10話 聖女の決意
「待ちなさい!」
悪魔の気配を感じて、とっさに浄化の魔術を放った。
魔術の発動に必要な詠唱と陣の展開を省略したから本来よりも威力は弱いけれど、それでも主の御力をお借りした術。
当たれば悪魔に傷を負わせることは出来るはずだと信じて。
「……逃げられましたか」
残念なことに、魔術が当たった気配はなかった。
けれど退けることは出来たらしい。
独特の禍々しい空気が消え失せ、強張っていた身体から力が抜ける。
よかった。アルフィオを守ることが出来た。
「どうして、ここが……」
消え入りそうなほど小さな声がぽつりと零れる。
そちらを振り向けば、はっと息を呑む気配がした。
「あ、いえ! ええと、そうじゃなくて……」
「落ち着いて下さい、アルフィオ。
それよりも、あなたに渡したいものがあります」
上擦った声で無理矢理言葉を紡ごうとするアルフィオを遮って、ここへ来た理由となったものを差し出した。
それを見たのか、アルフィオが小さく声を上げる。
「叔父様が知らせて下さいました。
あなたの部屋までお菓子を持って行った際、見つけたそうです」
「そう、だったんですね……」
もうすぐ取り壊される予定の神殿に私が来た理由。
それは、アルフィオの部屋に残された一通の置手紙だった。
手紙を見つけた叔父様がおっしゃるには、仕事が辛いので故郷へ帰るとだけ記されていたらしい。
だから私は彼を探した。
彼に謝り、せめて最後の見送りをするために。
初めて会った時から、彼は私の数少ない味方だったから。
平民出身で目の見えない私が聖女に選ばれたことをよく思わない者は多い。
聖女候補だった頃のように私物を隠されたり水を掛けられたりと表立った嫌がらせは無くなったけれど、代わりに根も葉もない噂を立てられたり、民のためを思っての政策案を無視されたりといった嫌がらせは頻繁にあった。
聖女は民の希望であり、彼らを守り慈しむ存在。
決して微笑みを崩してはいけない。怒りや憎しみを露わにしてはいけない。
醜い感情こそが、悪魔を惹きつける餌となるのだから。
聖書に記されたその教えを、私は忠実に守ってきた。
平民の出で両親もいない私が足元を掬われないためには、それしかなかったから。
けれど、傷つかないわけではない。
謂れのない誹謗に屈し、くじけそうになることは何度もあった。
そんな時にいつも傍で支えてくれたのがアルフィオだった。
孤児である彼に対する風当たりは、私に対するそれよりも激しい。
きっと、私よりも辛い思いをしたことも何度もあったでしょう。
けれど彼はいつも私のために憤り、悲しみ、泣いてくれた。
完璧な聖女であり続けなければならない私にとって、それがどれほどの救いだったか。
それだけに、アルフィオの手紙は衝撃的だった。
彼を追い詰められていたことに全く気が付けなかったから。
「ここへ来るまでは、あなたに謝ろうと思っていました。
あなたがこの仕事を辛いと感じているなんて、考えもしていませんでしたから。
手紙の内容が冗談だったらいいとさえ考えました。
でも……だからといってこんなことは望んでいません……」
「ベルティーア様……」
悪魔はかつて主に逆らい堕天した、穢れた存在。
彼らと契約した者の魂は、二度と主の御許へ迎え入れられることはない。
毎日誰よりも熱心に祈りを捧げていた彼なら、それも理解しているはず。
それなのにどうして……。
思わず唇をかみしめた時、ふっと意識が遠のいた。
きっと、無理に魔術を使ったせいでしょう。
陣と詠唱を省略して魔術を使用すれば、大きな反動に襲われる。
魔術師には常識であるその知識は、もちろん理解していた。
けれど、あの場ではそれが最良だった。
あと少し遅ければアルフィオと悪魔の契約は成立していたはず。
そうなってからでは取り返しがつかないから。
「ベルティーア様!」
よろめいた私を支えようとアルフィオが駆け寄る音がして……目の前で立ち止まった。
伸ばされた腕が引かれる気配がして、咄嗟にその腕を掴む。
ここで離れてはいけない気がした。
壁に預けていた身体を離し、アルフィオのもとへ歩みを進める。
「アルフィオ」
「だ、ダメです、ベルティーア様!
僕に触れたら、お身体が穢れてしまいます……!」
私の腕を振り払い、アルフィオは弾かれたように声を上げて後ずさった。
その声には怯えが混ざっている。
常に心を強く保ってきた彼らしくない声だった。
「僕は……自分のことしか考えられない醜い人間なんです。
そんな僕に触れたら……」
「あなたは穢れてなどいません。私が断言します」
全ての人は皆、死後に主の御許へ招かれて魂を浄化され、転生する。
生前にどれほど罪を重ねていてもそれは同じだ。
魂の浄化に長い時間はかかるけれど、それを終えれば転生出来る。
けれど、悪魔と契約した人間は違う。
取り返しがつかなくなるほど穢れてしまった魂は永遠に浄化されない。
それどころか、主の御許に招かれる資格すら剥奪される。
永久に闇を彷徨い、苦しむのだと……聖書にはそう記されていた。
でも、アルフィオは召喚こそすれ契約はしていない。
契約していないのなら、悪魔と対面しただけなら魂は清いままのはずだ。
悪魔の供物にされかけた教皇台下が、第七天使様に加護を与えられたように。
それなのに自分が穢れていると言い張るのは、罪悪感のせいなのでしょう。
不安そうに佇む彼の手をもう一度握って、声がした方へ顔を向けた。
「これだけは聞かせて下さい。
あなたは何故、悪魔を召喚したのですか」
「それは……言えません」
「言いなさい、アルフィオ。
悪魔を契約した者の末路をあなたは知っているはずです。
魂を悪魔に売り渡した者は、神の御許へ行ける機会を永遠に失うのですよ」
「……申し訳ありません、ベルティーア様」
どうして。
どうして私に隠し事をするの。
私はただ、あなたを助けたいだけなのに!
幼子のように癇癪を起しかけた己を、唇を噛んで押しとどめる。
そんなことをしても意味がないことは自分でもよく分かっていた。
悲しみのせいか怒りのせいか、溢れそうになる涙をこらえながら言葉を絞り出す。
「なにも、あなたを叱るために問いただしているわけではありません。
あなたが悪魔を呼び出してでも叶えたかった願いを知りたいだけです。
望みの内容によっては、叶えられるよう便宜を図りましょう。
ですから、アルフィオ。どうか……お願いですから」
彼が悪魔と契約してでも叶えたかった願いは、未だ叶っていない。
また、私がいない時に悪魔を召喚してしまうかもしれない。
今度は止められないかもしれない。
アルフィオを、私の大切な友を失うかもしれない。
押し寄せる不安に耐え切れず、言葉の途中で嗚咽が漏れた。
熱い雫が頬を伝う。
目の前の彼が小さく息を呑んだ。
「………………分かりました、お話します。
だから、ベルティーア様。どうか泣かないでください」
その懇願に頷くと、彼はほっと息を吐いて私の頬にハンカチを宛がった。
涙を拭きながら、ぽつりぽつりと召喚の理由を零していく。
――それは、すべて私のせいだった。
生まれた時から、私の目は何も映さなかった。
それを疎ましく思わなかったことがないといえば嘘になる。
目が見えれば、嫌がらせを受けることも減ったでしょうから。
けれど同時に、誇りでもあった。
主は決して乗り越えられない試練を与えられることはない。
私から視力を奪ったのは、主が私を試されている故。
心を強く持ち、正しい道を歩めばきっと主は認めて下さる。
今はもう亡い父母が、そう教えてくれたから。
……勇者様が現れるまでは。
今から約一年半前、異世界から勇者を召喚する儀式が行われた。
人々を堕落に誘う悪魔を殲滅するため。
そして、世界を平和に導いて頂くために。
現れた勇者――ユウト様は、一言で表すなら優しい方だった。
悪魔に支配されつつあるこの世界の実情に憤り、人々を守るために己の力を磨き、己を顧みることなく苦しむ人々に手を差し伸べられる。
この世界でも持つ者の少ない美徳と、勇者に相応しい力を併せ持つ人。
そして、この世界の常識や身分制度に捕らわれることのない唯一の人。
だから私も彼に惹かれたのかもしれない。
常に微笑みを浮かべた完璧な聖女でもなく、後ろ盾を持たず政治的に御しやすい聖女でもない、ただのベルティーアとして扱ってくれる彼に。
それが「勇者は神と天使への侮辱以外すべての罪を免除する」という特例故の扱いだということは理解している。
分かった上で、どうしようもなく彼に惹かれてしまった。
聖女はその座にいる間、清らかな身であることを求められる。
こんな思いを抱くなど許されないと分かっていたのに。
代々の聖女は異世界の勇者と共に浄化の旅に出る。
けれど、私は選ばれなかった。
目が見えないから。ユウト様の足手まといになるから。
私の代わりに巫女が同行すると告げられた時は、惨めさばかりが募った。
この目が正常なら彼と旅ができたのに。彼の側にいられたのに。
そう、望んでしまった。
聡いアルフィオはきっと、私の望みを察してしまったのでしょう。
私の脆弱な心と醜い欲望が、彼を駆り立ててしまった。
私のせいで。
「……そうですか」
それなら、もうユウト様への恋心は忘れよう。
長年支えてくれた彼をこれ以上危険に晒すわけにはいかない。
そう決めて、アルフィオの手を取った。
「……あなたには申し訳ないことをしました。
ユウト様――勇者様への思いは、もう捨てます。
ですから、あなたも私の目を治そうなどという考えは捨てなさい。
私に光を与えられなかったこともまた、主のご意志なのですから」
「そんな……」
アルフィオの声は暗かった。
けれど、ここで引いてはいけない。
例え善意からの行動であったとしても、悪魔との契約は罪になるのだから。
言葉を続けようとする彼の唇に人差し指で触れて、首を横に振る。
「そもそも、神に身を捧げる聖女が恋をすること自体おかしかったのです。
本来あるべき姿に戻っただけのこと。
あなたの責任はどこにもありません」
そう、全ての責は主に背いた私にある。
私が聖女としての自覚を持ち、己を律していたならアルフィオが悪魔と関わる機会などなかったはずなのだから。
「でも」
「今日はもう、部屋に戻りなさい。
言うまでもないと思いますが、このことは誰にも言わないように」
「…………はい、ベルティーア様」
アルフィオの声に、自らの言葉に胸がひどく痛んだことは気付かないふりをした。
私は聖女ベルティーア。
勇者の無事を祈り、国のために祈り、民のために祈る。神に仕えし女。
他のことを考える必要も権利も、私にはないのだから。