのは人間くらいだが」
寿命がなく、核を壊されない限り生き続ける悪魔が消滅する理由は大きく分けて二つある。
一つは他者から攻撃されたり、事故で核が破壊された場合。
もう一つは、死を望んで自ら核を破壊した場合だ。
後者は特に、長く生きて生に飽きた高位の悪魔に多い。
そう言うと、トレーラントが形のいい眉をひそめた。
「つまり、サジェス先輩もそろそろ……ってことっすか?」
「いや、あいつは生を楽しんでるから違うだろ」
なにせ、少し前に俺を使った実験を始めたくらいだ。
生に飽きていたら正体不明の肉料理なんて絶対食わせて来ないだろう。
あいつがやりかけの実験を残して消滅を選ぶなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。
「なんだ、ずいぶんな言われようだな。
俺はまだ消滅するつもりはないぞ」
そう言って話に割り込んできたのは、話題の中心にいたサジェスだった。
血溜まりのように黒みを帯びた赤い瞳を男に向け、すぐにこちらへ視線を戻す。
どうやら、この男に用があってきたわけではないらしい。
てっきり、サジェスの契約に男が関わっている――そういうことは稀にある。婚約者のいる男と結ばれることを願う女と、婚約者に横恋慕する少女の死を願う女が別々の悪魔と契約するとかな――のかと思ったが、違うようだ。
「何の用だ?」
「今日の契約はこれで終わりだろう?
せっかくだから、可愛い後輩たちに食事を奢ってやろうと思ってな。
最近頑張っているようだから、ご褒美だ」
微笑むサジェスの口ぶりに嘘はなさそうだった。
もっとも、嘘を吐かれていたところで見抜ける自信はないが。
「俺はいいっすよ。明日は休みなんで、ちょっと遅くなっても平気ですし。
クラージュ先輩はどうっすか?」
「そうだな、肉料理でないなら喜んで」
「おや、俺が用意した料理は口に合わなかったか?」
「そんなことはないが、たまには別のが食べたい」
ミートパイにレバーパテ、ハーブの効いた腸詰によく煮込まれたシチュー。
毎晩サジェスが用意しておいてくれる肉料理はどれも絶品だが、素材が正体不明の肉であることに変わりはない。
せっかくなら別の素材の料理が食べたいというのが正直な感想だった。
「残念だ。お前の好きなユニコーンのローストがうまい店を見つけたのに」
「……それは例外ってことにしてくれ」
そう言うと、サジェスは声を上げて笑った。
少し悔しいが、ユニコーンのローストは譲れないから仕方ない。
あの澄んだ魔力を含む肉の味はたまらないからな。
「まあ、ローストの他にも色々と頼めばいいさ。
ほら、行くぞ」
さいわい、それ以上からかうつもりはなかったらしい。
トレーラントの腕を取ったサジェスが指を鳴らした瞬間、視界が揺れた。
サジェスが案内してくれたのは、小さくも温かみのある家庭的な店だった。
メニューにはユニコーンのローストやサラタンのビスクといった珍しい品が並んでいる。
なるほど、サジェスが好きそうな店だ。あいつは珍しいものが好きだからな。
気になったものを銘々頼んだので、テーブルの上は料理でいっぱいだった。
自分が頼んだスープにさっそく口をつけたトレーラントが歓声を上げる。
「クラージュ先輩! このビスク、すごくおいしいっすよ!」
「うん? ――ああ、確かにうまいな」
差し出されたスープを口にすると、濃厚な味わいが広がった。
魔物特有の複雑な魔力が、通常の甲殻類とは異なる独特の風味を出している。
一言で表すなら、手間暇の掛かったおいしさだった。
「口に合ったようで何よりだ」
桃色のリキュールを口にしながら、サジェスが微笑んだ。
リキュールの中に散らされたアルラウネの花がゆらゆらと揺れる。
「それで、わざわざここへ連れてきた理由は何なんだ?」
「言っただろう。お前らへのご褒美だ。付け加えるなら俺へのご褒美でもある。
可愛い後輩たちが食事を楽しむ姿を見ながら飲む酒は最高にうまいからな」
バフォメットの乳から作られたチーズをこちらに差し出しながら、サジェスが目を細めた。
その言葉に嘘が含まれているとは思わないが、それが全てではないはずだ。
差し出されたチーズを食べ終えた後、新たに何か食べさせられる前に口を開く。
「だったら、わざわざ個室を取る必要はないだろ」
俺たちが通されたのは、店内に並べられた席のどこかではなくその奥。
ひっそりと設けられた扉の向こうにある、小さな個室だった。
食事をするだけならわざわざこんな部屋を取る必要はない。
そう言うと、サジェスが「降参だ」というように両手を上げて肩をすくめた。
「お前は本当に細かいところまで気がつくな。クラージュ」
「それが唯一の取り柄だからな」
「お前の取り柄は他にもいろいろあると言いたいが、今は置いておこう」
指先まで整えられた手が俺の頬に触れた。
血溜まりを連想させる瞳が優しげに細められる。
「なに、たいした用件じゃない。ちょっと診察したいだけだ。
あの肉を食べて、お前がどう変化したかをな」
「診察って、なにするんすか?」
サジェスの言葉に、それまでビスクを楽しんでいたトレーラントが首を傾げた。
優雅に繰られていたスプーンは静かに置かれ、真紅の目はじっとこちらを見つめている。
あからさまに警戒した様子にサジェスが苦笑して口を開いた。
「ちょっと体内を調べるだけだ。いいか、クラージュ?」
「ああ、そういう約束だからな」
寝る場所を提供してもらう代わりに、正体不明の肉料理を毎日食べて不定期に検査を受ける。
それが俺とサジェスの間で結ばれた約束だった。
契約じゃないから反故にすることも可能だが、代わりにサジェスからの信頼は失われる。
俺にとっては利のない選択肢だ。選ぶつもりもなかった。
「すぐに終わるからな」
その言葉と同時に、サジェスの魔力が注がれた。
頭全体がほの暖かくなる独特の感覚に目を閉じる。
「――期待通りだな」
どのくらい経っただろう。
満足げな言葉が耳に届くと共に、体内を巡っていたサジェスの魔力が霧散した。
もういいぞ、というように頬をつつかれて目を開けると、上機嫌なサジェスと心配そうなトレーラントの姿が視界に映った。
「先輩、大丈夫っすか?」
「ああ。どこも変わりない」
そう答えると、トレーラントがほっと息を吐いた。
常に傍にいるようになって分かったことだが、トレーラントは案外心配性だ。
自分が未知の体験をする分には思い切りがいいが、他者が同じことをしようとすると途端に慎重になる。
後輩の意外な一面にこっそり苦笑を漏らしていると、サジェスが口を開いた。
「これなら、魔力袋は再生出来るはずだ」
「それはありがたいな」
魔力袋があれば、体内に魔力を貯め込んでおくことが出来る。
魔力回路がないから魔法は使えないが、頭の強度や筋力は上がるはずだ。
そうすれば、多少は動けるようになるだろう。
明日の休暇でトレーラントに羽を伸ばさせてやれるかもしれない。
トレーラントのことだ。今のままだと、俺の面倒を見る為に休日を潰しかねないからな。
魔力袋の再生自体は簡単だ。契約で得た魔力を変換して取り込めばいい。
悪魔なら誰でもやっていることだから危険なこともない。
丁度いいので、さっそく試してみることにした。
異質な魔力を取り込みやすくするため、まずは溶かしていく。
ここ最近は契約するばかりで変換まではしていなかった――魔力を貯め込む魔力袋がないのに変換しても意味がないからな――ので、普段より少し時間はかかったが、じきに魔力が溶けていった。
体内に少しずつ取り込みながら、頭の隙間に魔力袋を作っていく。
「――よし、出来たぞ」
「見た目は変わらないっすね……気分はどうっすか?」
「上々だ。今なら動けそうな気がする」
そういうと、トレーラントの目に期待が満ちた。
力を込めて、前に体重を掛ける。
すると、今までぴくりとも動かなかった視界がぐらりと揺れた。
「すごいっす、先輩!」
テーブルの上をごろりと転がった瞬間、トレーラントのはしゃぐ声が降り注いだ。
首に普段以上の力がみなぎっているし、成功と言っていいだろう。
……いい、とは思うんだが。
「先輩?」
「……酔う」
うん、すごい酔う。あと痛いし、案外自由に動けない。
冷静に考えれば当たり前だ。
人型の頭部は完全な球体じゃない。転がっても思い通りの方向に進むとは限らないし、その際に鼻や口が潰されれば痛むに決まってる。
クロスが敷かれたテーブルの上でこれなんだから、砂や小石が転がる屋外で同じことをしたら……あんまり考えたくないな。
そんなことを考えていると、サジェスがくつくつと笑いながらユニコーンのローストを俺の前に差し出した。
「まあ、身動き程度は出来るようになってよかったじゃないか」
「うーん……まあ、そうだな」
「あと、酒を飲まなくても酔えるようになった」
「酔うの意味が違うんだよなあ……」
何が悲しくて酒を飲む代わりに転がって酔わなくちゃいけないんだ。
そうぼやくと、サジェスは今度こそ声を上げて笑った。
…………覚えてろよ。
心の中でそう呟いて、差し出されたローストにかぶりついた。