30 望まれない勇者の事
スペンザの街の東、人類領側の大要塞の南、そこにザンダークという街がある。
人類領会議直轄の中立都市として存在するその街は大要塞へと運ばれる物資の集積地であり、そして戦いに疲れた戦士たちを癒す場所でもある。
美味い酒に美味い料理。それ以外にも人類領に存在するあらゆる遊戯がこの街に存在する。世界最大の歓楽都市。
大いに吞み、食らい、そして遊び、また戦場へと戻っていく。
剣の鋭く空気を裂く音を、戦斧の肉を抉る音も、戦棍が頭蓋を叩き割る音も、炎の魔法によって生きながら焼かれていく悲鳴、凍結に空気が引きつる音、雷撃が大気を破裂させる音。
音、音、音、音、音、音…………。
大量の酒精、大量の香辛料、笑い声、泣き声、喧嘩の声。
それらが戦場の音を消そうとする。
この体を覆い尽くしすり潰そうとする轟音の奔流を、それ以外の情報によって塗り潰そうとする。
それが歓楽都市の意義だ。
だが、わたしは好きになれない。
「セヴァーナ、聞いているか?」
「聞いている」
この辺りに満ちた生臭いにおいがセヴァーナは好きになれない。こんなところを利用する連中が本当に愛し合っているとは思えない。
とくにこんな街では。
みんな、戦場でのことを忘れたくて他の快楽に溺れているとしか思えない。
「わたしをこんなところに呼んでも、あなたの憂さ晴らしに付き合う気はないわよ」
「そんなことはわかっている」
ベッドが一つあるだけの薄汚れた部屋。
そんな場所が似合いそうにない男がセヴァーナを見つめている。
ユーリッヒだ。
オウガン王国侯爵家の次女とグルンバルン帝国侯爵家嫡男が、こんな一晩の逢瀬のための安宿にいる。
それはありえない話だ。
「話があって呼んだんだ」
「大事な話なのでしょうね? あなたとの間で醜聞なんて誰にも望まれていないのだけど」
「当たり前だ。それにおれも君も、人の目に付かない方法は心得ているだろう?」
「ええ。試練場で一緒に鍛えたわね」
そのときにはもう一人いた。
「わたしは、あのときのことは忘れない」
「おれだって忘れない。そして一応言っておくが、あれをおれだけの責任にしてくれるなと、言いたい」
「なにを!?」
「最後の階層でちょっとばかり心変わりしたからと言って、自分のやったことが消えると思うな。奴を排除すると決めたのは、おれたちだ」
ユーリッヒの言葉がセヴァーナの胸に刺さる。
彼の言っていることに嘘がないからだ。
勇者アスト。
シントラナ都市国ニジヤ村の出身のただの庶民。
だけど、心が強く、折れることなく、誰よりも強くなろうとした。
そして彼はあのとき、間違いなく、セヴァーナやユーリッヒよりも強かった。
いや、強さなんてどうでもいい。
庶民出の勇者なんて、いまさらいらないのだ。
いまの人類領会議を構成する国家の中で、大規模な国家の祖はそのほとんどが『勇者』の称号を神に与えられた者たちだった。
『勇者』の称号とは、すなわち神に選ばれたということそのものなのだ。
その称号、その事実は、そのまま王となる大義名分へとすり替えることが可能なのだ。
神に選ばれし『勇者』が王となって人を幸福に導く。
そんなことを言いながら二人の祖先たちは勇者を戴いてそれぞれの国を作った。
他の国も似たようなものだ。勇者のために武器を作った。勇者を育てた。勇者に協力した仲間たち。
勇者のため、勇者のため、勇者のため……人類領の国家とは、その根幹のどこかに必ず勇者という言葉が紛れ込む。
そんな世界だ。だが人類領にはもはや新たな勇者の名前を国名に刻む余地はない。人類領が席巻する大陸の南には隙間なく様々な国家が存在するのだ。
だが、アストの生まれたシントラナ都市国は彼の後援を放棄した。
彼の国はアストが生まれる前に起きた戦いで痛手を受けており、その余裕がなかったのだ。
故に彼は戦神の神殿に預けられ、そこで修行することとなった。
そして戦神の試練場でわたしたちは出会った。
望まれない勇者。
神に差し向けられたのに人に望まれない。こんな不幸が果たしてあるだろうか?
いや、あるのだ。
それはつまり、排除されるということだ。
放っておけばいいのにそれができない。勇者という存在にはそれだけ使い道があるということだ。
それでも彼は、しぶとく生きのびていた。
パーティでありながら決してたすけず、むしろ死ぬように行動していった。
決して直接的には行わず、事故を装うように。
この一件はセヴァーナとユーリッヒだけの考えではない。
お互いの家、そして所属しているそれぞれの王家が彼の殺害を認め、そして二人の背中を後押しした。
だけど彼は一年間、十五層まで生きのびていたのだ。
そんな強さは、いまのわたしにだってない。
降り注ぐ音の雨は、いまだってわたしを責めている。
「それで一体、なんの用なの?」
なに一つ気分の晴れない空間で昔の罪を思い起こされる。
たまらなく最低な時間だ。
青ざめたユーリッヒの顔を睨み付け、先を促す。
「アストだ」
「なに?」
「奴が生きているかもしれない」
「冗談はやめて」
「本当だ」
それから、ユーリッヒは語った。
彼の武器である太陽聖剣が戦場で砕かれ、その次を手に入れるために多少のトラブルが発生した。
そのことはセヴァーナも知っている。
新たな聖剣を手に入れるために太陽神は生贄を要求する。その生贄として予定していた聖女に逃げられたのだ。
クォルバル家は聖女が癒しの巡回を行っていたところで吸血鬼に攫われ、その資格を失ったと発表した。
結果は変わらないが、その出発点は聖女が生贄となるのを嫌がって逃げた。それが真実だ。
気持ちはわかるので聖女を責める気はない。
本当に太陽神が生贄を求めているのかわからないが、生贄を要して作られた聖剣の性能は本物だ。
気分の悪い方法だが、セヴァーナだって彼に匹敵する武器を家が家宝から引っ張り出してくれなければ、同じことが行われていただろう。
「その聖女がタラリリカ王国のスペンザにいることが神殿からの情報でわかった。彼女はたしかに吸血鬼に噛まれ、神官としての資格を失っていたのだが、その彼女を保護してスペンザにまで連れていった青年の容姿がアストに似ている」
「気分の悪い冗談だわ」
「冗談であればいいんだが」
ユーリッヒの態度はその言葉を真摯に望んでいるのがわかる。
冗談であって欲しいと。
もちろん、セヴァーナだってそうだ。
アストに対してどんな気持ちがあろうと、もはや彼はセヴァーナにとって罪の塊なのだ。
そんなものは見たくないし、近寄りたくないし、これ以上、音は増やしたくない。
アストが生きているなんて認めたくない。
「……どうする気?」
「死んでもらうさ、もちろん」
ユーリッヒの青い瞳が冷たく光る。まるで極氷の奥深くを覗いているような固い決意だ。
「いまのあなたの目、よく知っているわ。いずれ皇帝でも目指すの?」
「皇帝? 冗談じゃない」
冷たく笑う。
「おれが目指すのはそんなものじゃない」
ではなに?
だが、ユーリッヒはそれを語る気はないようだ。
……いや、なんでもいいか。
これ以上、わたしは音を増やしたくないのだ。
「……いまも彼はアストを名乗っているの?」
「いや、そいつの名前はルナークというらしい」
「ルナーク……」
その名前は聞いたことがある。
「待って、その名前って……」
「ただの偶然だろう」
それは、本当に?
ユーリッヒは簡単に切り捨てたが、セヴァーナはそうは思わない。
いや、たとえ偶然だったとしても、それは目に見えないなにかによって操作された偶然だ。
なぜならば、『勇者』とは神に選ばれた者のことなのだから。
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