15話 教えて! クラージュ先輩
「先輩、とことん毟り取ったっすね……さすがっす」
大切そうに小瓶を持った男が部屋を出ていくなり、トレーラントがどこか呆気に取られた様子で俺を見つめた。
まあ、一人の人間が持つ全てを奪い取ったようなものだからな。
俺としても、なかなか爽快だった。
そもそもあそこまで簡単に毟り取れるとも思っていなかったが。
トレーラントを召喚した時の様子からして悪魔との契約に慣れているのかと思ったが、どうもそうではなかったらしい。
ちょっとつついたらあっという間に深みに嵌ってくれた。
もっと抵抗されると思っていただけに拍子抜けだが、まあよしとしよう。
手持ちの魔法薬(もとい、サジェスに押し付けられた試作品)を渡すだけであれだけの報酬を得られるような、うまい取引は早々ない。
「でも先輩。あんなにちまちま毟り取る必要ってあったんすか?
報酬として肉体を要求すれば、それでよかったと思うんすけど」
「いや、全く必要ない。
ただ、丁度いい機会だからお前の教材代わりにしようと思ってな」
最初に断られた時点で「次の提案をする代わりにお前の全てを差し出せ」とでも言えば、男は頷いただろう。
それをしなかったのは、練習台になってもらうためだ。
契約の際、報酬として必ずしも魂や生命を得られるわけじゃない。
時には目や声、心臓なんてものを報酬として指定されることもある。
特に心臓のように生命維持に必要な臓器を差し出された場合は回収が厄介だ。
賢い(と、思いこんでいる)人間の中には「自分が報酬として指定したのは心臓であって命ではないから、死なないように回収しろ」と言ってくる奴もいるからな。
それで報酬を回避したつもりらしい。
そして残念ながら、そいつのいうことは部分的に正しい。
生命を報酬として得たのでない以上、少なくとも契約終了までは契約者に生きていてもらう必要がある。
そう言うと、トレーラントがあからさまに眉をひそめた。
「ええー、そんな面倒な規則あるんすか?
俺、いつも気にせず回収してたっす」
「目や手足ならそれでもいいだろうが、内臓系を報酬に貰う時は気にした方がいい。
回収中に契約者を殺すと面倒な書類をいくつも書かなくちゃいけなくなるからな」
「うう、絶対いやっす。想像しただけでいやっす」
山のような書類を書くところでも想像したのか、トレーラントが怯えたように身震いした。
本当に、冗談抜きで面倒だったからな。あの手続きは。
新入社員だった頃にあれを体験して以来、契約者の生死には気を配っている。
一応、手軽で確実な方法として回収が終わるまで契約者に生命維持の魔法を掛けるという手もあるにはある。
ただ、あの魔法は魔力の消耗がかなり激しい。
毎回あれに頼るくらいなら回収の練習に勤しんだ方がいいと思う。
魔力を節約すればその分、多くの契約を振り分けてもらえるからな。
「さいわい、あの男は生命も回収対象だからうっかり殺しても問題にはならない。
手間は掛けさせるが、練習台には丁度いいだろう」
何より、相手の苦しみが増える。
実のところ、それが最大の目的だった。
あいつのせいで、言うつもりのなかったことを言わされたからな。
もっとも、人間に悪魔の事情を察しろなんて言う方が無茶だ。
要するに八つ当たりだった。
まあ、運が悪かったと思って諦めてくれ。
「先輩、そんなことまで考えてたんすね……俺、頑張るっす!」
さいわい、トレーラントは俺の説明に何の疑問も持たなかったらしい。
真紅の目をきらきらとさせて意気込んでいた。
「でも、ちゃんと帰ってきますかね。
あれだけ毟り取られたら怖くなって逃げそうな気もするんすけど」
「あの様子なら大丈夫だろ。
仮に逃げられても捕まえればいい」
「それもそうっすね」
人間の居場所を特定するくらい、悪魔にとっては造作もない。
その時は王子の前で回収してもいいかもしれないな。
ああいう人間は、悪魔と契約したと大切な相手に知られるのを一番嫌がる。
もっとも、悪魔の契約についてあれだけ詳しい男が今更逃げるとも思えないが。
そんな予想通り、男はちゃんと帰ってきた。
ただでさえ白い肌が青褪めているが、足取りもしっかりしている。
普通の人間はだいたい腰を抜かすか、命乞いをするんだけどな……そこは素直に感心した。
「……報酬を、わたすんだったな」
「ああ。トレーラント、頼む」
「はい、先輩。どこからがいいっすかね」
「そうだな……傷つけると嫌だから、目にするか。
目は取り出したことあるよな?」
目は報酬に使われる身体の部位としては一般的な場所だ。
尋ねると、トレーラントが難しい顔で頷いた。
「ありますけど、最初の一回はだいたい潰しちゃうんすよね。
そういう時は治癒魔法をかけるんすけど……」
「痛みと恐怖で暴れるからな。
そういう時はまず、身体を固めるといい」
「こうっすか?」
その言葉と同時に、男の身体が凍り付いたように固まった。
うん、完璧だな。漏れもないし、むらなく均等に掛けられてる。
えらいぞ、と褒めるとトレーラントが照れたように笑って、男に近づいた。
涙がいっぱいに貯まった、不思議な色合いの目に指を伸ばす。
傷つけないよう慎重になっているのか、取り出す動作は丁寧だ。
この調子なら、任せても問題なさそうだな。
固まっていない――そこまで固めると息が出来なくなるからだ――喉から微かに漏れる悲鳴を聞きながら、回収作業を見守る。
作業が終わったのはそれから一時間後のことだった。
「終わったっす!」
「おっ、早いな」
「この人間、大人しかったんで楽だったっす」
「それが普通なんだけどな」
契約を結んでおきながら報酬の支払いを拒む人間は非常に多い。
むしろそれが大半だ。特に、命や魂で支払いをする時はな。
いやだ、助けてくれ、頼む、なんでもするから。
お前たちには慈悲も無いのか。
そんなことを言われるのはしょっちゅうだった。
契約は双方の同意で成り立っている。
いやなら契約自体断ればいいだけなのに、不思議だよな。
男――ラファエルみたいにちゃんと支払ってくれる人間が増えてくれればいいんだが。
「そういえば、先輩。
俺の前のトレーラントって、どんな悪魔だったんすか?」
そう尋ねられたのは、全ての契約を終えて部屋に戻った後。
用意されたパイを食べ終えて、あとは寝るだけという時だった。
「急にどうした?」
「ちょっと気になったんすよ。
そういえば生まれたばっかりの頃、やたら期待された時があったなあって思って。
もちろん今だって先輩たちが期待してくれてるのは分かってるっすよ。
でもあの時のはなんか、こう……」
「過剰だったか?」
尋ねると、白豹に姿を変えていたトレーラントがこくりと頷いた。
「先輩たちがしてくれる期待とは、ちょっと違ったんすよ。
「このくらい出来て当然だろ?」みたいな。
変化の魔法に失敗した時とか、すごい失望されたんすよ。
悔しかったから猛特訓して、見返してやったっすけど!」
「それは……気づいてやれなくて悪かった」
謝ると、トレーラントはふるふると首を横に振って俺の隣に丸まった。
太い尻尾が俺の顔をくるりと取り巻く。
「それは全然いいんすよ。だって、俺の問題っすから。
それに、おかげで今みたいに変化の魔法が得意になったんで。
ただ、不思議だったんすよね。なんで俺ばっかり言われるのか。
だから今回、俺の前にトレーラントがいたって聞いて気になって……あ」
そこまで言いかけて、トレーラントが何かに気付いたように声を上げた。
真紅の瞳が心配そうにこちらを覗き込む。
「ひょっとして、話したくないっすか?
そうっすよね。消滅したんだから、話したくないっすよね……」
「いや、それ自体は別にいい。
今まで話さなかったのは単に、必要がなかったからだ。
前任者のことを知る必要も、特にないしな」
現に俺も、自分の前にクラージュがいたかどうかさえ知らない。
気にしたこともなかった。
なにせ、名前が同じだけで自分とは一切関わりのない悪魔だからな。
そう言うと、トレーラントはようやくほっとしたようにため息を吐いた。
「じゃあ、話したくないわけじゃないんすね?」
「ああ。だが、俺から話すことはあまりない。
前任者のことを知りたいなら……そうだな。
明日、少し早起きして調べに行ってみるか」
一時間ほど早く起きれば、始業には間に合うだろう。
それで察したのか、再度丸くなったトレーラントが尻尾でつん、と俺の頬をつつく。
「なら、早く寝ないといけないっすね!」
「ああ。おやすみ、トレーラント」
「おやすみなさいっす、先輩」
……さて、明日は何を話すかな。
過去の思い出に蓋をして、俺も静かに目を閉じた。