3.二匹、まみれる
雨はしとしと降り続く。
心なし、田の蛙どもの声が大きくなってゆくようだ。
黒雲の途切れた村の外では月が照っており、遠く東の空に顔を出したものが、わずかに青く雨滴を光らせていた。
その時、ひたりと。
山林の闇よりいづる影があった。
ずんぐりと丸まった背。子供のように身丈は低く、あるいは老人が長い杖を突き歩いているようでもあった。
蓑をかぶっている。
その下に襤褸を巻いている。
蓑から出ている手足の形は人に似ているが、指は四本きりで、弾力のある枯葉色の皮に包まれていた。
尖った爪が真っ先に桶の蓋に触れる。
すると影は風船のように膨れた喉を鳴らした。
まこと、ぐぇぐぇ嬉しそうに。
これぞ幻夜のおぞましきもの。
千年妖、蝦蟇坊主。
桶にはいつの間にやら子分の蝦蟇どもがへばりつき、大合唱をしていた。
「さあ出ておいで。今宵の嫁御」
ゆっくりと蓋が開く。
その隙間を目がけ、先に声が走った。
「ゆけ!」
一瞬後、刃がまっすぐに蝦蟇坊主の膨れた喉を突く。
さえの渾身の刃は、柄まで皮に突き刺さった。
そこには短刀に化けた、いち子の勢いも乗っている。
「ぐえぇ」
たまらず蝦蟇は悲鳴を上げた。しかし、断末魔というものではない。
鳴いた拍子に蝦蟇の潰れた喉が再び膨れ、さえは弾かれ桶の中に尻もちをつき、短刀は高く宙に上がった。
「刺さらんか!」
宙でいち子は変化を解くや、今度は己の帯から短刀を抜く。
落ちざまに脳天を狙ったが、蝦蟇の杖で容易く切っ先を逸らされた。
水溜まりに転げ、ついでに蝦蟇を数匹背で潰す。
「狸かや」
一度刺された喉をさすり、蝦蟇坊主はじっとりと笑む。
皮膚は油ぎってまこと厭らしい。
いち子は何やらそれが異様に腹立って、間髪入れず再び坊主に斬りかかった。
先日喰った悪鬼一口と違い、小坊主のような蝦蟇は非力に見えた。
そのため、いち子はつい無謀になっていたのだ。
殺気を湛えたその顔面に、とびきり大きな蝦蟇が張り付いた。
桶に取り付いていたうちの一匹である。
「っ、なんやあ!」
慌ててひっぺがしたいち子だが、気づけば脛に蝦蟇どもがへばりついている。
しかも、足を振り上げ思いきり潰したとて、青い雨滴が死体に当たると、潰れた体が元通りになってしまう。
払っても払っても、きりがなかった。
「ひっ! ばかっ、触んなあ!」
素肌に張り付く蝦蟇は、いち子の半袴の中にも入ってくる。あるいは小袖の合わせ、後ろ襟の隙間を狙い、ぶよぶよした体をねじ込んでくる。
いち子に気にする余裕はなかったが、桶の中に落ちたさえも、すでに蝦蟇にまみれて姿が見えなくなっていた。
こうなればもう、千年妖を仕留めるどころではない。
「あ、あ・・・」
必死に着物の端を押さえたとて間に合わない。ぬるぬると蝦蟇が肌を這い、そのおぞましさにいち子は涙目となっていた。
蝦蟇などに弄られるならばいっそ、身を切り刻まれるほうが遥かにましである。
「良いのう、良いのう。何を企んでおったか知らぬが、狸娘もなかなかうまそうじゃあ。おぬしら、たっぷりほぐしてやれよぅ」
両手を揉み擦り、蝦蟇坊主は満悦の顔である。
とうとう腰を抜かして倒れたいち子の上に、その時、影がぼたりと落ちた。
蛇である。
それも一丈もある青大将であった。
途端に子分の蝦蟇どもは泡を吐く。そうしていち子のもとから蝦蟇が離れると、その腿や胴に大蛇がからみついた。
「今度はうまく化けられたぞ」
眼前にもたげた首が得意げに言う。
いち子は起き上がるや、その首を掴んで力まかせにひっぺがした。
「早う助けい!」
「すまんすまん。つい見入っちまった」
悪びれぬ蛇をいち子は力いっぱい蝦蟇坊主へぶん投げる。
さすがの千年妖が逃げ出すことはなかったが、大蛇の姿にわずか恐怖は芽生えたのだろう、杖をいらぬほど大きく横へ振ってしまった。
長い体は杖にからめとられたかに思えたが、そのすんでで蛇は小僧の姿に変わっていた。
がら空きになった蝦蟇坊主の脳天めがけ、太郎が刀を振り下ろす。
今度こそは弾かれない。
坊主の頭の皮は薄く、刀身が骨にめりこんだ。
「ぐぅ」
後ろに倒れかける千年妖へ、さらに太郎が迫る。
しかし先に蝦蟇坊主は己の杖を引き寄せ、二股に分かれたその先から鉄砲水を放った。
軽く吹っ飛んだ太郎を、すかさずいち子が横合いから腕を掴んで助け出す。
鉄砲水は山を出で、遥か遠くの田んぼまで飛んでいった。
「仲間がおったかよ。しかも男か。つまらぬのう」
脳天より血を流しつつ蝦蟇坊主が呻く。
とはいえ、太郎といち子が優位にあるわけでもなかった。
二匹の周囲には一度散った蝦蟇が再集結しつつある。どころか、もっと数を増やしつつある。
「いち子、畳みかけるぞっ」
「うんっ」
蝦蟇が取りつく前に、二匹は駆ける。
それぞれ得物は持っていない。いち子は蝦蟇にまみれた時に、太郎は鉄砲水に飛ばされた時に武器を失っていた。
互いの爪は鋭いが、長い杖が相手にあっては届かない。しかもこの蝦蟇、水まで吹く。
左右から同時に狙われたとて、術の得意な蝦蟇坊主は、水鉄砲を二つ放てば容易に退けられるのだ。
ところが、千年妖は少々心得違いをしていた。
この二匹、むろん相手を喰うのは当然として、目的がもうひとつ、術勝負を挑むつもりなのである。
蝦蟇坊主が二つ鉄砲水を放つ直前、二匹は突如、一匹となった。
走る途上で太郎のほうが刀に変じ、それを転げるようにして拾ったいち子が、下段から蝦蟇の腹を斬り上げる。
「ぐえ」
あいにくそこの皮は厚く、うまく斬れなかったが、苛立った蝦蟇坊主はいち子を目がけ、鉄砲水を杖から放つ。
ところが、今度はいち子が刀に変じてかわす。同時に元の姿に戻った太郎が尾の生えた柄を取り、またしても蝦蟇の脳天を殴りつけた。
「ぐうぅぅ」
宙に飛び上がった狐を杖で突こうとしても、またもや刀に変じてかわされ、元に戻った狸娘が狐の刀で殴りつける。
蝦蟇の視界は、今や地震のごとくにぐらぐらしていた。
「た、たまらん、たまらん」
「逃すか!」
背を向ける蝦蟇坊主を二匹は追う。
だが、その頃にやっと手下の蝦蟇どもが追いついた。
高く跳び上がって次々二匹の体にへばりつく。振り落とし、踏み潰したとて雨に当たれば蘇ってしまう。
「もう嫌やぁこいつらあ!」
いち子はまた蝦蟇まみれになる前に、蛇に変じて太郎に巻きつく。腰から首もとまでを締め上げられ、太郎は非常に迷惑した。
「こりゃあ、雨を止めんと殺せんぞ」
ひとまずいち子ごと木の上に避難し、着物に入り込んだ蝦蟇をつまみ出して、太郎は相も変わらず冷静に断ずる。
足止めされている間に、蝦蟇坊主のほうも雨を浴びて傷が治りつつある。
雨の中ならば己も手下も無限に蘇る。これこそ、この千年妖の最も手強いところであった。
「あの杖が水を喚んでおるのだ。あれを折ろう。それから殺す。あいつはなかなか斬れぬが、噂どおり組み打ちはそう得意でないと見た。二人がかりで時をかけりゃあ、殺せんことはない」
「うち、もう蛙にひっつかれるのはご免じゃっ」
「気張れ。俺らに退路はなかろ?」
「そんなん、わかっとるけど」
「わかっとるならやるぞ。終わったら魚を喰いにゆこうじゃないか。な?」
「・・・うん」
蛇が元のいち子に戻る。
二匹は太郎が木のうろに隠しておいた短刀を手に手に、気を入れ直し飛び降りた。
蝦蟇坊主へ襲いかかる間もなく、大量の蝦蟇が二匹に覆いかぶさる。
着物の端すらも見えない。
どんどん、どんどん蝦蟇が積み上がり、このまま生き埋めにするつもりである。
「やれやれ」
傷の癒えた蝦蟇坊主は、杖を振り雨ともにさらに蝦蟇を降らせる。
千年妖からすれば、小蠅のように湧いた狐狸二匹。とっとと始末をつけてしまいたかった。
ところが、蝦蟇坊主はその金目を急に、ぎょろりと回す。
山をなす彼の手下ども。その中に尻尾の生えた者がいた。
一つは茶黒。一つは赤茶。
蝦蟇坊主はじっとり笑んだ。
あの小憎らしい狐狸どもから、人の匂いがすることには気づいている。半妖であれば変化はうまくない。
化けて隙を狙うつもりであったのだろうが、しくじったのだ。
蝦蟇坊主はすばやく山に手を伸ばし、赤茶の尻尾をむんずと掴んだ。
「間抜けよの」
そのまま喰ってやるつもりで大口開けて引き寄せる。
すると。
「お?」
目の前に持って来た蝦蟇は、よく見れば尻尾が二つ生えていた。
茶黒と赤茶。
それが左右に分かれ、これ見よがしに揺れていた。
――刹那。
蝦蟇坊主の背後より影が伸び上がる。
「俺らの変化のしくじりは、五回にいっぺんじゃ」
太郎の振るった短刀が、坊主の杖を真っ二つに斬り折った。
すると降り続いた雨が止む。
後は木の葉に残った露が零れ落ちるのみ。
蝦蟇どもは皆、呆けて空を見上げた。
そのうちに坊主の手を抜け出し、いち子は足を振り上げ手下の蝦蟇を踏み潰す。
先の恨みを晴らすかのようである。
潰れた蝦蟇は、二度と元には戻らない。
「タマぁ、よこせや」
蝦蟇坊主はようやく悟った。
人の匂いに紛れていた半妖二匹の妖力が、生来のものではないことを。
間抜けた面はどこへ消えたか。
二匹は悪鬼のごとき笑みを浮かべ、悪鬼のごとき怪力で、蝦蟇を滅多打ちに打ち据える。
もとより狐狸にとって蛙は餌だ。
千年過ぎて、蝦蟇坊主はそのことを思い出した。
――そうして夜明けの頃に。
無残に頭を潰され、蝦蟇の妖魅は、とうとう死んだ。