1.死馬の行方
馬捨て場というものがある。
田畑を耕し、物を運び、人を乗せて、生涯を費やした馬を捨てる場所である。
牛を捨てれば牛捨て場とも言う。
死骸だけでなく、まだ生きていようが老いればそこへ捨てられた。
人のほうにどんなに情があったとしても、働けぬ者に天命尽きるまで食い扶持を与える余地が、貧しい民草の懐にあろうはずもない。
通りすがりの者が気まぐれに飯を撒き、そこで牛馬はほんのわずかの余生を過ごす。
いずれ、捨てた者や施す者が進んで屠殺することはない。
それが彼らなりの人情であり、慈悲であった。
これまで苦楽を共にしてきた牛馬への情。また別に、落伍者たちへの慈悲である。
牛馬の皮は諸事に重宝し、その肉を喰らわば腹も満ちる。
よって馬捨て場には、浮世に喘ぐ者らが集まり、老いた牛馬を殺しては、皮を売り肉を喰らって生き延びていた。
実は獣らも同じく慈悲にあずかっており、その中には狐狸も当然含まれるのだが、それはともかく。
此度の話の始まりに、とある馬捨て場にて死骸を漁っていたのは、一人の憐れな男であった。
その男、もとは何者であったか定かでない。
男自身も、もはや忘れていただろう。白い蓬髪にも皺だらけの肌にも、長年の落ちぶれた日々が刻まれている。
これより何者にもなれなくとも、今はただ生き延びるため、各地の馬捨て場から糧を拾い、どうにか食い繋いでいた。
しかし、その日男が訪れた馬捨て場は、いささか奇妙な場所にあった。
牛馬の死骸、あるいは老いたものが捨てられるのだ、馬捨て場とは村からそう離れた場所にはできぬ。
ところが、その馬捨て場には不思議と近くに村が見当たらなかった。
藪の中の窪地に、腐った死骸が乱雑に打ち捨てられている。
よく見れば人の手足のようなものも死骸の狭間に生えている。それも一つ二つの数ではない。
五十か百か、いやもっとか。
肉や皮を取りに来て、獣に出くわし己が糧となってしまった浮浪者どもか。あるいは近隣在所の者が、合戦で死んだ武者でもまとめて捨てていったのか。それが証拠に鎧や刀も死体の山の中にある。
あるいは、あるいは・・・。
男とて少しも怪しまぬわけではなかったが、手つかずの新鮮な牛馬もそこにあればこそ、手を出さずにはおれなかった。
なにせ、男はしばらくまともな物を喰えてない。さらには、ここから程遠くない場所に、皮を売るのにちょうど良い町がある。ここで稼がずどこで稼ぐか。
夢中で馬の皮を剥いでいると、やがて日が暮れてきた。
欲掻く者は、忍び寄る闇に気を留めなかった。
それが最大の損であった。
日暮れと共に、男の背後の土が盛り上がる。
敷き詰まった死骸を押しのけ、巨大な手が大地を叩いた。
何者か。
振り返った男の目を、百個の瞳が見返していた。
顔に、胸に、手に足に。
体中の至るところ、人のような、馬のような、牛のような、大小さまざまな形の瞳が埋め込まれ、一様に赤く光っていた。
そやつが身を起こせば、いかほどの高さになろう。
男はその巨人の腰にも背が届かなかった。
「あ、あ、あ」
叫ぶこともできなかった。これほどまでにおぞましく、醜悪なものは見たことがない。
口の中が妙に酸っぱくなり、嫌な汗が出る。
あぁ死ぬのかと男は思った。
「・・・今ぁ、何時か」
すると巨人が口を利いた。
男からは影になってよく見えぬが、目ばかりの顔にも口があったらしい。
生臭い息が上から降りてくる。
「い、いま、いまか」
どういうわけか巨人は襲って来ぬ。
もしや助かる道があるのか。希望を持った男は必死に気を振り絞った。
「今はぁ、酉じゃ。日暮れじゃ」
ちょうど山影に沈みきった日の、残光が西に見える。
すると問いは続いた。
「キクリが死んでどれだけ経った」
「は?」
今度は答えがわからなかった。
キクリとやらを男は知らぬ。人の名だとしても、滅多に聞かぬ音である。
「どれだけ経った」
巨人は問いかけながら迫り寄る。
そのたった一歩で男は股の下に入ってしまう。
「十か、五十か、それともやっと百年か」
「し、知らん!」
耐え切れず、男は喚いて逃げ出した。
すると巨人は、
「そうかい」
ぷつりと、片手に潰してしまった。