1話 首になりました。物理的な意味で
「先輩。起きてください、クラージュ先輩!」
なんだ、うるさいな。せっかく気持ちよく眠っていたのに。
そう思いながら目を開けると、ふわふわの白豹と視線が合った。
血のように鮮やかな赤い目がぱっと明るくなり、白い毛皮が頬に擦り付けられる。
「先輩! クラージュ先輩! 起きたんすね!」
「おい、トレーラント。いきなり……」
飛びつくな、と文句を言おうとした時、視界が大きく回転した。
周囲の景色が目まぐるしく変わって酔いそうだ。
いや、実際ちょっと酔った。
「わ、ごめんなさい!
今の先輩が転がりやすいこと、すっかり忘れてたっす!」
慌てたトレーラントの声と共にようやく回転が収まった。
怪我がないことを確認しているのか、柔らかな肉球が顔をぺたぺたと触ってくる。
くすぐったいけど、いい気持ちだ。肉球っていいよな。
……いや待て。そうじゃない。
「……トレーラント。俺は今どうなってるんだ?」
俺は普段、人間の男に姿を変えて生きている。
そのほうが契約を結ぶときに便利だからだ。
単純に、それ以外の姿に変化できないというのもあるけどな。
経験上、人間はあんなにころころ転がったりしない。
それに身体が妙に軽い上、まったく動かないのも気になった。
嫌な予感がするんだよな。切実に。
尋ねると、トレーラントが気まずそうな顔をしてぐるぐると唸った。
「ええっと……あんまりショックを受けないで欲しいんすけど……」
そう言って、トレーラントが前足を器用に使って俺の向きを変えた。
目の前に見えたもの――鏡に映った自分の姿に思わず目を見張る。
鏡の中の俺は首から下が消えていた。
どうやら、俺は首になったらしい。物理的な意味で。
どうりで身体が軽いわけだ。そもそも存在しないんだから。
ある意味、究極の減量方法かもしれない。他種族がやったら死ぬけどな。
まあ、それはいいとして……。
「……こまったな」
「やっぱり、どこか痛むっすか?」
「痛みはないが、このままだと契約が出来ないだろ」
俺たち悪魔は、首を切り離されようと心臓を貫かれようと死ぬことはない。
死ぬのは身体のどこか――大抵は脳の中心部にある核が壊れた時だけだ。
さいわい、俺の核は無事だった。
無事でなかったらトレーラントと話せるわけがないから当たり前だけどな。
だが、この姿だと契約が出来ない。
「首と身体が繋がっていないと契約してはいけない」なんて規則はないが、今の俺はただの喋る首だ。
自分の意思で動くことすら出来ないのに、契約なんて出来るはずがない。
まず、契約者の元へ向かえないからな。
「このままだと、首になるかもな」
「首にはもうなってるっすよ?」
「会社をって意味だよ」
「不吉なことを言わないで欲しいっす!
現実になったらどうするんすか!」
俺の言葉を聞いた途端、トレーラントの耳がぺたりと伏せられた。
普段は元気よく揺れている尻尾はすっかり丸まって、足の間に入れられている。
本気で怯えさせるつもりはなかったんだが、ちょっとやりすぎたか。
会社を首になるというのは悪魔にとって、文字通り死活問題だ。
契約が出来なくなるからな。
悪魔が核を維持するためには、定期的に他種族と契約する必要がある。
人間をはじめとする多くの生き物が呼吸しないと生きられないのと同じだ。
そして、その契約をするためには会社に勤めている必要がある。
個々で契約を結ぶことは数千年ほど前に禁じられていた。
悪魔優位の契約が横行したせいで他種族の数が激減したためだ。
そりゃあ、ちょっと力を貸すくらいで生命だの魂だのを要求すればそうなるよな。
他種族が滅びれば悪魔も滅びる。
それを防ぐために、当時の悪魔の王が会社を設立したらしい。
全ての悪魔は会社を通さなければ契約出来ない、という原則を定めて。
だから、トレーラントが会社を首になることを恐れるのも当然だった。
実質、死刑宣告みたいなものだからな。
もっとも、会社を首になるなんてことは滅多にない。
俺の記憶が正しければ、千年前に一名解雇されたきりだ。
一時的に契約できなくなったくらいで首になることはまずない。
トレーラントは新入社員だから、まだそのあたりの加減が分かってないんだろう。
「悪かった、冗談だ」
「言っていい冗談と悪い冗談があるっすよ……。
俺、いまだに先輩を見つけた時のドキドキが止まらないんすから」
「お、恋か?」
「恐怖っすよ! 先輩が首になってたっていう恐怖っす!」
からかうとトレーラントの尻尾が大きく膨らんだ。
ただでさえ毛に覆われて太い尻尾がさらに太くなってるのが面白い。
いや、面白がってる場合じゃないな。
そもそも、俺はなんで首になったんだ?
原因を探るべく、俺は意識を失う前のことを思い出そうと……。
「……まずいな」
「どうしたんすか?」
「記憶が飛んでる」
「ええ?!」
最悪なことに、俺の記憶は朝起きた時から今までの分が全て抜け落ちていた。
たぶん、首と身体を切り離された時に失われたんだろう。
さいわいなことに、それ以外の記憶は問題なく保持されていた。
契約の手順もトレーラントのこともちゃんと覚えてる。
俺が首になった経緯は分からないが、生活に支障はなさそうだ。
そう言うと、トレーラントの耳がぺたりと伏せられた。
「ごめんなさい。俺じゃ原因も治し方も、よく分かんないっす。
サジェス先輩だったら、治せたかもしれないっすけど……」
サジェスは人事部――つまり人間との契約を担当する悪魔の中では最も魔力が多く、魔法の解析や治療に長けた悪魔だ。
五千年は生きているだけあって、知識や経験も豊富にある。
確かにあいつなら記憶が失われた原因の特定や治療はお手の物だろう。
だが、トレーラントはまだ二百年しか生きていない。悪魔としては子どもだ。
年の割には優秀とはいえ出来ないことがあって当たり前。
悪魔の中でも年長者のサジェスと同じことを要求するつもりは最初からなかった。
というか、俺も出来ないしな。
「気にするな。今すぐに取り戻さないといけない記憶じゃないしな。
こうして起きるのを待ってくれて、説明してくれただけで十分ありがたいよ。
俺だけだったらきっと、状況の把握に時間が掛かったはずだ」
「俺もそう思って、課長にお願いして傍にいさせてもらったんす。
サジェス先輩は「命に別状はない」って言ってたんすけど、心配で……」
トレーラントはそう言って、俺を見つけた時のことを話し始めた。
それによると、俺は森で発見されたらしい。
「サジェス先輩と一緒に向かったら先輩がバラバラになっててびっくりしたんすよ。
しかも先輩の身体がボロボロで、声をかけても返事がなくて。
俺、先輩が死んだかと思ったっす……」
「ああ、悪い。心配かけたな」
しょんぼりとしたトレーラントを慰めていると、不意に扉が開いた。
「トレーラント。クラージュの容態はどうだ。何か変化はあったか」
そう言ってこちらにやってきたのは灰色のアザラシ、もとい課長だった。
つぶらな瞳と耳に心地よいバリトンが相変わらず全く合っていない。
まあ、上司相手にそんなこと口が裂けても言えないけどな。
「あ、課長!
クラージュ先輩の目が覚めたっす。無事っすよ!」
「そうか。ならばいい。
具合はどうだ、クラージュ」
トレーラントの答えに頷いた課長がそう言って俺を覗き込んだ。
くすんだ赤色の目には不安の色が濃く浮かんでいる。
心配を掛けたことに申し訳なさを感じながら口を開いた。
「少し身体が軽いくらいで、あとは平常通りです。
ただ、この状態なので身動き一つ取れませんが」
「そうだろうな。
他に異常はあるか」
「記憶の一部が飛んでいますが、契約に支障はないと思います」
「そうか……契約に支障がないのなら、まだよかった」
深くため息を吐いて、課長がそっと俺の顔に触れた。
ひんやりとしたひれの感触が心地いい。
「……ところで、俺はこの後どうなるんですか?」
さっきトレーラントに言ったように、このままだと契約が出来ない。
ただの怪我なら治癒魔法で治せるが、これはそうじゃないからな。
魔力で身体そのものを作り直す必要がある。
この損傷具合だと、完全に再生するまで一年半以上は掛かるとみていい。
普通に考えれば、身体が再生するまで休むことになるだろう。
ただ、ずっと契約出来ない状態が続くと俺は消滅する。
悪魔の中には数百年契約しなくとも平気な奴もいるが、俺はそうじゃないからな。
保って一月が限度だろうから、なんとかして契約する術を見つけたいんだが……。
「トレーラントと組め」
「俺っすか?」
突然話題に巻き込まれたトレーラントが首を傾げた。
通常、悪魔は単独で契約を行う。
新入社員に契約の仕方を教えるために同行させることはあるが、組みはしない。
そのほうが報酬の分け方などで面倒がないからだ。
召喚した側もどっちに願いを言えばいいのか戸惑うしな。
「どのみち、クラージュだけでは契約出来まい。
誰かと組ませる必要があるが、上位の悪魔に預けるわけにはいかない。
向こうの足手まといになるし、なによりお前も危険だ」
「まあ、それはそうですね」
上位の悪魔が任される契約は大抵、危険で厄介なものばかりだ。
悪魔を消滅させられる力を持った者が召喚者であることも少なくない。
俺が同行すれば戦いに巻き込まれて消滅する危険もある。
なにせ、今の俺は自分の身一つ守れないからな。
トレーラントは中位だからそこまで危険な契約は任されない。
俺を同行させても問題はないと判断したんだろう。
ただ、これをやるとトレーラントに負担が掛かる。
今の俺は実質、喋る置物だ。荷物以外の何物でもない。
後輩に迷惑をかけるのはかなり気が引けるんだが……。
「無論、トレーラントにも利点はある。
契約の仕方と魔法の扱いを教えてやれ。
今のままだと、トレーラントが上位になるのは難しいからな」
「ああ、なるほど……」
トレーラントは魔力こそ多いが、その扱いは割と雑だ。
魔力の豊富さに頼ってコントロールが甘い。
契約も同様で、なんでも魔法で解決したがる節があった。
課長の言うとおり、このままだと上位になれる可能性は低い。
上位に昇格する条件として、契約の件数やその内容が重視されるからな。
俺は逆に、魔力はさほど多くないがその制御には自信がある。
それを教えてトレーラントを成長させることが礼になるってわけか。
「トレーラントはどう思う?」
この件で重要なのはトレーラントの意思だ。
向こうが嫌だと言えば無理強い出来ない。
尋ねると、トレーラントが目をきらきらさせて答えた。
「大歓迎っすよ!
俺、先輩の契約一回見てみたかったんす!」
「なら、決まりだな」
「コンビ結成っすね!」
そう言って、トレーラントが太い尻尾を勢いよく振った。
普通の猫科なら不機嫌の証拠だが、トレーラントに限っては上機嫌の証だ。
俺や課長に遠慮して我慢してるわけではなさそうだな。
安堵に胸を撫で下ろす。まあ、胸はないんだが。
「よろしくっす、先輩!」
「ああ、よろしくな」
こうして俺とトレーラントは一時的に組むことになった。
契約件数をこなせばその分、身体が治るまでの時間も縮まる。
出来るだけ早く、元の姿に戻れればいいんだが。
「お前たちの処遇も決まったところで、さっそく仕事だ」
そう言って、課長が一枚の紙を取り出した。
悪魔を召喚した人間の名前や居場所といった情報と、願いの候補が記載されている。
見たところ、どれもさほど難しい内容ではなさそうだな。
人間が悪魔に何を願うかは実際に聞かないと分からないが、予想は出来る。
悪魔の召喚は手間や金がかかるし、なにより人間にとってリスクが大きい。
あいつらが暮らす世界では、悪魔の召喚は全面的に禁じられているからな。
その禁を犯してまで召喚するんだ。生半可な願いではないだろう。
そして、それほど強い思いを完全に秘めておけるほど、人間は強くない。
社長の情報収集能力と解析能力があれば、大体予測出来るってわけだ。
「ひとまず、お前たちにはこの契約を任せる。
他にも任せる予定だから、あまり魔力を使いすぎないようにしろ」
「了解っす! ……って、この姿じゃ契約に行けないっすね。
準備するんで、ちょっと待って欲しいっす」
その言葉が終わるのとトレーラントの姿が変わるのはほぼ同時だった。
白豹が消え、代わりに細身の青年が現れる。
肩まで伸びた金色の髪に、血のように鮮やかな赤い瞳。
そして遠目からでも目立つ真紅を基調にした豪奢な服装。
派手だが決して品を損なわないその姿は、白豹と同じくらい見慣れたものだった。
白く繊細な手が俺を軽々と抱き上げる。
「さっきの姿も気に入ってるっすけど、契約には向かないんすよね。
さ、先輩。今日の分の契約、ちゃっちゃとこなしちゃいましょう。
俺たちが組めば、どんな契約でも怖いものなしっすよ!」
「ああ、そうだな」
何件契約を任されるかは知らないが、トレーラントと一緒なら早く終わるだろう。
そんなことを考えながら頷くと、転移魔法特有の浮遊感に包まれた。
自分で転移する時よりも少し荒っぽい感覚に不安を覚えながら後輩に身を任せる。
数瞬後、視界がぐにゃりと揺れた。
さあ、楽しい仕事の始まりだ。